(3)第二次大戦後の米ソ対立と、近隣国の勢力均衡に利用されるクルド人
~(p78)クルド人が住む地域「クルディスタン」は5か国に分かれている。第二次大戦(~1945)後は東西対立で、(p86)対ソ連安全保障の中東(バグダッド)条約機構(1955)には、トルコ(旧オスマン帝国)、イラク王制、イラン王制、英国(イラク委任統治、1920-1932年)、パキスタンに、米国オブザーバーが参加した。(自由将校団が王制を倒した(1952)エジプトは、スエズ運河の国有化で英仏利権を終わらせ(1956)、中東地域でアラブ民族の統合を提唱していて、不参加)。
~同条約は、対共産主義が基本だが、(p96)各国内の反政府勢力であるクルド人対策でもあり、相互に越境攻撃を認めていた。反対に各国内・各国間のクルド人は、部族を養う土地を巡る争いや、保守的部族長対左派的政治組織の傾向の違い等により、それぞれ各国から武器支援を受けて対立することもあった。
~これに加えて、第一次世界大戦後の中東分割に対して、統一国家を目指すアラブ復興社会党(バース党)(p95)のようなアラブ民族主義の拡大を警戒する各国や、シオニズムで、パレスチナ人を追い出した土地に建国(1948)(p98)して、アラブ民族主義と対立するイスラエルが、各国のクルド人に、そのときどきの都合で武器支援等をして利用した(p96)。
~共産主義とアラブ民族主義に対抗する(p97)、イスラエルの諜報機関モサドと、同じくイラン王制の秘密警察サヴァック(p98)は、共同してクルドの諜報機関パラスティン(保護)を作らせて、軍事指導した(1964)。ムスタファ・バルザーニの息子、マスウド(p270)が長官になった。
~イラン・イラク戦争中(1980-1988)は、イラク・バース党政権を弱体化するために、イランがイラク内のクルド人を支援した(p56)。
~米国が、湾岸戦争(1990-1991)を経て、イラク共和国・バース党政権打倒に転じると、イラク内反体制派を支援した(p56)。
~関係国が、アラブ民族主義(統一国家)を警戒したように、北イラクにクルド人の自治区政府ができると、各クルド人組織・自治区政府が「内部対立や緊張をはらんで、強過ぎず弱過ぎずの状態に留まること」を望んで、対立する勢力の両方を支援するリスク・ヘッジをして、そのときの都合で支援を増やしたり減らしたりする(p57)。他方、クルド人組織が、対立する関係国の両方から支援を受ける逆のリスク・ヘッジもある。


(4)出身地で異なるクルド語
~英国ロンドンの公的施設で、トルコ出身者がクルド語講座を開いている。トルコ、イラク、イラン、シリア出身のクルド人9割と、イギリス人のクルド語を学ぶ人、大学生。教えるのは「トルコから北イラクで使う方言」だが、地域により方言が違い、大まかな意思疎通しかできない。トルコ出身者はクルド語で話せないことがある。イラク、イラン、シリア出身者は話せても、読み書きできないことがある。読み書きにアラビア文字を使ってきた人は、(トルコで使う)アルファベット表記ができない。アルファベットに特殊記号を付けて、区別する発音をできない人もいる。
~クルド語を「母国語として学びたい」人。家庭や出身地で使うクルド語が、他国出身のクルド人に伝わらず、学び直したい人。クルディスタンの親に手紙を出したいが書けない人。クルド民族に誇りがあるが、文化の基本の言葉ができない人。彼らがクルド語を学び、クルド人になろうとしている。
~出身地の違う人が出会い、宗教・食べ物の違い等を発見する。出身国・地域の違いが政治的立場・考え方の違いとして表れて、議論になる。またクルド音楽の演奏会があると、様々な出身国、職業のクルド人が集まる。このように英国・欧州のクルド社会との出会いになる(p258)。


(5)クルド研究所
~非営利の研究機関。トルコ、イラク、イラン、シリア、アルメニア出身の在欧クルド人が設立(1983~)。欧州各政府・EUや民間団体・個人から資金援助を得て、「ディアスポラ(離散)社会におけるクルド人の連帯」「欧州にクルド文化・歴史・現状の啓蒙」を目的に、教育・出版活動を行う(p154)。
~また欧米の大学等に、クルド研究室を持つところがある。


4 イラクのクルド人(23.5%、440万人)
(1)前記「はじめに」に書いた、2003年、イラクのバース党政権崩壊の前に、1990-1991年、湾岸戦争があった。イラク敗北後に、フセイン政権による、イラク国内のクルド人弾圧を予防するために、飛行禁止区域を設けた。ここが後に自治政府になる。現時点で、独立もしくは自治権を持つ「クルディスタン」に一番近づいているのは、イラクのクルド人なので、まずイラクを見てみる。
~クルド人は、イラク全人口の23.5%(440万人)。割合では、トルコと同程度だが、人口総数では、約3分の1。
~イラクは、周囲にシリア、トルコ、イラン、ヨルダン、クウェート、サウジアラビアがある。


(2)第一次世界大戦(~1919)後に、オスマン帝国(~1922)(p78)が分割されて、セーブル条約(1920)ローザンヌ条約(1923)を経て、クルド人がイギリス委任統治下のイラク政府下に居たとき、北イラクの北部、バルザーニ村(p71)に、アッシリアン(キリスト教徒でクルド反乱の鎮圧に参加した)を入植させようとしたとき(1931)、バルザーニ部族(イスラム系ナクシュバンディ教団の指導者の家系)(p73)とイラク軍・イギリス空軍と戦闘になった(p74)。敗れて軟禁されていたムスタファ・バルザーニは秘密裏に帰郷して(1943)(p75)、部族の建て直しを図ったが、国境を超えてイランに退却することになった(1945)(p76)。バルザーニ部族は、武勇と「略奪・無用な殺戮を行わない」特徴がある(p77)。


(3)イランで、第二次世界大戦中の英露駆け引きの中で機会ができた、初めてのクルド人の独立国家「マハーバード共和国」(1946.1-1946.12)に参加したが崩壊して、一部はイラクに戻りイラク政府に捕まる(p80)。ムスタファ・バルザーニと、500人は「a.イランで武装解除して暮らす・b.イラク政府に捕まる」の両方を拒んで、「クルディスタンの山・国境を超えて」ソ連に逃れる(1947.5)。スターリン統治下(~1953)のソ連は、ムスタファ他部族兵を、流刑等分散冷遇した(p83)。ソ連で11年亡命。


(4)マハーバード共和国の影響で、「イラクでのクルド民族運動の組織」として、イラクKDPを作った(1946.8)(p85)。名目的党首はソ連亡命中のムスタファで、書記長は共産党系。即ち保守的部族指導者と、左派知識人の合作だった。前者のムスタファと、後者のイブラヒーム・アハマド及び義理の息子のジャラール・タラバーニの二つの指導者系統は(p85)(p87)、後々までイラクのクルド人の運動で協力と対立を繰り返すことになる。後に政党名を「クルド民主党」から「クルディスタン民主党」に変えた(1950年代)のは、クルド人に限らず、地域に住むアッシリアン、トルコマン等を含むため。


(5)イラク王制を自由将校団が倒す(1958)(p88)。その将軍・後に首相のカーシムは母親がクルド人と言われ、イラク内でアラブ人とクルド人の協力を提唱したから、ソ連亡命11年を経て、ムスタファ・バルザーニが帰国した(p88)。ところがイラク国内では、アラブ民族主義者、共産党、クルド部族間の対立、KDP内の二つの指導者系統の対立、カーシム失脚と錯綜した上で、バース党(アラブ復興社会党)政権(1968)とクルド系KDPの対決という基本構図になる(p94)。


(6)イスラエルのモサドと、イラン王制のサヴァックは、クルドのKDPを軍事指導したが(p97)(1964)、第三次中東戦争でアラブ側が負けると(1967)、イスラエルが奪ったカラシニコフ銃他のソ連製武器が、KDPに流入した(p100)。


(7)イスラエルと、イラン王制の支援を受けながら、KDPはイラク政府・バース党と自治を交渉した(p102)。イラク政府は、クルド内で対立するタラバーニ(p279)を支援して分断を図ったが、以前からシャットルアラブ川の国境で対立するイランが、クルド人を支援する状態を終わらせるために、自治交渉で合意した(1970)。
~「憲法にイラク国民はアラブ人とクルド人から成ると書く、副大統領にクルド人を任命、政府の内閣・軍隊の上級ポストにクルド人が参加、クルド語教育を認める、第二国語にする、クルド人多数の地域を自治区に入れる、自治区政府の職員はクルド人かクルド語を話す人、クルド人の組織結成の自由、クルド地域の開発、離散クルド人の帰郷、農地改革」等。ただし合意の実施は遅れ、後に決裂する。


(8)イラク政府がソ連と友好協力協定を結ぶと(1972)、ソ連の接近を脅威と考える米国が、モサド、サヴァックと共に、CIAを通じてクルド人を支援することにした。これを背景に、自治交渉が決裂して、戦闘が始まるが(1974)(p107)、実際の支援は地上ゲリラ戦の武器だけで、ソ連製の攻撃用ヘリコプター等を持つイラク政府・バース党が優位になった。
~その上で、石油輸出国機構(OPEC)の会議に参加したイラン王制とイラク政府・バース党が、シャットルアラブ川の国境を「川の東岸から中央に変える」と合意した(アルジェの合意)(1975)(p108)。また「イランがクルド支援を即刻中止する」。更に「イラクは、イラン国境を超えてクルド人を追撃できる」。前記のイラン王制によるクルド支援は、国境でイラクの譲歩を引き出すための駒に過ぎなかった。
~支援するはずの、サヴァック、モサド、CIAが、引き揚げて、取り残されたクルド人、KDPをイラク政府・バース党が攻撃した(p108)。クルド人は全滅を避けるために、イランに退却した(1975)(p110)(p291)。
~スターリン施政下のソ連に11年亡命したムスタファ・バルザーニは、ソ連嫌いになり、米国を信頼していた。ところが米国の秘密工作を調べたパイク報告書が流出して(1976)、「クルド支援から、アルジェの合意までを、計画監督したのはキッシンジャー」で、イラン王制、米国、イスラエルによる裏切りと考えられている(p111)。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【その3】読書雑感「クルド・国なき民族のいま」

(9)1980年代のイラクKDP、PUKと、トルコPKKと、イランKDPとの係わり
https://ameblo.jp/t1997/entry-12566712786.html