『 軽皇子 ( かるのみこ )とは、
はたして、「文武天皇」のことか、「孝徳天皇」のことか?
と聞かれれば、私は、即座に、「文武天皇」ことだと答えます。




『『日本書紀』の「乙巳の変」・「大化改新」の前後箇所は、五〇年後の「プロト大化改新」が新羅の『ひどん(毘曇)の乱』を「手本」に、「なぞって」編纂されている。』

と、「前章」で書きました。



だから、『 軽皇子 ( かるのみこ )とは、「文武天皇」ことだと考えています。
「孝徳天皇」は、そもそも、実在の人物では無かったのでしょう。 』

とはいえ、ネットではどのように流布されているのでしょう。
以下、詳細を、抜粋・転載します。





文武天皇① ● 
【文武天皇 もんむてんのう 天武十二~慶雲四(683-707)
 諱:軽皇子】《魚拓》

文武天皇② ● 
【軽皇子 かるのみこ】
《魚拓》

文武天皇③ ● 
【軽皇子の立太子をめぐって】
《魚拓》

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孝徳天皇① ● 【第36代 孝徳天皇】⇒ 逃げられた!!(リンク切れ)

孝徳天皇② ● 【[感動日本史]軽皇子と鎌足】
《魚拓》

孝徳天皇③ ● 
〔2011年7月9日(土)〕【天に双つの日は無く、国に二人の王は無い。是れ故に天下を兼ね併わせて、万民を使う可くは、唯だ天皇ののみ】





イメージ 1



この系図は
【「Wikipedia:ウィキペディア」持統天皇系図(天皇系図38~50代)】
からの抜粋・転載です。



『日本書紀』の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代(実質3代)の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である



別図の
【A)百済・新羅王統譜合成の天皇系図・B)新羅王(天武系)系図・C)百済王(天智系)系図・他】

以前に『日本列島史抹殺の謎』(佐治芳彦・吾郷清彦・鹿島昇共著)から系図のみを書き出したものです。



このウィキペディアの系図には、何故か、孝徳天皇が入っていません。倭国灘波王家の当初の系図には「皇極天皇(斉明天皇)」のところには、伊勢王と記入されていたと考えます。ところが、「プロト大化改新」が50年前に移植される事になり、最寄の新羅「毘曇の乱」をモデルにでっち上げることになり、



更に、唐に恭順を示す為新羅の善徳女王・真徳女王を真似て、女性の皇極・斉明に置き換えた。たぶん奈良朝時代はちょうどこの系図の形だった。ところが、京都の桓武天皇は父祖を百済の義慈王の係累と飾る必要上、義慈王を舒明天皇に、その皇子の孝を孝徳天皇として、途中につなげたものと考えられます。



伊勢王・天智・天武が本来形でしょう。今ひとつは、蘇我倉麻呂はその女=娘を天智・天武の嫁がせています。古代では通常、服従を強いられ屈服した証しに娘を供したでしょうから…、「秦国」の王家が蘇我氏ならば、「秦国」は倭国灘波王家に途中に屈服していたことになります。吸収合併のようにですが。



『日本書紀』を素直に読めば、「蘇我倉山田石川麻呂」と言う人物像とは
【よろパラ ~文学歴史の10~ 萬葉人物列伝】
《魚拓》
とか、
【人物メモ・蘇我氏(分家)】◆蘇我倉山田石川麻呂◆
《魚拓》
での

『…途中略…』となるんでしょうね。

がしかし、『日本書紀』の記す「乙巳の変」「大化改新」は史実を、50年前へ移植したものと分かった以上、『日本書紀』はフィクションだとみなすほかありません。「好意的に時間・場所・登場人物を変更・切り貼りしたノンフィクション」というものがあるとすれば、僅かに「史実の断片」が残こされている可能性がある、ということかも知れませんね^^


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■ 続1) 軽皇子(かるのみこ)とは、
はたして、「文武天皇」ことか、「孝徳天皇」ことか? ◆ 文武天皇①


● 
【文武天皇 もんむてんのう 天武十二~慶雲四(683-707) 諱:軽皇子】
《魚拓》

《ご注意》: 以下はこの記事の抜粋・転載ですので、あしからず。





生没年 683(天武12)~707(慶雲4)

系譜など 天武天皇の孫。草壁皇子の子。母は阿閉皇女(元明天皇)。三世王であり本来は「王(みこ)」にあたるが(注1)、692(持統6)年頃の作と思われる柿本人麻呂の歌(01/0045)の題詞に軽皇子とあり、立太子以前から皇子としての扱いを受けていたらしい。これは父が皇太子であったための特例と考えられる。

藤原不比等の女宮子を夫人とし、首皇子(のちの聖武天皇)をもうけた。嬪には紀竈門娘(かまどのいらつめ)と石川朝臣刀子娘(とねのいらつめ)のあったことが知れ、『新撰姓氏録』に母を石川朝臣とする高円朝臣広世を、文武と刀子娘の間に出来た子であろうとする説もある。

名は珂瑠にも作る。万葉には軽皇子・大行天皇の名で現れる。また巻一の見出し「藤原宮御宇天皇代」の脚注には軽太子とある。漢風諡号は文武天皇、和風諡号は天之真宗豊祖父天皇。


中尾山古墳

略伝 689(持統称制3)年、7歳のとき、皇太子であった父草壁皇子が薨去。祖母持統天皇の庇護のもと、697(持統11)年2月、皇太子となり
(注2)、同年8月、持統の譲位を受け、15歳の若さで即位した(文武天皇)。

701(大宝1)年、『大宝令』を施行し、官名位号を改正した。以後、完成した『大宝律令』を天下諸国に頒布するなど、律令の整備に尽力する一方、南島に使を派遣し薩摩・種子島を征討するなど版図拡大に努めた。707(慶雲4)年6月15日、25歳で崩御。母阿閉皇女に万機を摂する詔を遺したという。遺体は飛鳥岡で火葬に付され、檜隈安古山陵(明日香村の中尾山古墳かという)に葬られた。万葉には1首、吉野宮行幸の際の歌(01/0074)。

(注1)上代、人名に用いられた「王」は、オオキミと訓むのが通説になっていますが、これは皇子同様ミコと訓むのが正しいと思われます。本居宣長は『古事記伝』において「古書にては、王は必ず美古(ミコ)なり、然るを美古と訓まざるは、後の親王(ミコ)諸王(オホキミ)の差別に泥みて、古を知らざる故なり」(二十二之巻)と書き、王・女王をオホキミと訓みならわしたのは奈良時代以降であると言っています。しかし、「親王」の称号が用いられるようになって以後も王をミコと訓んだらしいことは、王を親王と書いたり親王(内親王)を王と書いたりする例が奈良朝の文献史料に少なくないことから推測されます。こうした誤記は、親王も王も同じミコと訓んだことから来るものだと考えられるからです。そもそもオオキミというのは最上級の二人称的な尊称であって、皇子をさしおいて諸王に用いられるはずがありませんし、また人の名前に付けるべき語でもありません。諸王をオオキミと呼ぶようになったのは、上代についての知識が急速に薄れた奈良朝末期から平安時代初め頃ではないかと私は考えます。

(注2)日本書紀に立太子の記事は見えませんが、697(持統11)年2月28日、東宮大傳・春宮大夫任命の記事があり、また『釈日本紀』に引用する私記には2月16日に立太子した旨あります。前年高市皇子が薨じており、これを受けて皇太子に就いたものと思われます。


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■ 続2) 軽皇子(かるのみこ)とは、はたして、
「文武天皇」ことか、「孝徳天皇」ことか? ◆ 文武天皇②

● 【軽皇子 かるのみこ】
《魚拓》


《ご注意》: 以下はこの記事の抜粋・転載ですので、あしからず。





草壁皇子が薨去したとき、軽皇子は7歳だった。
持統は、自らの立場を守るためには、軽皇子への譲位が必須だった。
定説的には、愛息の草壁の血統で皇統を繋ぐため、と理解されているが、『大日本哥道極秘伝書』では、柿本人麻呂との密通事件から身を守るために、他の皇子が皇位に就くことは絶対に避けなければならないことだった。

しかし、軽皇子の立太子が、何の障害もなく進められたというわけではなかった。
そもそも『日本書紀』には、軽皇子の立太子記事が載っていない。
『続日本紀』に、持統11年立太子という記事がある。その時の様子について、『懐風藻』の次の記述が論議の対象となっている。

高市皇子が亡くなると、持統は群臣を集めて皇太子の問題を論議させた。しかし、「衆議粉紜」でなかなか決まらなかったらしい。
その時に、天智の皇子大友の忘れ形見の葛野王が、次のように主張したと『懐風藻』に書かれている(高橋紘、所功『皇位継承 』文春新書(9810)、07年9月11日の項)。


我が国家の法たるや、神代より以来、子孫相承けて天位(皇位)を襲(ツ)げり。もし兄弟相及ぼさば則ち乱これより興らん。……然して人事を以ちて推さば、聖嗣自然に定まれり。この外に誰か敢えて間然せんや。

日本では古来から直系相続が行われており、兄弟相続は争いのもとになる、というような意味である。
実際には古来から兄弟間での天皇位の相続は一般的であり、それについて弓削皇子が葛野王に問いかけようとした矢先、葛野王は弓削皇子を一喝したという。
結果として、弓削皇子も持統天皇の意向を呑み、軽皇子を皇太子とすることが決定した。

ということは、高市皇子存命中は、軽皇子の立太子をテーマにすることさえできなかった、ということである。
持統11年とすれば、持統が正式に皇位に就いてから7年後のことである。
軽皇子の立太子が如何に難しかったかを示しているともいえる。

その間に、持統は驚くべき頻度で吉野行幸を繰り返している。
この吉野行幸については、さまざまな解釈があるが、柿花仄『帋灯猿丸と道鏡』東京経済(0309)では、「吉野に隠棲する「人麻呂の父」の許に相談に駆け込んだ」としている。
その人物、つまり柿本人麻呂の父、とは誰か?

柿花氏の紹介する『大日本哥道極秘伝書』には、次のように記されている。


傳に曰、人丸は文武天皇の御子と云々。哉趣は文武寵愛の軽き女房胎みたるを、軽女房故出雲の国の押領司の右の女房下し給ふなり。(後略)

(中略)人丸文武天皇の王子にて座す。人丸傳の所に記すがごとし。深秘不浅事なり……。

これは不可思議というか不可解なことである。
軽皇子は、草壁崩御時7歳であり、柿本人麻呂の生没年は詳らかではないが、持統の恋の相手とすれば、少なくとも成人はしているはずであり、持統との関係からして、30歳を超える年齢だったと思われる。
その父が文武だとすれば、50歳くらいの年齢を想定しなければならないことになる。

そもそも、草壁と文武の父子関係を疑問視する見方もある(08年2月6日の項)。
持統の名前の由来ともなったという天武-草壁-文武という皇統(持統=皇統の保持)の真実は、どういうことだったのか?
もし、正史が系譜の偽装をしているとしたら、まさに、永躰典男『日本の偽装の原点は古代史にあり』ブイツーソリューション(0705)(07年9月6日の項)ということになる。


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■ 続3) 軽皇子(かるのみこ)とは、はたして、
「文武天皇」ことか、「孝徳天皇」ことか? ◆ 文武天皇③

● 
【軽皇子の立太子をめぐって】
《魚拓》



《ご注意》: 以下はこの記事の抜粋・転載ですので、あしからず。





父…茅淳王
(敏逹天皇の曽系の押坂彦人大兄皇子の孫)の子
(斉明天皇と同母弟)
母…吉備姫王
誕生…596年(推古天皇4年)
皇后…間人皇女(はしひと)
立太子…━━
即位…645年(皇極天皇4年)6.14  在位年数…9年
崩御…654年(白雉5年)10.10  年令…59才
皇居…難波長柄豊碕宮  年号…大化、白雉(はくち)

○皇極天皇は当初、皇位を中大兄皇子に譲ろうとしたが、皇子は中臣鎌足の助言を入れて叔父の軽皇子へ譲位を申し出た。次いで軽皇子は舒明天皇の長子である古人大兄皇子がふさわしいとして即位を辞退した。古人大兄皇子は出家、やむなく軽皇子への譲位が実現した。

○天皇は一種の民主的裁判の鐘匱の制を定めている。また、親族法上の男系主義の原則を示された男女の法も定め、社会改革を志した面も見られる。

○「日本書紀」は鎌足の業績を高く評価し、宰相として諸官の上に位置づけ、政策の立案、実施の要であったように記述している。  

○孝徳朝で最大の事件は大化改新である。皇極天皇4年は大化元年である。(年号使用の始まり)

○冠位12階を19階に増やしている。このことは社会の構造が複雑化した結果、より規制する必要が生じたために機構改革に意欲を燃やしされていたと考えられる。

○また宍戸国より献上された白雉にちなんでさらに白雉と改元された。さらに班田や造籍も行われている。

○653年(白雉4年)中大兄皇子は奏上して都を大和に遷そうとしたが、天皇はこれを聞き入れなかった。しかし、皇太子は皇極上皇、間人皇后、大海人皇子らをともなって大和の飛鳥河辺行宮(あすかのかわらのかりみや)に入った。公卿、百官らはみなこれに随行した。難波長柄豊碕に宮が落ち着くにはかなりの時間と労力が払われ、その間、行宮を転々としたため、前年完成したばかりの宮を天皇は簡単に放棄しようとはしなかった。皇太子の独走に業を煮やした天皇は、恨みを込めながら豊碕宮で崩御した。

天皇と宮の名⇒⇒⇒
陵墓…大阪磯長陵(山田上ノ山古墳)  円墳
所在地…大阪府南河内郡太子町大字山田

○御陵は、大和に通ずる要衝の竹ノ内街道に沿って、最も東側の丘陵上に位置する小円墳である。うぐいすの陵とも呼ばれ、古くは石棺が見えており、海獣葡萄鏡が出土したと伝えられている。


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■ 続4) 軽皇子(かるのみこ)とは、はたして、
「文武天皇」のことか、「孝徳天皇」のことか? ◆ 孝徳天皇①


● 【第36代 孝徳天皇】 ⇒ 逃げられた!!(リンク切れ)



《ご注意》: 以下はこの記事の抜粋・転載ですので、あしからず。






(承前)鎌足が神祇伯を固辞したという『日本書紀』の記事は、そのあと、段落を変えずに、こうつづく。

「(鎌足が勤めを休んでいた)ちょうどその時、軽皇子(かるのみこ=のち孝徳天皇、このころ48歳)も脚の病で朝廷を退いていた。鎌足は以前から皇子と親しかったので、お見舞いに行った。皇子は、鎌足が『意気(こころばえ)高くすぐれ、容止(立ち居振る舞い)犯(おか)しがたきこと』を知っておられたので、鎌足に対してきわめて丁重なおもてなしをされた。帰りぎわに鎌足は、皇子の従者に、望外のおもてなしを受けた感謝の言葉とともに、『皇子が天下の王となられることに、誰が逆らえようか』と言った。それを従者から伝え聞かれた皇子は大変よろこばれた」。

私はここでも、アレッと、読みとどまってしまう。

往々にして歴史の本には、こう説明されているからである。

「鎌足は事を共にする人物を皇族の中に求め、まず軽皇子に当たったが、さほどの人物ではないと見て、中大兄皇子に白羽の矢を立てた」と。

しかし「書紀」の文章は上記のとおりで、軽皇子の人物が鎌足にとってはもの足らなかったなどと、どこにも書いてない。天皇として不足なしと書かれているのみである。それではどうして、「軽皇子は気に入らなかったので、中大兄皇子にした」などという説が出てきたのだろうか。その理由は、先を読み進むとわかる。

「書紀」の文章はここまでが第一段落になっていて、次の第二段落は改行して始まる。ここで鎌足の人物像が短く描写される。

「(鎌足は)人となり忠正にして匡済(きょうさい)のこころあり」(まごころのある正しい人で、乱れを正し救済しようとするこころがあった)。

「そのため蘇我入鹿が君臣長幼の序を破り、国家を我が物にする野望を抱いていることを憤って、王の一族の人々に接しては次々と試し、ともに事を起こす君主を探し、中大兄にこころを寄せた」というのである。

第二段落はまだつづくが、ここで一休みする。アレッと思うからである。

というのは最初からここまで読んで気づくことは、第二段落がまるでストーリーの冒頭部分のような書き方になっていることである。特に簡潔な人物像の描写が、冒頭部分の雰囲気なのである。

「書紀」は歴代天皇記の体裁をとっているが、おのおのの天皇の冒頭の書き方には一定のパターンがある。まずその天皇の祖父母・父母などの系図(出自)を書き、つぎにその人物像を簡潔に書くことが多い。

例えば仁徳天皇は「幼くして聡明叡智にして、貌容(ぼうよう)美麗にまします。壮に及びて(成年に達してからは)、仁寛慈恵(思いやりがあり、情け深い)にまします」。

それに対して悪名高い武烈天皇は「刑理(刑罰の理非の判定)を好み、法令、明らけく(法令に通じ)」はいいが、「諸悪をいたし一善をもおさめたまわず。およそもろもろの酷刑、親覧したまわずということなし」(悪事ばかりで善いことはひとつもなさらなかった。残酷な刑はすべて自分でご覧になった)とさんざんである。

というわけで、鎌足の人物描写があることで、物語の始まりのような雰囲気になっている。

つまり、入鹿暗殺の物語は、もともと第二段落の鎌足人物寸評から始まっていたのに、あとから第一段落を追加したのではないか、と私は思う。「書紀」の編者は、思えば鎌足が反蘇我の態度を示したのは、あの神祇伯を固辞したときが最初だったのかもしれないと、あとで考えついたのだろう。軽皇子との経緯についても同様に、軽皇子の即位(孝徳天皇)は、早くから鎌足の胸中にあった案だったのではないかと、あとで思いついたのだろう。そしてそれらを冒頭に付け足したのではないか。

その結果、軽皇子の病気見舞いの話しのあと、「(鎌足は)王の一族の人々に接しては次々と試し、ともに事を起こす君主を探し、中大兄にこころを寄せた」とつづくことになり、読者はそのふたつの話を一緒くたにしてしまい、つぎつぎと王族に会ったなかに軽皇子もいたが、結局、中大兄皇子に決めたんだな、と誤解してしまったのである。

鎌足が、軽皇子の人がらを低く評価したなどと読み誤っては、おふたりに対して失礼であろう。(つづく)