高畑勲作品はイデア論である(下) | モノゴトをオモシロくスルドく見る方法「かふてつの方丈記 」

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How to look everythings essentially
or
Everythings gonna be alright

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わかりやすいのは「山田君」で、脱力したホノボノとした世界を描いているようだが実はそれだけじゃない。
「火垂るの墓」も戦時中の可哀想な子供の話のようだが実はそれだけじゃない。
「おもひでぽろぽろ」も徹底したリアリズムを用いて女性が自立する話を描いているようだが実はそれだけじゃない。
「ホルス」も「ハイジ」も「三千里」も「じゃりン子チエ」また然り。

 

すべて、「その先にそれだけじゃない何か」があるのです。

 

「それが何なのか」について高畑監督が明確なビジョンを持っている事は明らかだと思います。しかしそのビジョンは敢えて示されないし、高畑監督も敢えて語る事はしない。

「それが何なのか」は観客一人一人が感じ取らなければいけないのです。しかも「ネバナラナイ」などと強制してくる事も無いのが高畑監督のズルいところです。

 

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(続き)

 

高畑作品を観ると、「良い作品を観たなぁ」と一旦は感動して終わってしまいます。または「よく解らなかった」で終わってしまう人もいるでしょう。
そこで終わってしまう人が居ても別にそれはそれで構わないのです。しかし一部の人には「何か」が残ってしまう。その「何か」が何なのか一寸考えても判らない。でも残っちゃうんです。判らない何かが。

 

作品の背後にある「判らない何か」とは言わば『禁断の領域』で、創世記にあるエデンの園の「生命の木」の様な存在です。

「生命の木」は人間を魅惑しますが、創世記に依ればケルビムと炎の剣によって守られています。「判らない何か」が「生命の木」だとすると、ケルビムと炎の剣は高畑監督自身でしょう。(しまった、諸星大二郎チックになってしまった!諸星大二郎についてもそのうち論考します)


と言うわけで、高畑勲作品には、実は背後に「禁断の領域」が広がっており、その禁断さ故に人を魅了する魔力を持っているのです。

 

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と、訳分かんなくなっちゃったので、一旦締める。

 

(高畑勲作品はイデア論である 終わり)