1918年に第一次世界大戦が終了した後、1920年代には、パリの女性たちは長かった髪をばっさり耳元まで切り、唇には真っ赤なルージュを塗り、コルセットを外しパンツスタイルで自転車にまたがり、カフェでシガレット片手に男性さながらに政治を語るなどするようになりました。そうした時代、まさしくパリが花開き、そしてパリが華やかに浮かれた黄金時代は「狂気の時代Les année folles」と呼ばれました。しかし1929年の世界恐慌とともに、その華やかな狂気の時代は儚くも終焉を迎えました。その「狂気の時代」の象徴ともされた歌手がミスタンゲットMistinguett(1875-1956)で、華麗な舞台と脚線美で人々を魅了しました。15歳年下の歌手モーリス・シュヴァリエMaurice Chevalierと恋仲だったことでも知られています。歌では「サ・セ・パリCa, c'est Paris」が一番有名です。
朝倉ノニーの<歌物語>
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ミスタンゲット『私の男』
Mistinguett - Mon homme
ミスタンゲット 「私の男」
※訳詞は故・塚本邦雄氏(歌人)によるものです。
塚本邦雄 『増補改訂版 薔薇色のゴリラ』 より:
「「私の男」はミスタンゲットの傑作であるばかりではなく、シャンソン史の中に際立つ不朽の歌なのだ。もちろんこれをフレールやパタシューが歌ってもそれぞれに良い味をだしたことだろう。だがデュバやピアフはたとえ歌っても変に鋭い陰翳がつきまとって、前三者には及ばなかったに相違ない。(略)ミスタンゲットの「私の男」は纏綿の情を尽くして徹底的に聞かせる。嗄れて粘ったあのじゃらじゃら声がこれ以上考えられぬ効果を見せる。ジャック・シャルルとアルベール・ウィルメッツの詞、名手モーリス・イヴァンの曲、これが「ジャズるパリ」の主題歌に決まるまでの経緯には、シュヴァリエも絡んで歌以上に面白いのだが、それはともかく、人が見ればろくでなしの野郎に骨の髄まで惚れて、お先まっ暗のままあがき続け、恨みながらその二倍くらい惹かれる愛欲の無間地獄を、詞も曲も歌も完璧に描き尽くす。(略)こういう道具立ては特にフランスの小説や映画でいやというほど見て来たものである。にもかかわらずミスタンゲットが不精たらしい歌い口で、だるい節回しで訴えると、不思議に迫真力を持ち新鮮でさえあるのはどうしたことだろう。この歌が十五歳下の愛人シュヴァリエを写したものだからとか、実生活を土台にした人生記録の一こまだからだとかの穿った解説を、私は鵜呑みにしようと決して思わない。(略)体験もさることながら、それを発条として創り上げた技巧、芸の力だろう。(略)'20年の作品で私たちの聴けるのは'38年録音のものだ。六十五の老婆の歌、実生活云々を言うなら人生の黄昏におよんでの懐旧哀訴である。」
Mistinguett - Mon Homme
昨年2014年3月のカジノ・ド・パリでのミュージカル「ミスタンゲット、狂気の時代の女王Mistinguett, reine des années folles」でグアテマラ生まれのカルメン・マリア・ヴェガCarmen Maria Vegaがミスタンゲットを演じました。
ミスタンゲット(Mistinguett, 1873年4月5日 - 1956年1月6日)はフランスのシャンソン歌手、女優。本名はジャンヌ・ブルジョワ (Jeanne Bourgeois)。ミスという愛称で親しまれ、華麗な舞台と脚線美で「レヴューの女王」、「ミュージックホールの女王」と称賛された。
1873年、パリ郊外のアンギャン=レ=バン生まれ。父親はベルギー人でマットレス製造業者であったが早く亡くなった。ジャンヌは幼いころから活発、目立ちたがり屋で、7歳でスターになることを夢見ていたという。パリ・オペラ座の音楽家についてヴァイオリンと声楽を学ぶ。
「ミスタンゲット」とは、このころパリに向かう列車の中で知り合った、レヴュー作家のサン=マルセルが「ミス・タンゲット」と呼んだのが始まりである。これは当時流行していたシャンソン「ラ・ヴェルタンゲット」をもじったものであった。
(ウィキペディア)