健太郎君 | 「本を食べる!?」

健太郎君

先日、深夜番組のノンフィクションで、健太郎君という一人の男の子の特集が放送されていた。

6歳の時に発病し、13歳とゆう若さでこの世を去った健太郎君のドキュメントだった。

健太郎君のくわしい病名は覚えていないが、発病した時には脳に5cmほどの大きな腫瘍ができており、脳幹を圧迫していたそうだ。すでにそのとき余命5年と宣告されていた。

10回の手術、何度と繰り返す入退院、2500日に及ぶ闘病。小さな体に背負わされた十字架はあまりにも大きなものだった。

健太郎君が13歳の誕生日を迎えた日のこと。その日は医師から、特別に外泊の許可を頂き、たくさんの人に誕生日を祝ってもらった。伊豆に行き、温泉にも入る。
健太郎君のおじいちゃんは、念願だった「健太郎君と温泉に入る」とゆう願いを叶えることができた。
けれど終始浮かない顔の健太郎君。母親の問い掛けにも、口を塞ぐ。どうしたのだろう、と心配になる。
今まで、どんな手術にも耐えてきた。大人でも悲鳴をあげるような苦痛にも、信じられないほどの精神力で乗り越えてきた。そんな健太郎君が、わがままな姿を見せたのは初めてのことだった。
おじいちゃんが問い掛ける。
「健太郎どした?」
「健太郎?なにかあったのか?言いたいことがあるんだろ?」
「……」
しばらくの沈黙。おじいちゃんの問い掛けに、ようやく口を開く。「はやく…」
発音がはっきりしない。今の健太郎君にはしゃべるのも大変な作業なのだ。
もぅ一度つぶやく。
「はやく…し…たい」「なんだ?健太郎。よく聞こえないよ。」おじいちゃんが耳を傾ける。
「はやく…死にたい。」
ようやく聞き取れた一言は、13歳の少年から発せられる言葉とは思えないような重圧があった。健太郎は、誕生日の2ヶ月ほど前に、下半身の臓器のほとんどを失っていた。直腸から膀胱まで、延命と引き換えに手術を行っていたのだ。この手術でさえ、生き長らえるか一か八かのものだった。それほどギリギリの命をふり絞りながら、日々を過ごしていたのだった。
一度発すると止めることが困難なのか、溢れ出した言葉が止まない。
「はやく死にたい」
「はやく死にたい」
何度も繰り返す。
母親もおじいちゃんも何て言葉を返せばいいのかわからない様子。妹のみさきちゃんも、いつもと違う兄の姿に動揺を隠せない。
「なんでそんなことを言うんだ。馬鹿なことをいうな!」
おじいちゃんが語りかける。
「痛みが辛いのか?もぅ我慢できないのか?」
おじいちゃんが続ける。何度と続く手術も治療も、一向に体調をよくしてくれない。きっとそれに嫌気がさしているのだろうと、おじいちゃんは思っていた。その後に健太郎君から聞いた言葉は、大人の想像を遥かに上回るものだった。
「点滴も治療も辛いけど…」
「けんちゃん(自分)が入院することで、回りがケンカするのが嫌だ。」

驚いたことだろう。余命5年と宣告され、下半身の臓器まで失って少年がこんなことを思っていたなんて。
「はやく死にたい」とゆうその言葉には、まわりの様子を心配する気持ちが込められていようとは。

それから数日、その年健太郎君は永眠する。2002年8月、13歳のことだった。

健太郎君が亡くなってから、母親が語っていた。
「私たちが健太郎を救うとかではなくて、むしろその小さな体に教えられることがたくさんありました。命の大切さ、尊さ。」

命が燃え尽きようとする、その様は他の命に新たな思いを与えているだろう。けれどそれは、健太郎君が持てる命を一生懸命に生きたからできたことだ。

僕は、健太郎君が発した「はやく死にたい」とゆう言葉に、思わず涙してしまった。

人生は不平等だな、と改めて思う。必死に生きて、何度も苦痛にもがいても命がさらに与えられることはない。けれど健太郎君は言う。
「こうして取材をうけることで、僕と同じ病気の子たちを理解してほしい。同じ病気の子たちのためになればいい」と、そのためだけに取材を受けた。

こんな生き方をした、健太郎君の生と死に、意味がないと言う人はいないと思う。TVでしかしらない僕でさえ、その意味を感じことがあった。涙した。

もぅ一度言う。人生は不平等だ。けれど、その人それぞれの生と死には、測ることのできない重みがあることを意識する必要がある。そんな叫びが僕には聞こえた。

追記
この番組のくわしいタイトル放送時間等は忘れてしまいました。今週の深夜に放送されていたと思います。番組の内容と若干違う点があるかもしれませんが、ご了承下さい。
番組の最後に健太郎君の思いを、歌手の河村隆一さんが歌にしていました。