武将紹介シリーズ
随分と沙汰をしております

前回まで、南海道、
西海道とご紹介してきました。


今回からは山陰道!


最初の武将は……





山中鹿之介幸盛


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山中幸盛
生誕 天文14年8月15日(1545年9月20日)
死没 天正6年7月17日  (1578年8月20日)


通称・鹿之介で有名な幸盛殿

出雲国富田庄(現在の島根県安来市)とされており
出雲方面の大名・尼子家の家臣

物凄く優れた武勇の持ち主で、諸説によると
幼少の頃より尼子家に仕え、8歳の折に敵を討ち
10歳の頃には弓馬や軍法に執心し、13歳の折に敵将の首を捕って手柄とを立てたそうな…



半端ないですね


この幸盛の父上もなかなか優れた武将でしたが
早世してしまい生活は貧しく
母の手一本で育てられました

苦労人でございます


16歳の折、因伯地方(因幡国と伯耆国)に
鳴り響く豪傑、菊地音八を一騎討ちで
破ったとされ武勇に優れまくっていることを
証明します


幸盛は次男でしたが、病弱な兄に代わり
家督を存続。山中家を背負います


そんな幸盛にある事件が起こります


主家である尼子家が
安芸の大名・毛利元就によって
滅ぼされてしまうのです


主は幽閉され、幸盛は随従を願い出ましたが
拒否され浪人となります


この際の幸盛の足取りは定かでは
ありませんが、かの武田信玄に軍法を伺ったり
等々の動きがあったのではと囁かれています


そうなのですこの野心に絶えぬ動き

幸盛は主家の尼子家再興を目論んでいたのです

なんという忠臣…


時は流れ

中国地方をほぼ手中に収めた
毛利家は、大友家を攻めるため
北九州地方に侵攻を開始


この機を待ってましたと言わんばかりに
幸盛は予てより集めていた同志と共に
旧領である出雲国へ出陣



【願わくば、我に七難八苦を与えたまえ】

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このあまりにも有名な台詞を
幸盛は三日月に向かって祈ります



普通、我に幸福をとかそういった
事を願いそうなものですが

幸盛は考え方が違うんです
七難八苦を与えられ、それを見事
乗り越えると

必ずその先で報われる!



そう信じ戦ったのですね


なんとも素晴らしい
尊敬です


その甲斐あってか、幸盛ら尼子再興軍は
毛利方の多くの城を奪還・占拠

一時的に尼子家を復活させます



…そう、一時的に


先述した通り、敵はあの毛利

謀略、知略、軍略にとても優れています


毛利軍に攻められ、退いては攻めて
攻めては退いての繰り返し

再び毛利軍に城を奪われてしまいます



退却戦を強いられた際は必ず
幸盛が殿を務め、味方を先に逃がしました


かっこいいです



因みに幸盛はこういった尼子家再興の動きを
計3回程やっております

計り知れぬ信念、忠義ですね


一回目、二回目共に城を奪還して勢いづいてはまた押し戻され失敗した幸盛


三回目を目論んでいる頃
少し日の本の情勢が変わってきます


この頃中央では織田信長が台頭
ぐんぐんと勢力を拡大していきました


中国地方で圧倒的な物量、権力を誇る毛利家


このどちらかに従わなければ
滅んでしまう状態となってしまい

幸盛らが頼りにしていた
周辺諸国の大名や国人集達が次々と
両家に投降


毛利とは敵対関係にあった為
織田家に従くことを決意


京で信長と面会した幸盛は、信長より
『良き男』と称され
「四十里鹿毛」という駿馬を賜りました

馬を頂戴するということは
あの信長に認められたということになります

素晴らしい

幸盛は信長の下で尼子家再興を
目指すことになります

幸盛ら尼子家再興軍は信長傘下の
明智光秀軍に加わり数々の
戦を共にします


幸盛ら尼子家再興軍は明智軍でも殿を務め
迎撃する敵を迎え撃って切り崩し
軍の崩壊を防いだことで光秀より褒美を
賜るなど、比類なき働きをし
更に信長からの評価を高めます


1578年
信長の命を受けた羽柴秀吉が播磨へ進軍を開始すると、幸盛ら尼子家再興軍は明智軍を離れ
羽柴軍に合流

羽柴軍が、毛利方の上月城を攻略すると
幸盛は主君・尼子勝久と共に入城

この上月城を拠点として最後の尼子家再興を
図っていきます


小城であったものの
上月城は備前、美作、播磨の国境に位置し
この地域の重要な拠点でありました


国人集の懐柔や、迫り来る敵を追い払うなど
活躍する幸盛でしたが

織田家と交戦状態にあった毛利家は
吉川元春、小早川隆景ら率いる三万以上の兵を
もって進軍を開始


そして1578年
4月18日(5月24日)

幸盛らが籠もる上月城を包囲します


同年5月
毛利軍による上月城包囲の報せを聞いた秀吉が1万の軍を動かし救援に向かいます

…が、緒戦の敗戦や同盟国の裏切りなども
あり後退


その結果上月城は孤立無縁状態

兵糧も底をつき、城を出る者も相次いだ為
同年7月
幸盛らが籠もる上月城は
毛利軍に降伏します


降伏の条件として
尼子勝久及び、その弟助四郎は切腹

幸盛は生け捕られ人質となりましたが
多くのものが処断されました


人質となった幸盛は
毛利元就の嫡孫・毛利輝元の下へと連行


ですが、その途上の備中国合の渡(現在の岡山県)にて毛利方の刺客により謀殺


…つまり暗殺されてしまいます


毛利家が幸盛を憚ったのか
一部幸盛に恨みを持つ家臣の仕業なのか
定かになっておりませんが
幸盛は失意のうちに生涯を閉じました



享年32歳


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『名将言行録』

幸盛の勇力は抜群であり、才知にも長けていた。当時の人は幸盛を「楠木正成より勝る」と褒め称えた。そのため七重八重に取り囲んだ敵も幸盛の姿を見ると皆退却した。また、幸盛が城に籠もると敵は和談して戦いを避けた。
主家再興を自らの使命とし、各地を彷徨いながらも幾度の苦難を乗り越え、兵を起こし戦い続けた。その道のりは厳しく、100度打ちのめされ1000回挫折を味わうものであったが、進むことはあっても退くことはなかった。最期は志半ばで倒れてしまったがその義勇の名は一時
天下に鳴り響いた。



家紋
【橘】

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*立花聡一朗*