19.
未然に大災害を予知し、そして人々が事前に知る事で、犠牲を最小限に止めたい。
その素朴な人の願望は、やがて気象予報の世界で結実し、短期の気象予報に関しては極めて高い精度で未来を言い当てるまでに展開した。
人々の多くが、かつて、風の匂いやクモの巣にかかる水滴、山辺の雲のかかりぐあいを見て、経験的に天候を予知していた感覚を失いつつ有るが、同時にそうした知識が無くとも、テレビをつけ、ネットに接続すれば、明日の天気を明確に知る事が出来る。
地震や噴火、津波等の災害予知についても、やがて「完全予知」の時代が本当に来るのかという、その疑問は未だに実現の糸口は見えない。
機械観測学の傾向が強い大森地震学の時代から、大正そして昭和に至り、地殻メカニズムに対する物理学的探求は躍進を遂げた。昭和40年代から50年代にかけて、日本社会が顔を上げ未来を疑っていなかった時代に合わせる様に、地球物理学の分野にも又、予知について楽観的な空気が支配していた。
当時の学術探究のスピードから見た感覚からは、気象と同じ様に地表下の研究でも又、予知が可能に成ると信じられていた。
地殻運動に関するデーターの確実な蓄積が進み、詰め切れていないメカニズム解明の幾つかの問題が解決され、展開中の探査技術が工学的に展開すれば、明日にでも予知は可能に成ると言うレールの上に載っているかに見えたと、多くの研究者が語る。
70年代末頃には、研究は既に学術理論から、実践政策へと移され始めており、地震等の地質運動の予知は、研究予算ではなく実施予算として計上される様に成った。
やがて飛躍的に研究は進み、日本において世界最高の密度で地震計やGPS位置測定装置等が設置され、それが電子情報網として瞬時に結合され、豊富に演算シュミレートされたデーターバンクから取り出され、即時に通達出来るというレベルにまで到達した。
間違いなく、そのハードウェアーの体制は世界一だった。
しかし、90年代頃から、幾らデーターを積んでも、理論研究が展開しても、計測技術が進展しても、ある種の偶発的な「ゆらぎ」による予知の障壁は残り、その読み切れない部分が研究者達の前に立ちはだかり始めた。
個々の事象が積み上がる形で、細かいプロセスの解明を引き算して行けば、やがてそこに明確な「何か」が残るかに見えたが、机の上には何も残らないと言う「謎」が残った。
研究者達はそれに困惑しつつも取り組み、偶発的非直線性に支配された「ゆらぎ」という壁を見つめる事と成った。
地殻運動のメカニズムはその後に運動を解析は出来てたとしても、災害の「結果」を最後に決定している要素は、全く予期出来ない偶発的要素が複合的に組み合わさっていると言う傾向をどうしても排除し得ないという部分。
つまりは不確実性の「ゆらぎ」。
それが、最後に研究者達の机の上に残った。その部分が気象予報とは決定的に違った。
例えば、気象の様な現象とは違い、地表下の運動は、むしろ生物の生体に似ている様に見える。
ある生物の平均寿命と生息環境から、その個体のある程度の死亡日時をある誤差範囲で予測する事は出来ても、実際にその個体の死の日時は直前に成ってしか「予測」出来ない様な不確定性が、地面の下・・・・「個別」の地殻運動にも当てはまる。
その平均寿命や死因の統計的可能性をデーターとして積み上げ、生存環境の影響を正確に複合的に指摘して出来ても、その死の瞬間の日時を事前に予知出来ない事に似ている。
予測は出来ても、予知出来ないという疑義だ。
同じ日に生まれたマウスを同じ環境下で育てても、生を終える日時は、生理的に死を迎える限り絶対に同時とはならない。
クローンでさえ、そこに差分が生まれる。それが非直線現象の「ゆらぎ」だ。
そうした生体の死の予測と同じ様に、地表下の運動は様々な理論や技術の努力によって、地殻災害の兆候を人々が察知する為に研ぎすませば研ぎすます程、ますます詰め切れない「不確実要素」が露呈してしまうことになる。
阪神大震災も東日本大震災も、当時最高峰で最新鋭のはずの地震科学は予知出来ず、逆に明日起きてもおかしくなと1970年代から指摘され続けて来ている東海地震は一向に発生しない。
東日本大震災発生の瞬間、地震研究者の決して少なく無い人々が、「東海地震を含めた連動地震が起きたと感じた。」と、後に素直に語っている。
東日本大震災では6つの震源域が連動し、長期間かけてためこまれたひずみが解放され、M9.0という全く予期されない地震が日本全土を襲った。そんなことは、2011年の段階では研究者の常識として「起こる筈の無い」事だった。
震災後、三年が過ぎ、追加された膨大な研究予算を背景に、真剣な研究者による探求によって、何が起きたのかは極めて高い精度で高い水準で解析されて来たが、逆にそれが逆算する形でなぜそのタイミングで連動して「起きなければならなかったのか」は未だに分かってはない。
同時に、それほどの激震を受けながら、周期的に見れば関東や東海にかけて充分以上にひずみを溜め込んでいる筈の震源域が、何故反応しなかったのかも明らかに成っていない。
にも関わらず、政治的な必要性と人々の願望によって、「予知」は可能な事であるかの様に理解され、長い間を経て確立されて来た「可能性の予測」は確実な「完全予知」であるかのように混同される。
そして、現象が願望によって、誤解される時、大きの不幸が新たに構造化される社会現象と成り繰り返しを続ける。そうした意味で、私たちは百年前の桜島大噴火の構造性さえ、社会として解決出来ていないのではないかと気付かされる。
そこには、未だに灼熱し黒々とした溶岩が煙を上げ続けている様な生々しさが、心像の荒涼となって宿っている。
つづく
写真は「地震雷火事親父」が晩餐している様子を描いた江戸末期の浮世絵。
災害に対する近世期の民衆心理が伺える。
森林の国富論―森林「需要」再生プラン
森林の国富論―森林「需要」再生プラン