わたしはこれで満足しているのかも知れない。 | ぽえぶろ - 通り抜けてゆけ

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通り過ぎる日々をゆきますこと

 わたしはこれで満足しているのかも知れない。それに意味があろうと、なかろうと。
 ここに全てがある。未来が今に、今が過去になるように、過去が今を、今が未来を紡いでゆくから。
 それはまだ幼いころ、妹がまだ赤ん坊だったころ、よく家族で川や山に行っていた。その帰りの車中で遊び疲れタオルケットに包まって眠ったままのわたしを、家に着いたとき父親は抱きかかえて運んでくれた。甘えたい盛りのわたしは、良く眠ったふりをしていた。
 確かになにかが変わっている。変わっていく。けれど変わらないものがとても多い。
 わたしは今、一人家で煙草を吸いながら、あの温もりを思い出している。
 この瞬間、幾つもの物語が終わり、また幾つもの物語が始まろうとしている。そしてまた、終わることを知らない物語が、この頭上を流れていく気配を感じ続けている。風の強い夜、闇を覆う雲が黙々と流れ続けるように。
 彼にあった8年前、わたしはまだ中学生だった。わたしの通う中学校に、彼は講師としてやってきた。講演の内容はいまでも忘れない―夢を信じて―。彼には両腕がなかった。
 講演後、彼はわたしのクラスに訪れ質問に応じた。彼が何度も晒されてきたであろう中学生の好奇の眼差しを真っ向から受け止める、その力強い視線と真っ直ぐに伸びた背を、わたしは忘れることが出来ずにいる。
 一人のクラスメートが彼の障害について不躾な質問をしたとき、わたしは少し渋い気持ちを口の中に感じたのを記憶している。しかし彼は、その目の色を少しも変えずに答えた。
 「その全てを受け入れて、僕はここにいる。」
 彼は画家だった。わたしは絵画にまったくといっていいほど疎いけれど、彼の描いた空の青さと、彼の話す真っ直ぐな言葉、真っ直ぐな視線に、涙ぐむ目を隠さなければいけないほどの衝撃を受けていた。
 次に彼に出会ったのは高校の図書室だった。その頃は両親の仕事も忙しく、放課後、家に帰らず図書室に入り浸る日が多かった。
 棚の隅に眠る、小さくて広大な物語に思いを馳せた。夕方の図書室には誰も、図書委員すらいなくて、常連の私は図書担当の先生から鍵を渡されていた。夕暮れから日が沈むまで、私はただただ本を読み続けていた。小さな小さな物語。大きく広く静かに眠る物語を。
 その日、ふと手に取ったのは背の真っ黒な画集。眠るようにたたずむ一冊の画集。表紙をめくった時の衝撃は、なんと表したら良いだろう。そこには、見たこともないほど優しく強い字で彼の名が刻まれていた。
 そうだ、きっと彼はこの高校に訪れてサイン本を寄贈していったのだろう。わたしの中学にきた、その時に。
 ページをめくるのが、怖かった。早い鼓動が治まらなかった。