久々のブログ更新です!
今日は最近知ったことで、
是非知っていただきたいことを書きます!

こちらの動画をご覧ください↓


佐渡島が今危険な状況であることが分かりましたか?
僕自身最近まで全く知らなかったことです。

佐渡島の道の駅が中国人に1円で売られたと言っています。
1円って・・・信じられないですね。。
更に、その中国人に佐渡市が1500万円も補助金を出しているのです。

その中国人は新潟国際芸術学院という学校の人で、
道の駅を学校として買ったそうです。
そしてそこに3000人の中国人留学生を呼び込むそうです。

佐渡市長にしてみればそれだけの留学生が来ることで、
経済的に潤うことができる、と考えているようです。
国防上のことは考えられていないのです。

長野オリンピックでは4000~5000人の中国人が集結しました。
20人の留学生に対し一人の指揮官が付き、
部隊行動をしていたそうです。

その指揮官は人民解放軍だったようです。
つまり軍事的訓練だったのです。


佐渡市に3000人もの中国人が来たら、
何があるか分かりません。
中国の佐渡侵略の意図が見え隠れしています。

また北朝鮮の羅津という港を中国は租借し、
七万トン規模の四号埠頭、などを建設するようです。
羅津から佐渡は一直線で行けるため、危険です。

現在尖閣諸島や竹島問題が話題に上りがちなのですが、
それは陽動作戦である可能性もあります。
尖閣に日本人の目を釘づけにし、
隠密裏に佐渡侵略を進めようとしているのかもしれません。

この市長の危機感のなさにも驚きます。
中国の手助けをしているかのようです。
やはり日本人が自分の手で自国を守るという決意がなければ、
日本は守れません。
今回の佐渡の件もより多くの人に伝えていきたいと思います。

参考サイト→北朝鮮の羅津(ラジン)港を租借した中国が、新潟の土地を狙う理由
お久しぶりです
3か月ぶりくらいかもしれないです・・・(´・ω・`)

最近HNを改名させていただきましたー
takesaikuって名前、呼びにくいし何か変ですし・・・

唆一と書いてさいちと読みます。
普段はSaichiという表記でやっていきたいと思います。

最近あまりブログが更新できてないですが、
これからもっと活発化させていきたいです・・・!

今日は短いですがこの辺で!

前回まで引用させてていただいた、
大東亜戦争の秘話という本の「アッツ島玉砕」、
今日はこれを読んでの感想を書きたいと思いますー。

アッツ島の戦いは本当に激闘だったと思います。
まず米軍と日本軍の規模の違い・・・
ざっと米軍が日本軍の4倍くらいです。
待っていた救援も来ることはなく、
日本は玉砕戦を強いられました。
米軍は投降を呼びかけ、
待遇は米軍と同じくすると言っても、
日本兵ままったく聞き入れませんでした。
そして玉砕してしまいました。

日本軍の強い精神を見ることができると思います。
捕虜になるくらいなら、
国のために死んだ方が良い・・・
自分はそんなふうに思うことができるのか、と思います。

また、山崎部隊長の死も壮絶でした。
撃たれても撃たれても起き上がり、
降参の呼びかけにも応じませんでした。
起き上がる気力も起きないはずなのに、
物凄い精神です。
ここまでくると相手側の米兵も戦慄したと思います。

日本兵の死んで日本を守るという精神、
自分はどうなってもいいから他者を、
という崇高な精神が日本にはありました。

そして天皇陛下のお言葉も素晴らしいです。
亡き英霊にしっかり感謝する、
日本の天皇と国民の形というものを感じます。

今の日本には、
戦前の日本人の精神、国体は、
既に無くなってしまっていると思います。
あまり戦前の日本の素晴らしさをに知る日本人は今いないですし、
日本のために死ぬことができる、
と言える人もあまりいないと思います。
日本人が戦後の時を経て、
国家観を失っているように感じます。

これでは今の日本は弱り、
中韓や他の国の勢力に押しつぶされてしまいます。。
実際に中国は日本を侵略しようとしています。

今日本は復活すべきだと思います!
僕もこのような精神はまだまだ持ち合わせていませんが、
努力していきたいと思います。
そして戦前の良き日本を取り戻したいと思うのです。




こんばんは~

今回も、前回からの引用の続きをさせていただきます!
今回でラストです。
(『大東亜戦争の秘話』 名越二荒之助著 1999年)

アッツ島玉砕戦の秘話(三)戦後には日米合同で慰霊
昭和二十八年、
日本が主権を回復すると、
太平洋の各地戦跡に、
慰霊巡拝が行われた。
アッツでも当時の首相吉田茂筆の「戦歿日本人の碑」が建てられた。
その時アッツ島の海軍司令ジュッド中佐(日本駐在武官経験者)は、
現地調査に協力した。
驚くべきことに、
米軍は三年前の昭和二十五年、
「山崎部隊長戦死の碑」を建てており、
日本人六十九人埋葬の標も発見できた。

死闘を繰り返した日米間だったが、
戦い終れば相互の勇戦に敬意を表する武士道精神が生れたのであろうか。
アッツの東側に位置したキスカ島に対しても、
米軍の空爆は繰り返された。
その時日本軍が撃墜した航空兵士に対してその勇気を讃え、
十字架を建てた。
次項の「キスカの十字架」を参照されたい。

日本政府は昭和六十二年七月一日、
アメリカ政府の協力によりアッツ島に「北太平洋戦歿者の碑」を建てた。
その日竣工追悼式が挙行され、
日本側からは畑英次郎厚生政務次官ら九人、
アメリカ側からは、
アンカレッジ内務省関係者や沿岸警備隊が参列した。
高さ約六メートルの慰霊碑は、
三角錐の集合体による三次元構成であり、
厳冬にも耐えるようチタン合金で造られている。



以上で引用を終わります。
感想を次回書きたいと思います!
こんばんは~

今回は、
前回引用した本(『大東亜戦争の秘話』 1999年 名越二荒之助著)から、
続きを引用させて頂きます。

アッツ島玉砕戦の秘話(二)ギリシャ史劇の再現とも
米軍は山崎部隊の弾も食糧も尽き、
大勢が決した頃、
投降勧告のビラを飛行機から大量に撒いた。
投降すれば待遇は米兵と変らず扱うと書かれ、
食事のメニューまで記されていた。
しかし投降に応じた者は一人もいなかった。
戦後、山崎部隊の最後の突撃を目撃したハーバート・ロング中尉は、
日本の記者の取材に応じて、
次のように語っている。

「先頭に立っていたのが、
山崎部隊長だったろう。
右手に日本刀、
左手に日の丸を持っていた。
どの兵隊もボロボロの服で、
青ざめた形相だった。
皆どこか負傷しているのだろう。
足をひきずり、
膝を屈しながらゆっくりと近づいてきた。
我々アメリカ兵は身の毛がよだった。
わが一弾が命中したのか、
先頭の隊長がバッタリ倒れた。
しばらくするとまた起き上がり、
また倒れた。
こちらは拡声器で、
降参せい、
降参せよと叫んだが、
耳を貸そうとしない。
遂にわが砲火が集中された」

戦時中「アッツ島最後の攻撃」と題して、
藤田嗣治画伯が油絵を描いている。
迫力溢れる壮絶な最後の肉弾戦の模様は、
ロング中尉の証言さながらであり、
その相似性に驚かされるのである。

また『戦士叢書』(アリューシャン作戦記録)によれば、
「ソ連はこの玉砕を、
日本の武士道精神の精粋なりとして、
小学校の教科書の教材として採用した」と、
記している。

特に当時の日本国民にとって、
アッツの玉砕は鮮烈な印象を留めた。
その後マーシャル群島(マキン・タラワ等)、
西部ニューギニア(ビアク)、
雲南・北ビルマ(拉孟、謄越・ミートキーナ)、
マリアナ群島(サイパン、テニアン、グアム)、
パラオ諸島(ペリリュー、アンガウル)、
小笠原群島(硫黄島)と玉砕戦が続き、
わづか二年間で十数カ所に及んだ。
サイパン、沖縄では非戦闘員までまき込み、
不屈の戦いが続いた。
欧米諸国民は、
その後展開された必殺の特攻作戦とともに、
「日本人によって成し得るギリシャ史劇の再現」と驚嘆した。


※次回またこの続きを引用させて頂きます。