(BGM:A Flower Is Not A Flower by坂本龍一 & One more time, One more chance by山崎まさよし)
どうも。民中です。
今回はミニ四駆の話しはしません。小説家らしい話しでもしようかなと。
自分は映画をあまり見ません。
映画を見るのであれば、人に流されて見るような感じです。
ある程度の芸術感を持っている人であれば、見る映画くらいはこだわる人も多いかと思います。
実際自分もかなりこだわります。
人に聞けば『あれはいい!』『これがいい!』と言いますが、やはり大衆的意見であって、自分の目指すものではありません。
とか言って自分でその定義が決まっているというワケでもなく、その味の最もいい表現方法を未だに自分は知りません。
なら自分で作ればいいじゃんという厨房もいますが、残念ながらあれには100名以上の人間が関わっている訳で、自分独自であれこれやれなんてほぼ不可能です。しかもいくら小説家をしていたって脚本が出来る訳ではありません。脚本は小説の数倍は難しいし、『小説やってるから脚本もできます』という定義はこの世に一切存在しないし、自分から見ればまるでタイムマシンを1週間で作れと言っているような物です。
だから自分は映画を作れません。作るとしても脚本は間違いなく出来ません。見るだけです。残酷ですが。
なぜ残酷かというと、自分は見るだけで作れないという未練だけではなく自分自身が見ていいと思える映画も少ないといういわゆる生き殺しのような状態が普通にあるのです。これほど残酷な物も中々ありません。
しかも自分の住んでる所が田舎で映画館がありません。
自分はこの理念の本当の見解を探さなければならないのです。
そう言う面で自分の好きな映画である『耳をすませば』は理念を探していると思うのです。
耳をすませばを哲学的に見る人は少ないと思います。
あの作品は人が『何かを追いかける』という面を忠実すぎるくらいに表しているのです。
監督の近藤氏はまさに天才だったわけです。
求める物を求めるという映画もこれしか無いと確信しています。
もちろんこの作品は元は漫画なので、原作も同じ理念でしょう。
しかし映画はその原作よりもその理念に忠実になっていると言えます。
人から見れば原作よりもお堅いという人もいるかもしれませんが、映画化によってお堅くなった映画というのもなかなかないものです。逆に価値が揺らいだり、注目されなくなる作品もあるのです。
実際にグラミー賞とかを公開中に取ったりした映画はとたんに売れなくなるそうです。映画的に価値は上がっても、人から見れば自動的に価値は下がるのです。グラミー賞とかなんて取っても映画は映画になり続ける事は決して出来ないのです。理由は簡単。しっかりとした理念構成を求めていないからです。つまり大衆的を得たおかげで一番忠実にやるべき所の価値を下げている訳です。
そう言う面では『耳をすませば』はとんでもない魅力を持っている訳です。
そして糸井重里氏のキャッチフレーズが感動を誘います。
『好きなひとが、できました』
こんなに多くの要素を秘めたキャッチフレーズが何処にあるのでしょうか?
数ある糸井氏のキャッチフレーズの中で一番秀逸だと思います。
今でも近藤氏の急逝は残念でありません。
今のジブリ映画に自分は魅力を感じる事は出来ません。彼はそれほど偉大だったのです。
彼が行きていれば、宮崎駿氏の名はかなり廃っていると思います。
彼の死はそれほど日本の映画界の運命を変えてしまった訳です。
それ以後、こういうタイプの観点の作品は無い状態が続いていました。
しかしつい最近、その観点らしい映画を見つける事が出来ました。
それが『秒速5センチメートル』です。
まだ自分も見ていませんが、ストーリーを見ると『耳をすませば』を連想せずにいられません。
『どれほどの速さで生きれば、君にまた会えるのか』
新海誠氏の映画は元からみたいと思ってました。
efのオープニングムービーは21世紀に星の数程生まれるであろうギャルゲーの中で絶対に超える事は不可能だと思います。超えた作品があったとしたら、その作品は天文学ではおさまりきらないレベルでしょう。
そしてこの秒速5センチメートルは自分の求めるべき作品であると同時に、彼が導く作品であるから見てみたいのです。
新海氏の芸術感を見ると、どうしても近藤氏の面影があるのです。
彼の守護霊が近藤氏なんじゃないかと思うくらいです。
その証拠に彼は宮崎駿に勝った事があります(第59回毎日映画コンクール)。
これが何よりの証拠なのでは無いのでしょうか?
自分は自分の理念を秒速5センチメートルと新海誠氏に委ねてみたいと思います。