おはようございます フランスという国は独自の美意識というか文化に対するプライドが高くて
そしてなにより「言葉」が美しい 「シャンソン」というジャンルも 見た目は砂糖菓子のような甘味な世界 でもどっこい したたかな「毒」がもられた刺激的な世界
ブラッサンス フェレ グレコ バルバラ ゲーンズブール・・・超個性的な世界
でも正直誰が好き?と問われれば 女性ではコラ・ヴォケール 男性では このモンタンかな?
何ていうか 「心の琴線に触れる」というか 傷口をそっと舐めてくれるというか そんな歌声
癒されるというか ちょっと辛い時 寄り添ってほしい そんな声
南フランスの美貌と恵まれた体躯と美声を弄んでいた青年 それを発掘して パトロンとして愛人として育成したのが シャンソンの最大スターであるエディット・ピアフでした
コラ・ヴォケール同様 プレヴェール=コスマのシャンソン歌わせると並ぶ者がいない
つまり 言葉に対する美意識とか感性とか・・・
後年は映画俳優としてのイメージの方が強いかな? アラン・ドロンとは別の世界
今日ご紹介するのは 多分デビューの頃の若くてヤンチャな歌声?
イヴ・モンタン 「向日葵(ひまわり)」
作詞はジャック・プレヴェール、作曲はジョセフ・コスマ。
訳詞は故・塚本邦雄氏(歌人)によるものです。
塚本邦雄 『増補改訂版 薔薇色のゴリラ』 より:
「山出しの女たらし、タキシードを着て五十カラットの石を指にはめても、マルセーユの-魚と潮風の臭いのつきまとう兄(あん)ちゃん。それもまた男の、あるいは牡の魅力の一-つであろう。男の原型と言ってもよい。その意味で、「向日葵(トゥールヌソル)」は彼-の秀作の第一に推そう。甘美で抒情的で徹底的に明るく、向日葵娘、すなわち名もない町-娘への言問いが繰りひろげられる。無内容と思えるまでに単純な詞、並の流行歌謡すれす-れまで平明軽快に作った曲は、しかしながらモンタンにぴたりである。そして詞・曲・歌-手の三位一体が醸し出す味は決して平俗なものでも安手なものでもない。」
イヴ・モンタン 「お祭は続く」
※訳詞は故・塚本邦雄氏(歌人)によるものです。
塚本邦雄 『増補改訂版 薔薇色のゴリラ』 より:
「プレヴェール=コスマ物も数ある中、初期の「お祭は続く」またの名「トタン屋」ほど-モンタンの特徴のきわやかな曲も珍しかろう。私はこの一曲を時々彼の最高作に擬するこ-ともある。詞はクープレやルフランの区別もなく、押韻の跡もさだかではない。酒場へト-タン屋の職人が入って来て酒を呷(あお)り、勝手な管を巻いて引き揚げるだけの鼻歌調-、陽気で屈託の翳もない。」
農民の子としてモンスンマーノ・テルメで誕生。母は敬虔なカトリック教徒であったが、父が強固な共産主義支持者であったため、当時台頭してきたムッソリーニのファシスト政権を嫌い、1923年に家族でフランスに移住した。マルセイユで育ち、港で働いたり、姉の経営する美容室で働くなどしていたが、次第にミュージック・ホールで歌うようになる。1944年にエディット・ピアフに見出され、彼女はモンタンにとって助言者また愛人となり、2人の関係は数年の間続いた。
1945年に映画デビュー。1946年に出演した『夜の門』で、主題歌の「枯葉」を歌ってヒットさせた。
1951年に女優のシモーヌ・シニョレと結婚。2人はいくつかの作品で共演している。夫婦でフランス共産党の活動に参加していた。1957年には妻シニョレ同伴で東側諸国全てでコンサート・ツアーを行った。
1961年に米国映画『青い目の蝶々さん』撮影の為に来日している。1月11日にパンナム機で羽田に到着したのち鎌倉、奈良、京都、などに約2ヶ月間にわたって滞在した。
モンタンの浮気がスキャンダルになったことが何度もあったが、マリリン・モンロー(『恋をしましょう』(1960年)で共演)の時は、シニョレが自殺未遂を起こしている。しかし、1985年に彼女が亡くなるまで一緒だった。モンタンはその後1987年、彼のアシスタントだった38歳年下のキャロル・アミエルと結婚、1988年に唯一の実子ヴァランタンをもうけた。
1991年11月9日、『IP5/愛を探す旅人たち』の撮影直後、心臓発作で倒れ、死去。
(ウィキペディア)