何にも解からない、政治家の実態! | 脳溢血からのゆうき

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お早うございます。


今日は、中国漢王朝の創始者、「劉邦」の后(きさき)になった「呂后」のことを少し・・・・・。

呂后の名は「雉(ち)」であざなを「娥姁(がく)」と言います。呂文(あざなは叔平)の娘として生まれるが、呂文は後に呂公と呼ばれます。司馬遷の史記の中でもあまり経歴の解からない人です。

要約すると呂公は單父(ぜんぽ)というところの生まれで、その町で人を殺してしまい、隣の町の沛(はい)県に逃げ込み、そこで匿われているときに沛の小役人であった劉邦と知り合い呂后は結婚します。

この辺がちょっと解かりずらい処ですが、まあ紀元前の頃の事、隣町と言っても交通網も情報網もまったく無い時代ですから・・・・・。

とも角、まもなく起こった革命の反乱に載り、ついに天下を制して漢王朝を樹立した男の正妻と成るわけですから。


呂后の最初の殺人が、韓信(背水の陣)で有名な兵略の才では天下に並ぶものが居ないと言われた人を欺いて呼び出して殺した。その時韓信は「女、子供に欺かれるとは、天命というしかない」と嘆いたそうです。そうして反乱を鎮め、王朝の危機を救った。

呂后の殺人が凄まじくなるのは、劉邦が亡くなってからです。劉邦にもっとも愛された、「戚(せき)夫人」を殺し、他にも残酷で、残忍な方法で劉邦に愛された女性と、その子供たちをこの世から抹殺してしまう。

何十人という人間を殺します。是ほどの冷血な人間を私は知りません。…が、さてここからが本題です。


史記が面白いのは、呂后の非情さを時には凄まじく、時には冷静に書いているのに、まとめの批評と言うべき『太史公曰(たいしこういわく)』の段になって、その治世を称えていることです。

呂后の時の帝は「恵帝」ですが、政治を行ったのは呂后です。庶民は戦国の苦しみからようやく離れる事が出来た。君臣も庶民と同様に、何もしないで居られるように休息を欲した。生母である呂后が、女であるのに主となって命令を下して天下を治めた。その政治で天下は大いに安らかであったと・・・・・。

刑罰が用いられるのはまれで、罪人もめったに出なかった。人民は稼職に勤め、衣食はいよいよ豊かになったと・・・・・・絶賛ですよ。


この辺を読むと呂后はまれにみる女帝ですよ。呂后はどんな善政をおこなったのでしょうか。『呂后本紀』では、長安の宮殿の城壁を完成させたとか、それ以外にはないんですが『平準書(へいじゅんしょ)』と『漢書』などに少し出ています。父兄に良くつかえ、耕作にいそしむ者を推挙させ、その者の租税を免除させ、さらに秦時代の悪法を排除した。人民の妨げになる法令を省き蔵書を禁じた秦の法律を廃した。後は貨幣の改造やら、楚漢戦争で人口が半減したので30歳までに嫁がない女には税金を重くしたり、とも角良い政治を行った凄い女性ですよ。


こうして色々見てみると、呂后は人民に愛されて、劉邦の遺子や遺臣に忌み嫌われたという、すこぶる不思議な女性像が浮かんで来ます。

2200年も前の女性も、嫉妬と恐い焼餅には適わなかった。


又書きます。