憎むとは待つことだ
きりきりと音のするまで
待ちつくすことだ
詩とは「書くまい」とする衝動であり、
詩の言葉は、沈黙を語るための言葉、
沈黙するための言葉である
シベリア体験を母胎にするとはいえ、石原さんの詩は絶対に被害者のそれではない。かといって告発者の高ぶりとも違う。僕は石原さんの詩の断言に近い口調のきびしさに感動するが、あの内律性の音響は、人間の孤立を極限値で計ろうとする凛たる虚無から発せられている。石原吉郎の詩は、作者が自ら禁じて書くまいとする一行にむかって常に屹立しているので、僕たちはそこでスリリングな公案にでくわざるをえないのだ。
山本太郎(現代詩文庫 石原吉郎詩集)
こんばんは ここ最近何故か石原吉郎さん関連へのアクセスが多いので 僕にとっても復習です
彼は終戦後シベリアでの過酷な抑留を体験 アウシュビッツを体験したドイツの精神科医
フランクルに例えられ「日本のフランクル」とも呼ばれています 敬虔なキリスト者でもありました
彼の詩の特徴は 正に上に掲げた詩人の山本太郎さんの美しい文章そのものだと思います
「作者が自ら禁じて書くまいとする一行」その一言一言 選びぬかれた 断言にも似た口調
寡黙でありながら その過激で真摯な詩情に思わず読者は襟を正す そんな数少ない詩人でした
でも 彼の詩には「祈り」がある それが救いだと思います
『位置』
しずかな肩には
声だけがならぶのではない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備の空がついに撓(たわ)み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である
石原吉郎詩集 <サンチョ・パンサの帰郷>
『花であること』
花であることでしか
拮抗できない外部というものが
なければならぬ
花へおしかぶさる重みを
花のかたちのまま
おしかえす
そのとき花であることは
もはや ひとつの宣言である
ひとつの花でしか
あり得ぬ日々をこえて
花でしかついにあり得ぬために
花の周辺は適確にめざめ
花の輪郭は
鋼鉄のようでなければならぬ
石原吉郎詩集 <サンチョ・パンサの帰郷>
『さびしいと いま』
さびしいと いま
いったろう ひげだらけの
その土塀にぴったり
おしつけたその背の
その すぐうしろで
さびしいと いま
いったろう
たしかに さびしいと
いったやつがいて
たしかに それを
聞いたやつがいるのだ
いった口と
聞いた耳とのあいだで
おもいもかけぬ
蓋がもちあがり
冗談のように あつい湯が
ふきこぼれる
石原吉郎詩集 <サンチョ・パンサの帰郷>
『礼節』
いまは死者がとむらうときだ
わるびれず死者におれたちが
とむらわれるときだ
とむらったつもりの
他界の水ぎわで
拝みうちにとむらわれる
それがおれたちの時代だ
だがなげくな
その逆縁の完璧さにおいて
目をあけたまま
つっ立ったまま
生きのびたおれたちの
それが礼節ではないか
石原吉郎詩集 <礼節>
『片側』
ある事実のかたわらを
とおりすぎることは
そんなはずでは
ないようにたやすい
だが その
熱い片側には
かがんで手を
ふれて行け
事実は不意に
かつねんごろに
熱い片側をもつ
石原吉郎詩集 <水準原点>
『麦』
いっぽんのその麦を
すべて苛酷な日のための
その証としなさい
植物であるまえに
炎であったから
穀物であるまえに
勇気であったから
上昇であるまえに
決意であったから
そうしてなによりも
収穫であるまえに
祈り であったから
天のほか ついに
指すものをもたぬ
無数の矢を
つがえたままで
ひきとめている
信じられないほどの
しずかな茎を
風が耐える位置で
記憶しなさい
石原吉郎詩集 <いちまいの上衣のうた>
『定義』
正確に名づけよう それは
いっぽんの笞を走る
ひとすじの火だ
正確に名づけよう それは
ひとすじの火が打つ
いちまいの頬だ
頬を打つひとすじの火を
その火に打たれる
いちまいの頬があれば
一冊の辞書は成立する
辞書をひらけ そして
つねに正確な定義を
探すのだ
石原吉郎詩集 <いちまいの上衣のうた>