今日は9月11日。

この日は2001年に起きたアメリカの同時多発テロをきっかけに
「9.11(きゅー・いち・いち)」と呼ばれるようになってしまいましたね。

でも、今年の日本にとっては、
3月11日に起きた東日本大震災からちょうど半年という、
もう一つの意味を持った「9.11」になってしまいました。

私はどちらもリアルタイムでこの出来事に触れ、
生きる事や命、戦争と平和、争いについて考えました。

誰が悪いの??
どうして争うの??

9.11の時に私は考えました。
今でも疑問は続いています。


例えば幼い時、私はよく、
些細な事で同い年の従妹と喧嘩をしました。

「ぶたれた、私は悪くない」

「先にいじわるしたのは、私じゃない」

こんな言い合いの繰り返しでしたが、
それはあの時、私と従妹の間に限った事ではないのだと思いました。


でも、一つ、難しいのは、
必ずしも今を生きる人がその当事者ではないということ・・
つまり、歴史的に差別や虐殺をされた国や地域はあっても、
いわゆるその「仕返し」をしているのは当人同士ではない事もある、
だから終わりの見えない戦いが続いてしまう、
そう思いました。

こんな時、

「ごめんなさい」

という言葉はとても便利過ぎると、少しがっかりします。
「ごめんなさい」と言えば、謝意は表せるけれど、
本当に謝りたい時に限って、案外難しい言葉になる気がします。

とてもシンプルな言葉だからこそ、
本当の気持ちを込めて伝えるのは難しいし、
簡単な想いでは口に出来ない。

世界中、誰もが素直な気持ちで
「ごめんなさい」と言えて、
「今日からは仲良くしましょう」
って握手出来たら、どれだけ幸せになれるだろう・・・


それが上手く行かないのは、
「やった」「やられた」の歴史が深すぎるからでしょう・・・
非常に難しくて、残念な事です。


どんなに頭で考えてみても、
きっとどっちあが正しいか、答えはでません。
だからこそ、いっそのこと誰もがシンプルな心で、
お互いの事を愛せたら、と思うのです。


3.11をきっかけに、いくらかの人は心がシンプルになったと思います。
私もその一人です。
従妹とよく喧嘩をしても、雨戸の向こうで雷が鳴り始めた瞬間、
「きゃーこわい!!」と抱き合ったりしました。
お腹が空けば、一緒にゴハンを食べました。

喧嘩をしている場合じゃない、と気づいた時、
人はとてもシンプルになれるんじゃないのかな?
そうであったらいいな、と思います。



つれづれなるままに想いを書き綴りましたが、
なかなか想いが簡潔しませんね・・・


この辺りで一旦、手を止める事にします。