テーマ:映画紹介
映画「ペリリュー、楽園のゲルニカ」
2025.12.21-2025.12.31修正追記

(蛇足:2025.7から旧ツイッター「X」が再度凍結になり、審査依頼が通らない。暫く重点にしていた投稿ポストをできないから、ブログでの方針作りに方向転換集中しよう。)これってジョージオーウェル「1984年」か?紀伊國屋書店 https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784065370

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#地球はこんなに美しいのに何故人は争うのか?
#二度と戦争しない事が最高の慰霊
#武装非戦

【1】映画概要
(公式サイト)「ペリリュー、楽園のゲルニカ」 https://peleliu-movie.jp/index.html
~戦争が楽園を地獄に変えた、史実に基づく戦火の友情物語、生き残る、ふたりの約束
(上映劇場) https://toei-screeninginfo.azurewebsites.net/the
(本予告) https://peleliu-movie.jp/index.html (TRAILER)
(2025年製作・日本、原作・武田一義、監督・久慈悟郎、脚本・西村ジュンジ・武田一義、配給・東映、劇場公開日・2025.12.5)

(参考リンク)「ペリリュー、楽園のゲルニカ」 映画.com
  https://eiga.com/movie/103242/
~日本漫画家協会優秀賞を受賞した戦争漫画をアニメーション映画化
~太平洋戦争末期、ペリリュー島を舞台に、死んだ仲間の最期を遺族に向けて書き記す「功績係」を務める日本兵を主人公に、極限状態の中でも懸命に生きた若者の姿を描く
(引用者注記:ゲルニカとは、スペイン内戦でドイツ空軍による無差別爆撃を受けたバスク地方の小都市の名前。 蛮行に怒ったピカソが描いた絵画「ゲルニカ」の名前でもある)

【2】第2次世界大戦におけるペリリューの戦い
(1)「戦死者1万人…死闘を指揮した「南洋のサムライ」」(2019.8.4 読売新聞)
https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory
(パラオ地図) https://www.konchaweb.com/wordpress/wp-content/u
~昭和18年(1943)9月、米軍の日本本土への空襲を防ぐため、日本は死守すべき防衛ライン「絶対国防圏」を設けた。米軍は絶対国防圏内のサイパン、グアムを次々に攻略し、パラオを次の標的とした。パラオは第1次世界大戦後に日本が委任統治していた。
~ペリリュー島の守備にあたって三つのことを徹底した。
 第一に、島をまるごと要塞化した。島を綿密に視察し、 珊瑚礁 でできた島の鍾乳洞などを利用して壕と壕とを直角を交えた通路で縦横に結ぶ壕「地下複郭陣地」を造り上げた。直角の部分を設けたのは、敵が手りゅう弾を投げ込んでもその爆風を抑えることができるからだ。
第二に、住民を他の島に強制疎開させた。
第三に、「日本万歳」を叫んで敵陣に突っ込む突撃を禁じた。守備陣地が破られた場合は島の中央部に転進するよう厳命した。地下陣地を準備しても、自殺行為に等しい突撃で兵力を失っては持久戦にならない。
~この要塞化は「サイパン陥落の失敗を教訓に、戦術を転換した」(持久戦構想)。サイパンでは上陸してくる米軍を海岸線で撃滅する『水際短期決戦』で挑んで持久戦に持ち込めず、多くの兵士がバンザイ突撃で無駄に命を落とした。
 また民間人に「引き揚げ勧告」という不徹底な形で指令を出したために、疎開が遅れ、多くの人が「バンザイクリフ」から身を投げた。
~硫黄島の戦いは、ペリリュー島の戦術を全面的に参考にしている。
~昭和19年(1944)9月15日から、米軍は島の形が変わるほどの空爆と艦砲射撃を加えたが、日本軍は地下陣地で攻撃をしのぎ、米軍が上陸を始めると、速射砲などの砲火を浴びせた。
~攻防の末、米軍が上陸すると、日本軍はバンザイ突撃をせず島内に退いて、地下陣地を使って組織的なゲリラ戦法で反撃した。
~米軍は、火炎放射器を使って地下壕を攻撃し、日本軍も反撃し、凄惨な殺し合いが続いた。日本兵は飢餓と水不足という極限の状況に苦しみ、米兵はどこから攻撃してくるか分からない恐怖と疲労に苛まれた。
~11月8日、守備隊「最悪ノ場合ニ於テハ軍旗ヲ処理シタル後…全員飛行場に斬込ム覚悟ナリ」。パラオ本島司令部「飽クマデ持久ニ徹シ万策ヲ尽シテ神機到ルヲ待ツヘシ」。1万人の兵力は、すでに150人ほどになっていた。「神機」が到来しないことは明らかだったが、玉砕は禁止だった。
~11月24日、戦闘できる兵50人ほどになった守備隊はパラオ本島司令部に決別電報を送る。「敵ハ我主陣地中枢ニ侵入…陣地保持ハ困難ニ至ル」「サクラ サクラ サクラ 我ガ集団ノ健闘ヲ祈ル」この夜に部隊は玉砕し、守備隊長は地下壕内で自決する。
~一方、密林の洞窟内に玉砕・自決は伝わらず、なお持久戦を続けた兵士は、終戦後も日本の敗北を信じず、終戦から2年後の昭和22年(1947年)4月に投降した。最後の生存者は34人だった。
~米軍は上陸から3日後に飛行場を占拠したが、当初4日を予定していた島の攻略に、昭和19年(1944)9月15日から11月27日、2か月半を要した。

(2)「ペリリューの戦い」(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AA
~太平洋戦争中の1944年(昭和19年)9月15日から11月27日にかけパラオ・ペリリュー島で行われた、日本軍守備隊とアメリカ軍の陸上戦闘。
~日本軍:総員約10,500名、戦死者10,022~10,695名、戦傷者446名。生還残存者34名。
 アメリカ軍:総員48,740名、戦死者1,684~2,336名、戦傷者7,160~8,450名。

(3)パラオ・ペリリュー島内の地図 https://www.jiji.com/jc/worldcup2018?s=v4&id=201
「ぺリリュー、日米激戦の島Ⅱ」(JIJI.COM)
https://www.jiji.com/jc/worldcup2018?s=v4&id=201
~ぺリリュー島には、日本海軍の飛行場があり、フィリピン奪還を目指す米軍にとって、手に入れる必要があった。
~元海軍上等兵「交代で24時間、海軍戦闘指揮所の頂上で見張りをやっていた」「サイパン、グアム、テニアン、どんどんニュースが入って、玉砕した、やられたと。いよいよペリリュー島だなあという覚悟はしていた」「米軍の上陸は、艦砲射撃から始め、みるみる島は禿げ山になって」
~「通信壕にいて、今から戦車攻撃と、棒地雷というのは刀の鞘(さや)のような長さで、戦車でもキャタピラなんて爆発して使いもんにならなくなるから、棒地雷をとっとと戦車に突っ込む、結局はもう、戦車もろとも吹っ飛ぶ、特攻というようなもんですかね」
~「海軍壕、ある日、敵兵が「なんかここおかしいな、鍾乳洞のようだな」英語で分からんと、懐中電灯持って、近くなったら誰か手榴弾投げてね、飛び出しとった」
~「海軍の壕にいたときはポトン、ポトンって鍾乳洞から水滴を、缶詰の缶に受け止める」「外へ出られんで、なんかぬくくなったなあ、小便が流れてきよるわけで、もう結局、豚小屋ですよ」
~「カニとかは生で食ったり、食料はアメリカ兵から泥棒して、(戦後に残存兵が洞窟から)出てくるときでも、3年間分くらいの食料は確保していた」「私は見張りだったから、ああB24がフィリピンの方に行きよる、毎朝行くから、おそらくフィリピンの攻撃に行く、おそらく日本はかなり負けてる」「敵のごみためを漁りに行くと、雑誌捨てとるから、東条英機があれしたとか、沖縄にアメリカ兵が立ったとか。それでも、なんとか工作でこうやって載せているから、だまされるなっていうような人がほとんどだった、日本は負けてないって。機動部隊の反撃を待っていたわけですよ、我々は」
~「もう99.9%くらい負けているんじゃないかと、私は感じていた」「(私以外にも、終戦は本当なんじゃないかと思った人は)いましたよ、(ある人が)(自軍に)撃たれたときに、「何も・・まで殺さんでもいいんじゃないか」と言わなかったら、私も完全にやられてた」
~「(終戦後の昭和22年4月に)1枚の紙に裏表書いて、書き置きして脱走して。(米軍に保護された後、米軍の要請で残存日本兵に投降を呼び掛けていた海軍参謀長の)少将と対面し、(日本が負けた)証拠を見せてください、証拠がなかったら死ぬまで(仲間の)居場所も教えないと」「(隣の)アンガウル島まで連れて行かれて、初めて終戦というのが100%はっきりしてから(ぺリリュー島に)帰って、(壕へ)行って参謀長が呼び掛けましたけど「もうだめ、返事がない」と」
~「何とか考えて、(残存兵を壕から)出す方法はないかと。やっと思い出したのが「参謀長、私は4~5人の実家を知っとります。茨城県何々郡何々村」ちゅうて、「それだー」ちゅうて」
(郵便で)そこに終戦の証拠をくれちゅうて、家族の手紙。(それを持っていって洞窟の前で読み上げる)お前たちはこうやってここ、お前の兄さんはこうじゃろがって、その家族から送ってきた手紙を(読んだんです)。「参謀長、これだけ読んでも…。いないですばい、ここには」「そりゃ困ったな。もう1度読んでみろ」「そうですね」ちゅうたら、(洞窟の中から)「待て」っちと。
「迎えに来てくれちゅうて、入るからっち。敵じゃったら入ってこんですよ。迎えが行ったら、2人が出てきたわけですよ。出てきたから参謀長も中に入るわけですよ。参謀長が「俺は素手だ」と。「お前たちが何百丁機関銃を持っててもびくともしない」と。参謀長が「よし、入ろう」って言われてね。「うわー、お前たちはこんなところに住んでいたのか」全部聞こえるわけですよ。
~「陛下はいかがされましたか」。一番最初の質問はそれじゃった。「陛下はいかがされましたか」「陛下は安泰だ」。それが一番最初。
~昭和天皇から何度もご嘉賞もらって。元気百倍で戦いましたけどね。ペリリュー島は「天皇の島」ということをアメリカ軍が付けているくらい、陛下のために戦った部隊ということをつくづく感じましたね。あの海兵隊がやられてしもうたんですからね。
~(2015年4月9日、パラオ・ペリリュー島、平成天皇、皇后両陛下は「西太平洋戦没者の碑」に供花し、アンガウル島に向かって黙礼)(そこを今回、両陛下が慰霊されることでありがたいという気持ちは)あります。靖国神社に行った者がみな、初めて会いに来られているということを感じますからね。
~絶対戦争ちゅうのは勝っても負けてもこれはだめですね。いくら勝ったといっても、負けたといっても、同じことが戦争じゃないでしょうかね。どちらも楽にはならないです。ということを感じました。
~アンガウル島、元陸軍兵士:(南洋庁の水産試験場職員で現地召集)「アンガウル島に行かされたら、まず助からないと思った、それで慌てて遺書を書いて、内地に帰る人に頼んで届けさせた」「(終戦後に日本に)帰ってから遺書が届き、自分の遺書を自分で開けました」
 「(アンガウル島を守る日本軍は)一個大隊、1200名しかいません。(米軍は)2万人が上がってきた」「(弾は)最後の自決用のだけ。自決しろじゃあね、あまりにもひどすぎる。だから「くそ、死ぬもんか」と思った」「守備の日本軍は1カ月後に玉砕。負傷していて玉砕戦に参加できず、後ろめたさと飢えに苦しんだ。やがて米兵に見つかり、捕虜となった。アンガウル島の戦いで、生き残ったのは約50人だった」
~「(平成天皇、皇后両陛下のパラオ訪問を亡くなった戦友たちは)喜んでいると思いますよ。天皇陛下(昭和天皇)のためと言って死んでいるんですからね」
~(Wikipedia)(パラオは第一次世界大戦後に国際連盟による日本の委任統治領となり、1922年南洋庁がコロール島に設置されて行政の中心となっていた。
日本人はパラオに米食の習慣を定着させ、なすやきゅうりなど野菜やサトウキビ、パイナップルなどの農業を持ち込み、マグロの缶詰やカツオ節などの工場を作って雇用を創出した。道路を舗装し、島々を結ぶ橋をかけ、電気を通し、電話を引いた。南洋興発などの企業が進出し、水産業、リン鉱石採掘業と小規模なパイナップル農業が企業化されていて、1943年にはパラオ在住者は33,000人おり、その内の7割は日本本土、沖縄、日本が統治する朝鮮や台湾などから移り住んできた人達であった )「日本の(パラオ)統治は立派だったと思います。胸張って大威張りしていいと僕は思います。実際に肌で感じて、島民と生活していた期間もありますしね。本当は戦争さえなければ、一生いたかったです。」

(4)「パラオ・ペリリュー島レポート」(2019.4.22 甲飛喇叭隊:ラッパを奏する)
http://kouhirappatai.info/archive/report_peleliu
~(2019時点の)パラオ・ペリリュー島、戦跡写真等

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映画「ペリリュー 楽園のゲルニカ」【その2】【参考、補足】
映画「ペリリュー 楽園のゲルニカ」【その3】【「台湾有事は日本有事」なら絶対国防圏をどこに引くか:太平洋戦争の「戦域」を見てみた】
https://ameblo.jp/t1997/entry-12953229872.html