Sopa DE Casa旅情研究所 -5ページ目

普段だったら全然乗る必要がない汽車に乗っているときは、すごく気持ちが落ち着く。

 

ラッシュの満員電車のように、「これに乗らないと出社に間に合わない」とか、「乗っておいた方がいい」という判断基準ではない。「自分が行きたい先がそこにあるから」とか、「この景色が見たいから」とか、「そこに列車がやってきたから」とかいう、完全に自分の意志だけで、ふらっと飛び乗ったその余韻をずっと引きずっていられるからだ。

だから、席に座って眺める景色も、座席に腰を下ろして一息つく安らぎも、普段とは違って感じる。

 

 

日本の最北の岬を目指す、とにかくそこに行ってみよう。

 

まだ東京から北海道へ向けた寝台列車が走っていたころ、日々終わりのない物事や悩みに感覚がすり切れかかってしまった僕は、

なんかモヤモヤした頭を抱えたまま、上野駅で寝台列車に乗り込んだ。

 

これから先のこととかなど考えられず、今現在もどうしたらいいかわからず、そんなまさに「メンタルぼろぼろ状態」になりつつ、

頭の中に湧いて出た考えのが、「とにかく、この国の先っちょを目指そう。」ということだった。

 

ちょうど夏休みシーズンが始まったばかり。

3人家族客と一緒の開放B寝台(4人席)の上階に、一人お邪魔した。

軽くあいさつしただけで、なるべく邪魔しないように自分の時間を楽しむことにする。

 

寝台特急の旅は、それ自体が夢見心地で、初めて食堂車を使って一人ディナーをした。

 

「嗚呼、車窓に移る景色が実に美しい…」という気分を期待したのだけれど、正直、車内灯がふんわりと明るいので外は見えない。

ただときどき、シュァッ シュァッと小気味良いテンポで街灯が通り過ぎていくのを、ぼっと眺めるだけだった。

しかも、もう何十年も走り続けている列車の車内だからか、テーブルに座ると、足元には風を感じる。食べ終わる頃には、ちょっと足が冷えてしまった。

そうなのに、食べ終わってしまったらここを離れるのが惜しかった。普通の号車よりもちょっと広い天井と窓をもう一回仰ぐように眺めて、食堂車から自分の号車に戻った。

 

 

明け方は、待ち遠しさに早起きをして車内を散歩した。

朝焼けちょっと前の時間でもう外の光が明るくなっていた頃だった。

個室の号車を通った時に、個室のドアを全開にして窓の外を見ているおっさんを見かけた。おっさんも、昨日の僕みたいに、あとわずかで日の出になる外の景色をぼーっと見ていた。

廃止が決まっていた時期だったので、ぼうっとしながらもかみしめるように景色を味わっていたその表情が、印象的だった。

 

息遣いもひろってしまう車内放送を、ゆっくり聞きながら、札幌についた。

 

出発準備をしている間に、同じ寝台に乗っていた3人家族の方と、軽く会話した。

 

 ‐一人旅ですか?

 

 ‐そうなんですよ。

 

 ‐いいですね。

 

 ‐ご家族で旅行ですか?

 

 ‐そうなんです。もう廃止が決まって、最後に息子が乗りたいっていうから。

 

 ‐素敵ですね。とてもうらやましいです。

 

 ‐そうですか。ありがとうございます。あの、よかったら、これどうぞ。記念に。

 

 ‐あ、ビスケット。うれしいです。ありがとうございます。

 

 ‐それじゃ、良い旅を。

 

 ‐そちらこそ。楽しんでください。

 

 

着いた駅は、東京よりずっと涼しくて過ごしやすかった。

 

 

最果てまで、あと、370kmと、すこし。

 

(つづく)

 

 

▼このエピソードから、旅情を醸しだすキーワードや文章をピックアップする。
‐普段だったら全然乗る必要がない汽車に乗っているときは、すごく気持ちが落ち着く。…完全に自分の意志だけで、ふらっと飛び乗ったその余韻をずっと引きずっていられるからだ。

‐ただときどき、シュァッ シュァッと小気味良いテンポで街灯が通り過ぎていくのを、ぼっと眺めるだけだった。

‐おっさんも、昨日の僕みたいに、あとわずかで日の出になる外の景色をぼーっと見ていた。

→終始、「日常」の時間の感覚から切り離されている瞬間(瞬間と呼ぶには長いが)を演出する場が、「全然乗る必要がない汽車」。

 重要なのは、眺める景色そのものが大事なのではなく、眺めるための、「ぼぅ」っとできることなのかもしれない。

 そのための演出が旅情構成には重要なのではないか。

 

‐足元には風を感じる…なのに、食べ終わってしまったらここを離れるのが惜しくて、ちょっと広くなった天井と窓をもう一回仰ぐように眺めて、食堂車から自分の号車に戻った。

→「寒い」という、ネガティブな部分もありつつも、そこもひっくるめてこの場から離れたくないと思える雰囲気ができている。

 そんな「場」の魅力が、夜の食堂車には詰まっていたのかもしれません。

 許す、という感覚ではなく、ああこういうものなんだなと「受け容れられてしまう」感覚。

 それは、前述した「ぼぅ」っとした感覚が土台となっているからかもしれないです。

 

 

▼純粋な振り返り
ブルートレインは、私が子どものときにはまだたくさん走っていましたが、

いつか乗るぞ!とはしゃいでいたそんなころから大人になるまでに、ほとんどが廃止されてしまいました。

 

一旅行者・旅情研究家としては、「時代の流れで片付けてほしくない」と思う大切な観光資源足り得るものだと思いますが、

 ビジネスベースの課題や夜間の運航にかかる諸事情を考えると、本当に定時運行などはご苦労があったのだろうと推察します。

 ですが、新しい夜行(寝台)列車の登場には期待したいです

 (期待しつつ、あの旅情感を醸成する要素を、ぜひ突き詰めて明らかにしたいと思います)。