実は旅に来てまっ先に巡った、沖縄南部の沖縄戦を巡る旅。

対馬丸記念館訪問の記事にも書いたけど、家族旅行では時間の都合でなかなか来れないし、今回は家族と合流する前だったので、仕事の前に駆け足で巡ってきた。

まず真っ先に向かった対馬丸記念館は、開館時間前だったのでスキップして(後日訪問)、旧海軍司令部壕に行ってきました。

海軍司令部壕、大日本帝国海軍の司令部として使われた防空壕で、敗戦1年前から作られたようですね。全長約450mで、つるはしなどを使って手作業で掘られた地下トンネルのような防空壕です。

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階段を100段ほど、20mくらい降りると通路が縦横にめぐらされ、指令室、医療室など10~20㎡の部屋があります。狭いから兵士さんは立ったまま寝てたような状況だったようです。壁には、米軍上陸後、手りゅう弾で自決したその弾痕のあともうかがえます。

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こちらで一番感銘を受けたのは、大田司令官の本土参謀本部へ向けた「沖縄県民斯ク戦ヘリ」。
長いけど皆さんに読んでほしいので、wikipediaから口語訳を引用させて頂きます。

沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。

敵が沖縄本島に対し攻撃を開始して以降、帝国陸海軍は防衛戦に専念し、県民の保護に関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集にすすんで応募。残された老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれながらも、ただ着の身着のまま軍の作戦の邪魔にならないよう狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも、風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。

しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。
どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女性は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜のうちに遥か遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。

つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして、草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。

沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。

最後の一文は、写真の掲示物の方がしっくりくると個人的におもったので、引用させて頂く。

「県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。」

後世である今、我々国民は平和についてどのように思い、その中で沖縄についてどのように思い、どれだけ寄り添い、そして考えているのか考えさせられましたし、考えないといけないのではないでしょうか。

沖縄戦のさなか、アメリカ軍が上陸し、司令部も包囲され、陥落間際のなか沖縄を思い、沖縄県民に寄り添い、覚悟を決めて参謀本部へ送った電文。この数日後、大田司令官は自決しております。

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