今回は読まれる方によっては不謹慎と思ったり、不快と思われる方もいるかもしれません。
人は何をもって人を人と認識するのでしょうか?
例えば、脳死状態にある人間が目の前にいたとしましょう。
《脳死(のうし、英: brain death)とは、ヒトの脳幹を含めた脳すべての機能が廃絶した状態のことである。一般的に脳死後に意識を回復する見込みは無いとされる。》(ウィキペディアより引用)
その人は「人」ですか?
おそらく9割9分の方は「人である」と答えるでしょう。
この事から、人が人を人として認識するのは《意識の有無》ではないと考えられます。
では翻って、あるところに培養液に満たされた保存容器の中に人間の脳が保管されており、その脳とは電気信号を介して意思疎通ができたとしましょう。(ここでは技術的にそれが可能かどうかは問題ではありません。)
その脳は人ですか?
おそらく9割9分の方は「人である」と答えるでしょう。
この観点では、《構造としての身体の有無》は人としての絶対条件ではないと言えます。
一方は意識の無い身体、もう一方は身体の無い意識、人はこれらのどちらも「人である」と答えると思われます。
相互に意思疎通ができなくても、身体同士の触れ合いができなくとも、人はそこに「人間性を感じる」ことで人間であると認識するようです。
人としての認定が、倫理観であったり、家族や仲間としての情からもたらされるものであれば、これはもう人間か否かは受け手の主観によるところであり、もはや本当に人である必要すらない。と考えられます。
思えば、昨今は犬や猫といったペットもそれこそ人間のように、ともすれば人間以上の扱いを受けていたりします。
飼い主は言うでしょう「もちろん彼らは生物としてのヒトではないが、人と同じである」と。
そのことを否定するつもりはありません。
また別の例では、どこかの国の独裁者が自国民を何百万人と大虐殺したとしましょう。
世界中の人々は「あいつは人間じゃない」と蔑むはずです。もちろん生物学上のヒトであることは理解していても、形容としてだけではなく、もはや人間としての倫理を越えてしまった者を人は人とは思えないのです。
このようなことを鑑みると、「人とはどんなものか」をはじめとした「物事の解釈」全般はつまるところ自分がどう捉えるかで決まるのだと思います。
もちろん今回の話では、自分の持つ倫理観とはあまりにも違いすぎて納得できない方もいるかと思います。
それはそれで解釈の違いとして互いに尊重しあえればいいですね。
それにしても生命の捉え方の多様性…、遠くない将来、超高性能のAIを搭載した精巧な人型アンドロイドが人権をもった人間として、我々の生活に自然に溶け込んでいる。そんな未来もあるかもしれないと思うと夢があり、また怖くもありますね。
院長 中田
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