1982年広岡達朗監督が率いる西武ライオンズはパ・リーグを制覇し、日本シリーズでもセ・リーグ優勝の中日ドラゴンズを破り西武ライオンズとして初の日本一となる。

 だが西武ライオンズオーナー堤義明から出た言葉は「巨人を倒してこそ日本一だ」

 その言葉を受けて続く1983年も西武ライオンズはパ・リーグを制覇、対するセ・リーグを制したのは藤田元司監督率いる読売ジャイアンツ、いよいよ西武ライオンズと読売ジャイアンツが雌雄を決する時が来た。

 7試合中3試合がサヨナラゲームという死闘を制したのは西武ライオンズ、念願の巨人を破っての日本一となる。

 1983年オフ読売ジャイアンツは藤田元司監督が勇退し満を持して助監督の王貞治が監督に昇格する。

 監督1年目の1984年は優勝候補に挙がるも開幕10試合で1勝しか出来ずシーズン後半に巻き返すも、優勝した広島東洋カープに8.5ゲーム差を付けられ67勝54敗9分で勝率.554の3位で終わる。

 阪神タイガース日本一に沸いた1985年はシーズン中盤までは阪神タイガース広島東洋カープと首位争いをするも9月に失速、阪神タイガースには12ゲーム差を付けられ61勝60敗9分勝率.504の3位で終了。

 翌1986年は前半は2位で折り返すと阪神タイガースが優勝争いから脱落、広島東洋カープとの競り合いになるが残り2試合で最下位ヤクルトスワローズに痛恨の敗戦、結局75勝を挙げるも勝ち星が73勝だが引き分けが巨人より4つ多かった広島東洋カープにかわされて75勝48敗7分勝率.610の2位に終わった。

 迎えた王監督4年目の1987年、いくら世界の王でも4年連続V逸ではクビの二文字がちらつく背水の陣の年。2年目の桑田真澄が防御率1位並びに15勝をマークし打線もクロマティ、原辰徳、吉村禎章、篠塚利夫、中畑清が打率3割をマーク正捕手山倉和博は22本塁打を放った。6月に首位に立った後は一度も陥落する事無く10月9日に優勝が決まり最終的には76勝43敗11分勝率.639の成績だった。

 王監督念願の優勝に涙を流す選手もいたが正直リーグ優勝で燃え尽くした感は否定できず、相手はパ・リーグを2連覇中で日本シリーズを熟知している西武ライオンズ、厳しい戦いになるのは目に見えていた。