6月下旬からオオムラサキの撮影から始まって、青い蜂まで、もう3ヶ月近く古墳館に通っている。奇妙山の左斜面が後半に出てくる川田や保科の百日紅(サルスベリ)の丘である。この辺の見渡しの良い山は、川中島合戦の名残で山城があった。上杉勢1万2千と、武田勢1万8千の合計3万の兵が川中島八幡原で激突したのである。両軍合わせて8千名の戦死者を出した。関ヶ原の戦いは約10倍の兵で戦ったが戦死者は同数である。地名として残る赤川(戦いが終わっても何日も赤い血が流れていた)や胴付橋(武田軍師山本勘助の胴と頭を付けた橋)はこの戦いの激しさを物語っている。武田方の尼飾り城、霞城、川田城をさけて上杉勢は須坂から山道を行軍して奇妙山の南斜面を通り妻女山に陣を敷いた。この妻女山の上杉方をおびきだすために、早朝早くキツツキ隊なる別働隊を組織して山本勘助が妻女山へ向かった、がもぬけのからだった。山勘の云われはここからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

百日紅の丘