「となりの山田くん」でアウフヘーベンしちった | モノゴトをオモシロくスルドく見る方法「かふてつの方丈記 」

モノゴトをオモシロくスルドく見る方法「かふてつの方丈記 」

  
How to look everythings essentially
or
Everythings gonna be alright

前回、神と「となり山田くん」を、前々回仏教について考察して見たら、こんな事を思いつきました。個人の思いつきなので、僧籍の方しか聖職者の方から見るとヘンな事を言ってるかも知れないので、そうであればご指摘下さい。

 

「山田くん」は明らかにジブリの前作である「もののけ姫」を意識して作られていると思います。

 

「もののけ姫」のキャッチコピーは「生きろ!」ですが、

対して「山田くん」は「ラクに生きれば?」です。

(前回そこまで書き切れなかったのは悔やまれる)

 

「もののけ姫」のアシタカなどは必死に生きる訳で、それに相応しい世界観が提示されます。「山田くん」のヒトビトはラクに生きているので相応の世界観になります。

 

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まぜこぜにしたら面白いので、「山田くん」の世界観での「もののけ姫」を考えてみました。

 

(一コマ目:山田家)
 のの子:え~ん、タタリ神を虐めたらノロイを貰っちゃったよ~
 おばあさん:そらアカンな、病院行って見て貰いい。


(二コマ目:広岡医院)
 ヒロオカ先生:ノロイを貰った?それはいかん、この薬を飲みなさい。
 のの子:ありがとう。


(三コマ目:広岡医院)
 先生の助手:今の薬は何ですか?


(四コマ目:広岡医院)
 ヒロオカ先生:近所の神社で貰ってきた。
 助手ズッコケる。

 

 ※なお、映画の「山田くん」にはヒロオカ先生は出てきません。

 

つまり、「もののけ姫」では必死に生きるためのギミックとしてタタリ神やシシ神などの神様が必要になるのですが、「山田くん」の世界では多少の苦難は笑って済ましてしまうので、神様は必要とされないのです。

 

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そう言えば、仏教にも神様は出てきません。


一つには、仏教はヒンズー教から出ているので、神様により説明されねばならない事はヒンズー教で説明されているからもう良いと言うのもあると思います。


シッタルダはヒンズー教の修行者として三人の先達に出会いますがそれぞれ不十分と思い、独自に修行をして悟りを開き「降魔成道」を経て正覚を得、ブッダとなるのです。

 

「悟り」は色々な人が色々な定義をしているので一言では言えないのですが、私なりに解釈すると、「あらゆる煩悩や不覚から解放されて無我の境地に至ること」と思います。
これは、ある意味「ラクに生きる」こととも言えるんじゃ無いかと私は思います。

 

前回、「神」は理不尽を解決するための物としました。しかし「悟り」の境地に至ると理不尽を理不尽とも思わなくなるので、「神」は必要なくなるのです。

 

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で、「山田くん」の山田家のヒトビトが「悟って」いるのかと言うと、決してそんな事はありません。「煩悩」に悩み「我」丸出しで生きています。

 

例えば、お母さんは「今晩のオカズは何にしよう」という煩悩に絶えず悩んでいます。

しかし、「昨日も一昨日もカレーやったけど、今日こそ思い切ってカレーにしよ」と乗り切ってしまいます。

お昼も、「昨日も一昨日もソーメンだけど今日もソーメンなの」と息子に聞かれると「明日もソーメンに決まってるやない」と乗り切ってしまう。

 

これは、煩悩の中に居ながら、修行も何もしてないのに”ラクに生きる”事により、結果的にあたかも「悟って」いるかのごとく生活してしまうのです。これは、悟らずとも結果OKと言う事で、ある意味浄土真宗に通ずるものを感じます。

 

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どっちが良くてどっちが悪いなどと決めつけるような事はしませんが、「ラクに生きる」と言う生き方が幸福な生き方である事は間違いないと思います。実際、ラクな生き方を描いた「となりの山田くん」は多幸感に満ちた映画となっています。


「もののけ姫」のような困難に向き合っても、「となりの山田くん」のようにラクに対処すれば、また違った展開となるのでは、と思いました。

 

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因みにアウフヘーベンとは弁証法で用いられる用語です。
「もののけ姫」をテーゼとして、「となりの山田くん」をアンチテーゼとした場合、上記のようにアウフヘーベンして見た次第です。
 

 

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【注意】

誤解を招くと困るので。

私は「もののけ姫」を否定して「となりの山田くん」を一方的に持ち上げている訳ではありません。「もののけ姫」はそれはそれでリスペクトしています。ただ、両作品を表裏として見ると、また別の物の見え方がするのではないか、と言う事を言いたいのです。