「時代と断層」 雁金敏彦 -2ページ目

「時代と断層」 雁金敏彦

 時代の変遷によって変わり得る物と変わり得ないもの・・・社会システム論的な視点から歴史を追いかけて、今日も資料の山を掘りかえして東奔西走。
 史学を主体とした社会進化論。社会構造論。政策科学等の視点が主です。
 2012年から始めてみました。




19.


 未然に大災害を予知し、そして人々が事前に知る事で、犠牲を最小限に止めたい。

 その素朴な人の願望は、やがて気象予報の世界で結実し、短期の気象予報に関しては極めて高い精度で未来を言い当てるまでに展開した。

 人々の多くが、かつて、風の匂いやクモの巣にかかる水滴、山辺の雲のかかりぐあいを見て、経験的に天候を予知していた感覚を失いつつ有るが、同時にそうした知識が無くとも、テレビをつけ、ネットに接続すれば、明日の天気を明確に知る事が出来る。

 地震や噴火、津波等の災害予知についても、やがて「完全予知」の時代が本当に来るのかという、その疑問は未だに実現の糸口は見えない。

 機械観測学の傾向が強い大森地震学の時代から、大正そして昭和に至り、地殻メカニズムに対する物理学的探求は躍進を遂げた。昭和40年代から50年代にかけて、日本社会が顔を上げ未来を疑っていなかった時代に合わせる様に、地球物理学の分野にも又、予知について楽観的な空気が支配していた。

 当時の学術探究のスピードから見た感覚からは、気象と同じ様に地表下の研究でも又、予知が可能に成ると信じられていた。

 地殻運動に関するデーターの確実な蓄積が進み、詰め切れていないメカニズム解明の幾つかの問題が解決され、展開中の探査技術が工学的に展開すれば、明日にでも予知は可能に成ると言うレールの上に載っているかに見えたと、多くの研究者が語る。

 70年代末頃には、研究は既に学術理論から、実践政策へと移され始めており、地震等の地質運動の予知は、研究予算ではなく実施予算として計上される様に成った。

 やがて飛躍的に研究は進み、日本において世界最高の密度で地震計やGPS位置測定装置等が設置され、それが電子情報網として瞬時に結合され、豊富に演算シュミレートされたデーターバンクから取り出され、即時に通達出来るというレベルにまで到達した。

 間違いなく、そのハードウェアーの体制は世界一だった。

 しかし、90年代頃から、幾らデーターを積んでも、理論研究が展開しても、計測技術が進展しても、ある種の偶発的な「ゆらぎ」による予知の障壁は残り、その読み切れない部分が研究者達の前に立ちはだかり始めた。

 個々の事象が積み上がる形で、細かいプロセスの解明を引き算して行けば、やがてそこに明確な「何か」が残るかに見えたが、机の上には何も残らないと言う「謎」が残った。

 研究者達はそれに困惑しつつも取り組み、偶発的非直線性に支配された「ゆらぎ」という壁を見つめる事と成った。

 地殻運動のメカニズムはその後に運動を解析は出来てたとしても、災害の「結果」を最後に決定している要素は、全く予期出来ない偶発的要素が複合的に組み合わさっていると言う傾向をどうしても排除し得ないという部分。
 つまりは不確実性の「ゆらぎ」。

 それが、最後に研究者達の机の上に残った。その部分が気象予報とは決定的に違った。

 例えば、気象の様な現象とは違い、地表下の運動は、むしろ生物の生体に似ている様に見える。

 ある生物の平均寿命と生息環境から、その個体のある程度の死亡日時をある誤差範囲で予測する事は出来ても、実際にその個体の死の日時は直前に成ってしか「予測」出来ない様な不確定性が、地面の下・・・・「個別」の地殻運動にも当てはまる。

 その平均寿命や死因の統計的可能性をデーターとして積み上げ、生存環境の影響を正確に複合的に指摘して出来ても、その死の瞬間の日時を事前に予知出来ない事に似ている。
 予測は出来ても、予知出来ないという疑義だ。

 同じ日に生まれたマウスを同じ環境下で育てても、生を終える日時は、生理的に死を迎える限り絶対に同時とはならない。
 クローンでさえ、そこに差分が生まれる。それが非直線現象の「ゆらぎ」だ。

 そうした生体の死の予測と同じ様に、地表下の運動は様々な理論や技術の努力によって、地殻災害の兆候を人々が察知する為に研ぎすませば研ぎすます程、ますます詰め切れない「不確実要素」が露呈してしまうことになる。

 阪神大震災も東日本大震災も、当時最高峰で最新鋭のはずの地震科学は予知出来ず、逆に明日起きてもおかしくなと1970年代から指摘され続けて来ている東海地震は一向に発生しない。

 東日本大震災発生の瞬間、地震研究者の決して少なく無い人々が、「東海地震を含めた連動地震が起きたと感じた。」と、後に素直に語っている。

 東日本大震災では6つの震源域が連動し、長期間かけてためこまれたひずみが解放され、M9.0という全く予期されない地震が日本全土を襲った。そんなことは、2011年の段階では研究者の常識として「起こる筈の無い」事だった。

 震災後、三年が過ぎ、追加された膨大な研究予算を背景に、真剣な研究者による探求によって、何が起きたのかは極めて高い精度で高い水準で解析されて来たが、逆にそれが逆算する形でなぜそのタイミングで連動して「起きなければならなかったのか」は未だに分かってはない。

 同時に、それほどの激震を受けながら、周期的に見れば関東や東海にかけて充分以上にひずみを溜め込んでいる筈の震源域が、何故反応しなかったのかも明らかに成っていない。

 にも関わらず、政治的な必要性と人々の願望によって、「予知」は可能な事であるかの様に理解され、長い間を経て確立されて来た「可能性の予測」は確実な「完全予知」であるかのように混同される。

 そして、現象が願望によって、誤解される時、大きの不幸が新たに構造化される社会現象と成り繰り返しを続ける。そうした意味で、私たちは百年前の桜島大噴火の構造性さえ、社会として解決出来ていないのではないかと気付かされる。

 そこには、未だに灼熱し黒々とした溶岩が煙を上げ続けている様な生々しさが、心像の荒涼となって宿っている。


つづく

写真は「地震雷火事親父」が晩餐している様子を描いた江戸末期の浮世絵。
災害に対する近世期の民衆心理が伺える。





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18


 大正3(1914)年2月、鹿児島新聞は桜島噴火後に、東京帝大大森房吉による「火山噴火の知識」についての談話連載を開始している。

 連載の第三回。
 大森は大森自身の学説によって導き、効を奏した事例として、有珠山(四十三山噴火)における蘭警察署長飯田誠一の偉業を誇らしげに紹介している。
 噴火の惨禍に打ちのめされた多くの鹿児島市民は、その逸話を読む事に成る。

 飯田は明治30年代のおわり頃、東京の警察監獄学校時代に大森による講演を聴いたとされる(注.1)。

 講演で大森は火山活動の危険性を指摘し、火山噴火のプロセスには必ず前兆現象として、群発地震が増加する事を指摘している。

 「火山周辺で火山を震源とする群発地震が起きる時、それが激しさを増すのは噴火の予兆である。」大森は壇上からそう述べた。

 その後、飯田は室蘭警察署長として北海道に赴任し、明治43年(1910)7月を迎える。
 有珠山は7月19日午前11時に有感地震が発生。21日に再び地震が発生している。22日には地震の群発が増加し、激しく鳴動。地震が群発し始めたと飯田は壮瞥からの連絡を受けた。23日に110、24日313回と増加し、強震62回に至る。

 壮瞥、伊達町長は県庁に専門技師の派遣要請を電報した。
 有珠山について大森の講演の内容が頭に有った飯田は、甚大な危機の到来を察知し行動に移る。

 壮瞥、伊達町長と協議し、有珠山から半径3里(12km)の退避を断行する。飯田は警察署長権限での避難命令を発令する。当初避難を拒む者も居た(注.2)が、飯田の高圧も加えた説得で住民15000人は無事避難し、住民の犠牲は未然に食い止める事に成功している(注.3)。
 事実上は独断である。飯田は県庁にも道警本部にも同意を得ていない。

 ただ、噴火は確かに起きた。7月25日午後10時、有珠山は現実に噴火し、自然の猛威が山麓を襲った。

 激しい噴火は噴煙と降灰をもたらし熱泥流をも発生させ、それに飲込まれた家屋の被害は20棟の全壊、さらには8500ヘクタールの農地が埋没している。しかしそれほどの被害を出しながら住民に関する人的被害は無い。

 噴火を予測しての住民への避難勧告と警察官を動員した避難の強行措置と言う、飯田の早急な行動は極めて大胆な物で、同時に大変な覚悟を伴った物でもあった。
 後に飯田は「噴火しなかったら、お詫びに切腹するしかなかった。」と述べている。

 中央も反応し、有珠山噴火の急報を受けた大森は農総務省技官の佐藤とともに、国の調査団として北海道入りする。そこで大森は火山噴火活動による地震計測と成功させ、地殻変動を精密測量によって捉えるという、世界で初めての偉業を達成している。

 大森らは飯田らの案内で、地元の実情を視察し、自らの警告が実地に効を奏した事を知る。そして自らの理論実証を成した事例として、鹿児島新聞の連載でこの事実を紹介するのである。

 記事の中で、大森は自分達の様な識者が、有珠山の様に事前に啓蒙出来ていれば、桜島の様な被害は無かっただろうとして、鹿児島県民に謝すと言う姿勢を見せた。(注.4)

 しかし、実際に犠牲者を出した鹿児島側にすれば、それをどう受け取るのか。

 大森は終始一貫して、測候所の実情として観測体制の限界を指摘し、気象家にとっての火山観測という専門外の不利と、何よりその難しさを述べている。しかし、同時に自説の優位性も言及し、その論を述べ続けた。そして、実績として有珠山での被害者0の事例を示している。

 結局、その指摘により鹿児島新聞の批判的な論調はますます加熱し、大森を権威として讃え、鹿角の責任を追及する動きが加速する働きをもたらし、問題の本質は見えなく成る。

 これは百年以上の時間を越えて、御嶽山の事例で驚く程の構造の相似性を見せている。
 有珠山が100年後に重複して登場する点は因縁めいた物すら感ずる。

 大正三年(1914)の桜島噴火に際して、事前に有効な警告を出せなかった鹿児島測候所と鹿角義助。そして対置する様に紹介される人的被害0を達成した明治43年(1910)の有珠山噴火の実績と、権威である東京帝大大森の自説の拡散。

 平成二十六年(2014)の、御嶽山噴火に際して、有効な警告を出せなかった気象庁。そして人的被害0を達成した2000年の有珠山噴火の実績と、北海道大学岡田名誉教授の述べる実効性のある火山警報Systemの構築。

 そこにおいて、岡田の功績は大森の講演を受けた飯田の覚悟と同様に動かない。故にこそ、その言葉は動かし難い説得力を帯びる。

 そして岡田の述べる様に、確かに観測網の充実とそのデーターの蓄積、さらに土地の地質特性を見据えた火山の個性の理解を土台に、危険性の性質と特徴を正確な情報として浸透させ各機関と住民による協議によって計画たて、有事の際には複合的なノウハウを蓄積した地域が一丸と成って危機に対応する。そしてそのことに成功しているのである。

 これは一日で成り難い困難な道のりでもある。

 そして、そこにおいて岡田が述べる問題とは、土地の特徴や実情理解に限界を孕む気象庁による全国一律のリスク管理と言う危険な手法であり、実にそれこそが今回の御嶽山噴火による犠牲者を招いたのでは無いのかと岡田は指摘するのである。

 その意見は順当なものだ。

 しかし、犠牲を招いたのは気象庁の対応責任と言うより、そうした地震・火山予測への誤解と過信の上に、不完全なSystemを生成した政治プロセスにこそ真の問題がある。

 つまり、防災を具体化させる為に制度化されたSystem。欠陥したSystemを作り上げた制度設計にこの問題の本質が有る。

 にもかかわらず、社会の多くの批判は、Systemの欠落ではなく、それによって起きた結果のみを批判する。その過失や失敗は、当然起きるべくしておきたに関わらず、制度その物では無く、その制度によってそう対応せざるを得んかった人々を攻撃する。

 そして、政治プロセスが作り出した不完全なSystemの下で発生してしまった回避不能な失敗をあげるとともに、Systemに依存しない覚悟と英断によって成された実績が誇示される事によって、さらに問題の本質は見えなく成る。

 世間が動かし難い実績と言う結果のみを注視することで、本来は問題視し、改革しなければ成らない、様々なプロセスが無視させるという逆効果を招いてしまう。

 誰かが問題の有るエラーの起きやすいSystemを作り出した結果、それによって発生した犠牲について、現場として対応する事を装置化された現業の実行者の責任の上に問題をトレースする点は、桜島噴火から百年後の今も、やはり同じ過ちを繰り返し、誤った認識を世間に拡散している。

 大森がそうであった様に、岡田も又、事態の本質的な問題をむしろ指摘している側であればこそ、残念なことだと言わざるを得ない。

 気象庁への責任追及と言う初めに結果ありきのメディア取材により、気象庁担当者の過失によるとするフレームがあらかじめフレーミングされた事で、「個々の実情に即した備えの構築があれば、犠牲を緩和出来る」という岡田の本来の主張は減衰し見えなくなる。

 そして、実績に裏打ちされた結果のみが一人歩きし、気象庁への批判として拡大する。

つづく



(注.1)
飯田が大森の説に触れたプロセスについて、複数の資料に齟齬が有る。飯田は直接講演を聴かず北海道で警察学校での講演録を読んだとする史料も採取した。東京監獄学校か警察学校かも記載が分かれる。時系列的には飯田手記が一次原典と思われるが現在調査中。

(注.2)
明治期の北海道の気風として、当時、中央政府によって排撃され移住して来た徳川や東北諸藩(奥羽列藩側)遺臣等が多く、官憲に対する反撥の意識が背景に強く有った。

(注.3)
室蘭から来ていた見物人二名が警察の非常線を突破し、内一名が火山泥流に巻き込まれ死亡している。犠牲はこの一名のみである。

(注.4)
鹿児島新聞
「桜島ノ破裂二関シテモ、余等ガ今一層之注意ヲ払ヒ置キタランニハ多少ハ有珠山ノ場合ノ如ク前知シ得べカリシナランニ事此処二出デザリシハ同島民二対シ謝スルニ辞ナシトスル所ナリ」




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17

 北海道大学の岡田弘名誉教授は、御嶽山の水蒸気爆発における人的被害に対して、水蒸気爆発は予測しにくい事を指摘し、「それは半世紀以上も前からいわれていることで、今回は明らかな前兆があった。十分対策は打てた」と取材に対して述べている。(注.1)

 そして紙面で岡田は、気象庁が火山地震の増加を認識しながら、警戒レベルを上げなかった事について強く批判する。

 気象庁に批判的なこの記事は、畳み掛ける様に実際に理学研究院附属地震火山研究観測センター教授として岡田が噴火を予知した事例を紹介する。

 ただ、記事では有珠山噴火を予知した事のみをさらりと触れている為、その噴火と予知の内容は明らかにされない。

 では、平成12年(2000)3月についての有珠山噴火とはどんなものだったのか?。

 平成12年(2000)3月27日、室蘭気象台や北海道大学有珠火山観測所が有珠山において地震を観測している。(注.2)

 27日は109回。28日は実に590回、うち有感地震が69回となる。29日は1,628回、うち有感地震628回。そして、30日に上空からの直接観察で、大規模な亀裂等を確認。そして、31日13時07分の噴火を迎えている。黒色の噴煙は3000m上昇した。当日の火山性地震は2,454回、 うち有感地震は537回。
 さらに、4月1日の3時12分には、M4.8地震の噴火を確認している。噴火の総噴出物量0.0009km3で、マグマの噴火がほぼ無い水蒸気爆発であった。

 被害は全壊234戸、半壊217戸。道路等を含めた被害総額は、約103億円とされる。そして、この噴火には人的被害は無い。

 有珠山は全国でも噴火活動の活発な山として知られ、気象庁の常時観察の対象であり、地震計、傾斜計、空振計、GPS、遠望カメラを設置し常に観測を続けている。さらに自治体や北海道大学も観測を続けており、豊富なデーターを持つ。

 有感地震が活発化した翌日の3月28日、0時の時点で、気象庁は「有珠山において火山性地震が増加。有珠山付近を震源とする有感地震が発生した。」と発表。その二時間後には、北海道本庁に災害対策連絡本部及び胆振支庁などに同連絡本部を設置している。

 そして、11時の時点で岡田自ら記者会見し、地震の前兆を警告している。
 気象庁予知連絡会の井田喜明会長も会見で、「今後噴火が発生する可能性があり、 火山活動に警戒が必要である」と自主避難を呼びかけている。これを受けて、住民は避難を開始する事が出来た。

 28日に岡田は記者会見を開き、「一両日の可能性が高く、 間違いなく遅くとも1週間以内に噴火する。」と、数日以内の噴火を断定し、火山活動の経過を見守る必要を述べた。その予知は的中し、事前に事態を察知していた住民や行政は迅速に対応し、結果として一人の人的被害を出す事も無かった。

 この事例では、気象庁、地元研究機関、行政機関の情報の共有と連動が迅速かつ的確に行われ、また、住民に適切な情報が伝わる事でパニックによる混乱は生じず、行政機関同士の連携と警察、消防による避難誘導もスムーズに機能した理想的な事例と言える。

 何より岡田の果断な噴火予知が事態を大きく牽引し、犠牲を抑制している。

 ただ、やはり有珠山は旧来から火山活動の顕著な山として知られ、近世後期から既に噴火活動の状態が克明に確認されてきており、観測体制も複数の組織や研究機関が手がけ、計測方法も大規模かつ多岐に渡る手厚い物であったと言える。(注.3)

 そして、明らかに有珠山の噴火傾向としても、前述した様に極端な数の群発地震と微振動を示すという有珠山独特の「顔」が見える。

 そうした点からも、大前提と成る大きなフレームが、有珠山と御嶽山では何より違うのである。

 それに加え、同じ「観光登山の対象」として御嶽山と変わらない事を比較されている事も多いが、有珠山の観光は昭和新山も含めた主に火山活動の観察であり、静穏な信仰登山と紅葉トレイルが人気を集める御嶽山とでは、人を集めると言う質的な意味がそもそも異なっている。

 現実に御嶽山の事例では、気象庁は群発地震の発生を自治体等には通告していたが、地元の観光時期を配慮したせいか、警告レベルを上げなかった。

 対して、有珠山観光に対する依存度を考えれば、周辺市町村の観光資源は分散しており(注.4)(注.5)(注.6)、一極的に有珠山観光に依存している訳でもなく、三次産業依存が進む現実は変わらないものの、王滝村の様な極端な依存を示す事例とは言い難いだろう。(注.7)(注.8)

 (もちろん、気象庁の今回の対応が「結果」として正しいと述べたいのではなく、今の問題の有る制度下では、結果責任が集中する気象庁に責を求めるのは道義的にも間違いだと述べたい。)
 
 地域の火山活動に対して、実地の観測と分析を積み上げた研究機関があり、何より岡田の様なリスクを取り込める人的資産に恵まれている地域と(注.9)、ほとんど活動履歴もない御嶽山とを一律で比較する事自体、適切では無いと指摘すべきかと思う。

 ただ、岡田の様な研究者がそれを言う事は事実を見えなくする。

 実績を持つ研究者にとって、強く他者を批判する気持ちが無くとも、一般に向けてその自らの信念と主張を述べ、実際に自らの実践と成果を述べる時、そこに結果の部分を拡大解釈しがちなメディア報道が拍車をかける形で、プロセスより結果が一人歩きするという事態が立ち現れるからだ。

 世論はまた簡単に沸騰するが、面倒な部分・・・つまり、そこに至るプロセスと構造問題の試行錯誤という見えにくい部分を見ず、噴火の瞬間と言う結果のみを注目し、大声で叫ばれる危機と、存在したかもしれない分かりやすい過失に向けて事態をヒートアップさせて行く。

 岡田は百年前の大森房吉と全く同じ轍を踏んでいるのだが、彼はその事を意識しているのだろうか?。

つづく

文責 雁金敏彦

 

(注.1)
「北大名誉教授が気象庁の対応を批判「明らかな前兆があった」 御嶽山噴火 (1/2ページ)」
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20141003/dms1410031532018-n1.htm


(注.2)
「2000年(平成12年) 有珠山噴火災害」
http://www.bousai.go.jp/kaigirep/houkokusho/hukkousesaku/saigaitaiou/output_html_1/case200001.html

(注.3)
気象庁は1979年の御嶽山噴火から地震計とカメラを設置している。観察はつまり35年しか、情報の蓄積が無い。名古屋大学も活動の観測を開始した。また、王滝村では1984年の長野西部地震に地震計がなかったと言う程度の体制に過ぎなかった。有珠山と御嶽山では観測体制と観測データー蓄積において、その開きは大きい。<<雁金

(注.4)
「伊達市の概況」伊達市 平成24年度
http://www.city.date.hokkaido.jp/hotnews/files/00001300/00001323/20130806195125.pdf

(注.5)
「伊達市における観光の現状と課題」伊達市
http://www.city.date.hokkaido.jp/hotnews/files/00000600/00000639/20130219173340.pdf

(注.6)
有珠山噴火当時の観光の落ち込みは著しかった。<雁金
「(有珠山)噴火後も残る影響」P179
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/usuzan//pdf/uzn0602.pdf

(注.7)
「2000年有珠山噴火における洞爺湖温泉街の復興~これからの課題について~」
http://tatsuki-lab.doshisha.ac.jp/~statsuki/DoshishaThesis2/thesis/2007/12042002endo.pdf

(注.8)
「王滝村統計」王滝村
http://www.vill.otaki.nagano.jp/aboutus/data004.html

(注.9)
岡田教授の当時の大胆な行動と気象庁・地元の一丸と成った連携が、犠牲者を抑制したと言う事実は動き難い。<雁金


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 前にも書きましたが、「村山庁舎」についての議論が再び現実になりつつ有ります。

 国際的なエボラウィルスの感染拡大で、日本への上陸も時間の問題となり、今回の日本人男性感染の疑いと言うニュースは、ひやりとさせられる出来事でした。

 しかし、肝心の大きな問題は未だくすぶったままです。それは受け入れ施設の問題です。

 現在、日本には第1種病原体等取扱施設の認可を受けて、厳密なBSL-4病原体に対する治療行為を行える施設が有りません。

 聞き慣れない言葉かもしれませんが、第1種病原体とは、エボラウイルス、マールブルグウイルス、ラッサウイルス等の大変危険なウイルスを指します。

 日本でそれに対応可能な施設が稼働していないというと、ご存じない方は「えっまさか!?」と思われるでしょう。

 しかし、唯一事態に即応出来る能力を持つ、国立感染症研究所村山庁舎が、未だ第1種病原体等取扱施設として、厚生労働大臣の認可を受けていないのです。

 施設は有るのです。機材もスタッフもいます。しかし、認可が下りないので稼働出来ません。悪い冗談の様なお話しです。

 結局、これほど国際流通網に適応しつつ有る日本という国は、驚くべき事に現時点で最も危険な感染症に対応出来ないということになります。

 現在、日本ではBSL-4施設は1つも稼働はしていない・・・つまり、医療上の検査や明確な検査や治療等を行える体制が不充分です。

 認可された設備がないと、医師は検査・治療を的確に行えない為、未知の病原体に対して、現場レベルで山勘に頼るという信じられない事になります。それでは適切な治療がリアルタイムで行えるかは大変疑問です。

 エボラウイルスに即対応可能な施設は、国内で唯一村山庁舎のみです。
 別に理研の施設が筑波にありますが、遺伝子組み換え生物の施設であり目的が違います。(それも認可されていません。)

 ただ、施設の立地そのものに問題が有ります。施設周辺には住民が居住し、小学校等も有ります。結局、震災等の万が一に対して不安が残るとした住民側の反対運動により、施設稼働は棚上げになって来ました。

 そして、国立感染症研究所村山庁舎の1種病原体等取扱施設認定はのびのびになり、ずっと宙に浮いた状態で推移して来ました。

 膨大な予算を建てて建設し、実際に稼働出来る施設であるにもかかわらず、厚生労働大臣の認可が下りない為、施設はそのまま放置されているわけです。

 この時点で、日本の医学レベルを信じてられる方は、そういう状態をすごく変に思われる方がいらっしゃる事でしょう。

 日本の免学研究はもちろん世界トップレベルです。しかし、これは医療の問題ではなく、社会側のシステムの問題なのです。

 大変危険な病原体が、施設から万一社会に出てしまった場合の病害リスクが、うまく社会に織り込む事が出来ず、またリスク管理の社会的な意味での対応問題を考えた場合の見通しが選地に関しても甘過ぎました。

 同時に社会全体として見た場合に、BSL-3の病原体に対して医学領域で適切に対処出来ないというリスクは、危機が今すぐそこまで来た時、施設内の病原体が外部に出てしまう危険より、さらに深刻なリスクをもたらします。

 そして、その慢性的な問題を私達の社会は解決出来ていない訳です。
 厄介な難題として行き詰まったまま放置されており、解決の糸口もないまま、問題が棚上げされている。そして、私達は日常の多忙の中で、実際に深刻な問題が実際に起きてしまうまで、見て見ぬ振りを決め込んでいるわけです。

 深刻な問題とは、実際に犠牲者が出たり、現実に対処した担当者が当然起きるであろうミスをしたり、大事故が発生するまで放置するという事です。

 ですので、実際にBSL-4レベルの病原体を相手にした医療行為となると日本は対応出来ないという恐ろしい事態が構造化してしまっている。
 今までそういう危険な病原体が入って来なかっただけで実にラッキーであったに過ぎなかったとそういう事です。

 日本社会は、国際化がすすんだと言われています。
 しかし、国際化というのは望まない物が入ってくる事もまたグローバルだという事です。カオスを前提にシステムを変更し、改変していくしか道がないのです。

 感染症もまたグローバルに伝染していくという、「カオス」を前提としたグローバル社会のリスクそのものであり、それは経済等の恩恵の表裏の関係です。どちらかを良い所取りするのはそもそも無理な注文です。

 TPP等の経済自由協定や各種の規制緩和を受け入れる事は、こうしたリスクも受け入れるという事であり、そういうグローバリズムを推進するのであれば、リスクを前提として社会を組み替えていくしか有りません。
 それを放置して対策を組まず、慢性的な問題として抱え続けるのは、爆弾を抱いて布団に入っている事と同じ事です。
 
 BSL-4施設は施設維持に膨大な予算がかかり、東京都武蔵村山市がそうであるように周辺住民からも理解を得にくい施設でもあります。そうした事から、最新鋭の施設をずっと店晒しにして来たのが日本の現実です。

 こんなことで良いのでしょうか?。

 SARSの時も議論になりましたが、反対運動が盛り上がったこともあり、政治家の皆さんは見て見ぬ振りで放置プレーでしたが、しかし、それももう限界です。のんびり構えている猶予がないのです。

 富士フィルムホールデングスの未承認新薬にしても日本製です。

 報道ではフランスが絶賛し世界から引き合いが来ているんだとか、株価が上がったよとかそういう事は述べられますが、肝心のそれが実は実質的に運用出来ないという問題は語られません。

 ですので、幾ら立派な研究者や医療従事者がおられ、日本製の優れた薬が有ったとしても、ウイルスを管理出来る施設がないと言う事は、治療に際してウイルス量を見ながら薬物投与を計画的に投与するという事が出来ないのですから、結局、医療治療として日本は永遠に治療ノウハウを蓄積出来ません。

 今すぐ日本社会が真剣にこの問題に取り組み、適切な予算を組み、グローバル社会と言うカオスのに対するシステムリスクを正確に対処出来る体制を構築するか、それが出来ないなら鎖国でもするのが得策かもしれません。

 慢性的な社会リスクを自ら解決出来ないという事はそういう事です。

 毎日、娯楽番組でタレントさんが騒いでられるという事も結構ですけれども、メディアが社会問題を適切に提起出来ません。そういう目線で、日本人全体が慢性的な問題を放置し享楽に我を忘れるなら、日本は将来確実に慢性的な解決不可能な問題の為に恐ろしいしっぺ返しを食うでしょう。

 今回のケースでは、感染を疑われた男性は幸い陰性でありそれは大変ラッキーな事です。ただ、それだけです。

 これが仮に陽性なら、免学的に適切に経過観察して、完治を宣告出来る施設が無いということになり、強制隔離された人は仮に完治しても海外にわざわざ検体を送らないと治癒したかどうかさえ分かりませんし、そこには隔離伝染病の医師による告知問題が発生します。
 これは甚大な日本社会というシステムのリスクそのものです。

 外国の様に、国土の関係から砂漠の中に専用施設を作る事は出来にくいでしょうが、無人の離島か遠隔地の大深度地下等に施設を新設すべきでしょうし、現実的なのは、BSL-4施設稼働に向けた長崎大学の取り組みを一日も早く実現するべきでしょう。

 エボラに限らず危険なウイルスが入って来てから慌てるのは馬鹿げた事です。
 じっさいにここまでグローバル化したこの国に、万一の為の施設が無いというのはリスクでしかないと思います。
 そして、今回宿題にして来た事が現実になり、日本は何も備えが無いという現実が立ちはだかっています。

 外国か映画の中だけだと思っていた事が悪夢の様な現実になり、社会全体が危機意識を持つべき段階に来たのです。

 メディアの皆さんももっとその点を報道されるべきだと思います。
 良い面のみが語られる国際化というのは大変高くつく物だと、私達は思い知るべきでしょう。




ホット・ゾーン――「エボラ出血熱」制圧に命を懸けた人々



国立感染症研究所村山庁舎のBSL-4施設の稼動に関する質問主意書
平成二十一年三月五日提出
質問第一八八号
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a171188.htm

感染症法に基づく特定病原体等の管理規制について」厚労省
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kekkaku-kansenshou17/03.html

BSL-4施設設置に向けた取り組みの現状と今後の展望」長崎大学
http://www.nagasaki-u.ac.jp/ja/about/message/katamine/message112.html



雁金敏彦著





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16


 昭和59年(1984)9月14日、王滝村役場北1kmを震央とするマグニチュード6.8の地震が発生した。

 この地震では山体崩壊が発生。東京ドーム29杯分(体積約3450万立方メート)の土砂が時速80kmで山麓へと押し寄せる等して死者・行方不明者29名という痛ましい犠牲を出している。
 家屋被害も大きく、全壊14棟、半壊73棟、一部損壊517棟と記録は記す。

 この地震の震度に関しては王滝村に震度計が無かった事から、実は王滝村においてM7代の地震だったのでは無いかと言われる程の激しい揺れであった。

 水資源開発公団の牧尾ダムに設置されていた地震計の上限は300ガル。余りにも激しい揺れに震度計の上限を越え、針は飛んだ。(注.1)

 この地震については御嶽山麓の温泉で採取された火山性温泉ガス内の成分が80年頃から徐徐に変化し、地震の直前にはその変化がピークに達している事が確認されている。震源は地下2kmと浅く、御嶽山麓を走る二つの断層がすべり強烈な地震が発生したと考えられている。

 この地震には予め火山活動の伏線が有ったと言われている。

 昭和53年5月から54年(1978~79)にかけて王滝村を震源とする群発地震が始まり、最大震度はM5.3を数えている。そして、昭和54年(1979)10月28日の早朝、御嶽山主峰の剣ヶ峰で有史以来初の噴火が確認され、人々を驚かせた。

 この頃から、火山性ガスの噴出成分に変化が見られ、ガス成分は極めて興味深い変化を見せ、昭和59年(1984)の大地震に至っている。

 この大きな地震との関連が指摘されている1961年の北美濃地震(M7.0)、1969年の岐阜県中部地震(M6.6)という大きな地震によって(注.3)、強く地殻が引かれ上方からの地中圧力が弱まった状態に何らかの刺激が起き、群発地震を引き起こしながら地熱活動が徐々に活発化して御嶽山が噴火。

 さらに火山ガスの成分変化にも見られる様な活発な活動が続き、二つの断層が複合的に滑った事で、大きな地震を誘発したかのではないかとされる。

 つまり、こうした状況を分析すれば御嶽山の今後の動きについて、ある程度の予測可能な有意な情報資源が得られた様に「見える」。

 しかし、実は火山地震の複雑さは人の予見を上回り続ける。

 その後の御嶽山の火山活動を追う。
 昭和63(1988)10月4~10日に群発地震が発生。平成3(1991)4月20日に御嶽山の直下で5月13~16日に群発性の地震が観測され、5月13に小規模ながら噴火している。

 平成3(1991)以降、御嶽山では火山性と思われる群発地震が平成7年まで繰り返し観測されている。
 この時、噴火は確認されない。

 飛んで平成18年(2006)下旬に火山性群発地震が始まり、翌年の3月16日に噴煙が確認された。

 これまでの御嶽山の活動の流れにをみせば、その噴火のタイミングは極めてランダムで、期間やサイクルについても余りに観測の経験に乏しく、データーの蓄積も弱い。
 そして、群発地震後に必ずしも噴火が起こる訳でもなく、また噴火する場合も規則性が見えにくい。

 こうした御嶽山の状況を見る限り、大正三年の桜島で鹿角が指摘していた様に、噴火活動は地震を伴うが、火山性群発地震を含めた地震では必ずしも噴火が伴うとは言えないという事実がが、再び浮かび上がるのみである。

 そこには、明確な「予知」に結びつく様な規則性や予兆が見えないのである。

 結局のところ、噴火のタイミングを正確に言い当てる事は、特に水蒸気爆発の様な噴火の場合は現状ではほぼ不可能に近いという・・・・通説に帰らざるを得ない。(注.4)(注.5)

 そうした事を「常識」と捉え、かつ前提に見るなら、平成26年9月27日の噴火の予知不能を気象庁の責と責める事は、あまりにも無見識と言わざるを得ないかと言える。
 多くの尊い人命が不幸にも失われた事と、実際に予測の困難な事を出来るかの様に認識し、そこに過失を指摘する行為は実は全く関連等していない。(注.6)

 さらに視点を引けば、では、気象庁のその職責に火山や地震予知を加えその責務とする事も、まして、いつ終わるか分からない地質の活動のリスク管理を中央省庁が一元的に管理するという手法そのものに重大な欠落が指摘出来る。

 特に気象庁に責務として与えられたリスク管理の問題には、自然現象の問題ではなく、むしろ人間社会の能動的な運動性が深く構造として関与するからである。

 それは神が振るサイコロの目を予見する程の全能が求められるが、人が仮に其れが出来ると考えるなら、それこそが驕りであり過信では無いだろうか。

つづく

文責 雁金敏彦
 

(注.1)
「 長野県西部地震による松越地区斜面崩壊地点の動的応答解析」
栞原徹郎 佐々木康 高橘和元 (建設省土木研究所)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/proee1957/18/0/18_0_413/_pdf

「1984 年長野県西部地震 (M=6.8) の余震活動から 推定される潜在断層について」
東京大学地震研究所
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/12939/1/ji0602004.pdf

(注.2)
 「長野県西部地震に伴う温泉ガス, 火山ガスの前兆的組成変動―地殻歪および岩石破壊と地下ガス組成変動」
杉崎隆 杉浦孜 (名古屋大学理学部地球科学教室  愛知教育大学化学教室)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1948/39/1/39_1_99/_pdf

(注.3)
「大地震の前に日本海沿岸の広域に現れた地震活動の静穏化」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/111/2/111_2_212/_pdf

(注.4)
今回の噴火では平成3(1991)や平成18年(2006)で見られた様に山体の膨張等の地殻の変動が伴わず、そうした事も警戒レベル引き上げを抑制する要因と成った。尚、気象庁はこの様子を二台の監視カメラで観察していた。<雁金

(注.5)
「“予知はほぼ不可能だった” 御嶽山噴火を海外専門家が考察」
 更新日:2014年9月29日
http://newsphere.jp/national/20140929-6/

(注.6)
「北大名誉教授が気象庁の対応を批判「明らかな前兆があった」 御嶽山噴火 (1/2ページ)」
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20141003/dms1410031532018-n1.htm
15.

 平成19年(2007)12月1日から、気象庁の職責に地震・津波・火山噴火警告と予知が加わり、そのリスクの直接管理が求められる事に決まっている。今回の入山規制処置もその責務に沿って行われている。(注.1)

 鹿角の時代には、あくまで測候所の業務は地震・津波・火山噴火の観測記録業務に過ぎず、予測予知は職責ではなかったことを考えれば、これはかなり大胆な職域の拡張と言える。

 こうして、平成19年に新たに気象庁が受け持つ事に成ったこの職責について、あまりにも冒険的であると、実際には疑問視する声が学界や官界には多い。

 予算獲得の関係から気象庁が自発的に管理領域に加えたと言う批判も有るが、実際には少なくとも現業の範囲ではとまどいの方が強いと伝わり、むしろ有識者や政治家を加えた社会の要望により法制化されたと言う側面に強い。

 その探査感知技術と研究が格段に進歩したとはいえ、地震・津波・火山噴火については実際に予測は難しく、比較的研究の進んだプレート由来の地震にしても、長期的にある程度の目星は付けられる様に成りつつあるとはいえ、中短期的に予測可能な範囲は限られている。

 そして、現実にあれほどのプレート境界のひずみの連鎖反応を招いた東日本大震災・・・いわゆる東北地方太平洋沖地震という大規模地震において、予兆現象の探査活動が充実して居たにも関わらず、複合的に次々と連動した巨大なエネルギーの解放を明確に予知出来た人は居なかった。
 まして、大きな意味で宮城県沖についての部分予知が的中していたと言う指摘には弱い。

 2011年に改めて露呈した様に、未だ、地面の下の運動はそのメカニズム解明の途上に有る。

 史学的な経験則から、現象の反復性と傾向を読み出し、地質学的に解明するという方法で周期的に予知すると言う方法も、世界一緻密に設置された地震計・GPS・各種センサーで瞬時に情報処理するパターンでも、長期展望(長期予知)には一定の目処はついても、短期的に予知を的中させると言う肝心の部分には問題が山積している。

 であるなら、気象庁にとってその予測を職責とし、まして社会に対してそのリスクを管理するという概念そのものが非常に危ういと言う事に成る。
 さらに、そこに地域実情としての個別の様々な影響が繫がっているとすれば、中央の省庁が単純に一律の判定基準を当てはめるのは非常に難しい。(注.2)

 特に御嶽山は長らく休眠して来た火山で、有史以降にその活動記録が無い事からも死火山と見る向きがあったほど、そのメカニズムと「くせ」が分かっていない火山だとされる。本来、火山には独特のくせが有り、同時に断層やプレートのひずみにも一律に断定出来ない独特の個性があるとされている。

 そうした意味で、天候の様に気圧や空気の密度、そして地形等でおおよそには予測が可能に成っている現象とはかなり異なる。

 もちろん、平成19年(2007)以降の火山噴火予測では、噴火を未然に言い当てた物が一定量あり、実効性に全く意味が無いとは言えない物の、それを実際に人の活動の指針とするまでには至っていないとする指摘も多い。

 必ずしも的中すると言えない予知情報や警告を発表する事は、「狼少年」の様に予測が外れる事で信用を下げてしまい、肝心の時に警告が信用されないという信用の低下や、反復的な警告による受け手側の心理的麻痺と言う様な多くの弊害も生む。

 そして常に、危険な災害を警告するという行為は、社会の不安をかきたて、容易にパニックを招くと言う危険性が潜んでいる。

 ただ、そうした現実を横目に見ながら、施行されたのが平成19年(2007)12月の法改正である。

 一つは明日起きてもおかしく無いと70年代から想定されている、太平洋側の東海・東南海・南海のプレート由来地震に対して、政治的な枠を定めようとする試みの一つが、気象庁の権能拡大と言う側面も見える。

 10月18日現在、御嶽山に発令されている危機管理レベルは3であり、入山規制となっている。そして、現在も火山性の微動は続いており、前回起きた水蒸気による爆発はいつ発生してもおかしく無い状態の中で、入山禁止の処置が外せる状況には当然に無い。

 そして、これは如何ともし難い事に成るが、自然任せの噴火の活動期間はいつ終息し、そして再発するかが現状では分からない。

 2007年に中央の政治的決断から、噴火予知とリスク管理にまでその職責を迫られた気象庁にとって、警告レベルを上げる事によって発生する地域経済への打撃も考慮しつつも、実際に予見出来なかった事への批判が出ている中で、警告と管理の発令基準を下げる明確な理由が無いと言うジレンマが立ちはだかっている。

 しかし、法制度は気象庁にその職責を求めており、まして、今回の様な水蒸気爆発由来の噴火や、大きな意味での地震の短期予知について、実はほぼ予測不可能だという事に成ると、実際の社会では様々な問題が発生する事が容易に予想される。

 そして、こうした制度があれば世間の人々は天候の短気予報の様に、地震や火山、津波も又、予知出来る物だと考え、その慢性的な構造問題には考え至らずに、「何か」が起きる時、その過失を分かりやすい誰かに向けて集中させる轍を踏む事もリスクとして大きい。

 今年もウインターシーズンを迎えようとしているが、ただでさえ経営難が言われて来た御嶽山麓のスキー場(注.3)が、開場出来るという目処は何所にも立っていない。





(注.1)
「9月27日に発生した御嶽山の噴火について-御嶽山の噴火警戒レベルを3(入山規制)に引き上げ- 」
http://www.jma.go.jp/jma/press/1409/27a/ontakesan140927.html

気象業務法の一部を改正する法律の施行(平成19年12月1日)に伴い、緊急地震速報を地震動の予報及び警報に位置づけることについて
http://www.data.jma.go.jp/svd/eew/data/nc/shikumi/jishindou-keihou.html

(注.2)
 王滝村の財政力指数、スパイラル指数は全国でも最下位レベルに近い。同時に第三次依存が極端に強い。気象庁の警戒レベル変更等によって、容易に財政破綻する状況と言える。かつての木曽美林は見る影も無い。

「財政状況等一覧表および財政比較分析表」
http://www.vill.otaki.nagano.jp/zaisei/otaki_zaisei/zaisei_itiran_hikakubunseki.html

(注.3)
 域内のスキー場「おんたけ2240」は、元々、67年に開場した村営スキー場で御嶽スキーの草分け的な施設だった。しかし、バブル期当時のスキーブームの中で過当競争を迎え、設備更新の為の過剰投資、さらには長野冬季五輪時の施設拡充等以降、期待した客足が伸びず少ない客を奪い合う競争の中で経営は悪化した。

 実質、03年頃には明らかに経営破綻していた。05年に民間委託されている。

 王滝村は木曽町と町村合併を計って果たせなかったが、その理由にはこのスキー場の経営混迷による財政悪化が主因とされている。


1787(天明7)年・磐梯山噴火




14.

 地域外から来訪する人達の購買力に強く依存し、絶え間なく外部から流入してくれる人々によって成立する山村社会や島嶼・・・。
 しかし、何らしかの理由でそれが突然停止する時、域内の多くの人々の生活も又、停滞してしまう。

 9月27日、気象庁は噴火警戒レベルを通常の1から、入山規制の3へ引き上げている。水蒸気爆発の発生とあれだけの甚大な人的被害を受ければ、明確に再爆発が無いと言い切れない以上、少なくとも警戒レベルを引き上げざるを得ない。(注.1)

 気象庁による御嶽山の噴火警戒レベルの説明には、その警戒範囲が記されている。

 本文を引用すると「山頂火口から4キロメートル程度の範囲では、噴火に伴う大きな噴石の飛散等に警戒してください。」として、火口から半径にして4kmを入山規制の大まかな危険範囲としており、そう成ればすっぽりと御嶽山そのものが入山規制区域に含まれてしまう事に成る。

 そこには当然、山頂の神社や山小屋が含まれるだけでなく、冬期に集客源と成る三つのゲレンデやロープウェイ、幾つかの温泉も含まれている。
 そして、警戒レベル3の入山規制は将来的にいつ緩和されるのかは、今の所、誰にも分からない。

 本来、その土地の主要産業が安定的に生起し、人口対比のある程度の市場規模があれば、観光産業等に見られる様な外部経済への依存の問題と言うのはそれほど深刻なテーマにはなり得ない。

 ただ、今日地域経済の多くが、そもそも自活出来る程の力強さを持ち得ない事も深刻な現実と言える。

 本来、土地の特性から見て一次産業への依存度が高い地方都市や農山村の地域経済において、長い時間をかけて地域の社会構造が疲弊し、さらに都市経済が一次資源を海外に極度に依存する傾向を強めてきた前提を踏まえれば、今日ただでさえ、都市部からある程度の距離をもった地域社会が新しい産業形態を成立するには極めて困難な問題が山積する。

 故に都市経済とその市場に向けての地域資産資源の再構築を持って、都市を客として人を呼び込むか、地域資源の加工生産力を向上させる形で高付加価値の生産体制を実現する等して、次世代の経済運動を確立する形でしか、今日の地域社会が生き抜いて行く道に少ない。
 そうでありながら、展開の前提と成る様な諸インフラに乏しく、人や金融資本、そして情報において限られた実情を感受せざるを得ない。

 かつて林業を主な収入源とし、信仰登山で栄えた御嶽山麓の王滝村は、関東・東海を主に都市客を呼び込む形で、サービス産業を活発化させて来た。そして、他地域と比較してアドバンテージを持ち得たのは、歴史と自然を豊かに育んだ御嶽山と言う卓越した原資が遭ったればこそと言う意味合いに余りにも強い。

 しかし逆に、火山である御嶽山の噴火活動によって、今度は御嶽山が逆に都市からの流入を阻むと言う強い矛盾が起きている。

 仮に述べれば、それは大正の桜島噴火では一ヶ月後には噴火を見ようとする日本全土からの観光客が増大している。同時にそもそも鹿児島市はそのような観光で成立していた地域ではなかった。

 対して、御嶽山はそうした「観光」と見える様な噴火傾向を見せている訳でもなく、また、余りにも悲惨な人的被害は「観光」というイメージを呼び込む様な予知をほぼ持ち合わせていない。まして、経済の自活と言う意味でも当時の鹿児島市と現在の王滝村は事例として遠い。

 そうした状況下でレベル3の入山規制が強く作用しており、御嶽山周辺へのアプローチが奪われる中で、実質的に王滝村は経済活動のほぼ全てを奪われる事に成っている。

 こうした御嶽山の現状は、火山国・地震国である日本の特性からも、その強弱の差分が有るとはいえ、日本人全員にとって決して他人事と言える事例ではないだろう。

 まして、地場における安定的な主要産業と自立的な市場環境を維持出来ている土地を探す方が奇跡に近いかと言える今日。日本全土の地域経済が激しく傷ついている現状をみれば、外部との経済環流を断たれた時、地域社会にとりそれは致命傷に成る。

 にほかかわらず、自由貿易市場への新たなる参入を拡大する為に、一段と市場開放が進ませ、地域経済の一次産業は否応無しに六次化による市場競争力の強化を迫られ、都市の後背地としてのツーリズム等による、娯楽供給の創造を強く求められている。

 勿論、そうした活動に一定の意味が有るとしても、極度に外部経済に依存しなければ成り立たない程、自己更新を迫られる体制は、投下資源の多様性が限定される地域経済には元来に不向きな状況である。
 特に、首都経済が規制緩和と述べると同時に、情報・資本・経済の集権強化を逆に強めている現状を見れば、その自立への要求はあまりにも酷に過ぎるかと言える。

 本来豊かな日本の国土が持つ自家資源では自活出来ない状況に追い込まれた地域社会にとって、都市経済の様な形で、市場に対して常に新陳代謝を永遠に続ける事は不可能に近いし、その特性に向かない。

 そうした現実の中で外部経済の資本流入が強く求められる地方地域にとり、御嶽山の火山噴火レベルとリスクを管理によって派生する様々な出来事を見れば、日本の地域社会・・・その自立性が根本的に弱っている現在の地方都市や農山村にとって、明日は自らの土地でも同様の問題が起きると言うリスクとは実は隣り合わせだ。

 戦前の生糸生産等がそうであった様に、利益率を上げる為には常に市場ニーズに合わせた生産体制の拡充が望まれ、そのサイクルに飲込まれると金融経済への依存度が高まれば、それがつまづいた時、地域経済は壊死する。

 拡充期の小さなつまづきは深刻な構造問題に成り得ないとしても、一度、大きな天災や天候不順、世界的な不況と言った問題に直面する時、外部経済への依存の度合いが高ければ高い程、慢性的困窮は高まり、あらゆる金融上の貸し入れ等が不良化してしまう。

 娘身売りと今日伝わる戦前恐慌時における農山村の困窮の根本には、農山村地域への政治的な誘導による殖産の加熱と過剰投資による不良債権問題があり、そこに大規模な凶作が重なった事で労働力として都市に子供を売り払わなければ成らない程の問題が生じた。

 そして、地域経済の困窮が血盟団事件等の思想運動と成り、直接行動としてのテロルへと農村地域の若者達を駆り立てたと言える。

 同様に、現在「選択と集中」を否応無しに迫られている地域経済は、切実な動機をもって都市経済と接続し、本来安定的であった一次産業生産力を都市型の予定調和の合理モデルとして構造を組み替え、都市市場を取り込む為に市場競争力確保に向けて、過剰な資本投下を受け入れる事に成る。

 そうした意味で、今日の多様で目の肥えた旅客ニーズに対応する為に、御嶽山麓の宿泊施設が自助努力を続ける中、設備更新等の投資拡大に不熱心で居られる事は無かったと言える。
 しかし、噴火により相次ぐ域内イベントの中止が続き、観光流入のキャンセルが続く中で(注.2)、本来想定されていた繁忙期に極端な落ち込みが現実に深刻な痛撃を与えるだろう。

 そして、そうした慢性的な困窮への憤怒は、「そもそも」と言う意味において、危機を警告し管理する気象庁へと強く向う事も又、それを抑制する事が出来ない。鹿児島測候所の鹿角に対する批判の構造と同じ問題がそこには有る。

つづく


(注.1)
「9月27日に発生した御嶽山の噴火について-御嶽山の噴火警戒レベルを3(入山規制)に引き上げ- 」
http://www.jma.go.jp/jma/press/1409/27a/ontakesan140927.html

(注.2)
「御嶽山噴火:観光業、打撃深刻 ツアー、イベント中止次々」
毎日新聞 2014年10月03日 10時54分(最終更新 10月03日 12時20分)
http://mainichi.jp/select/news/20141003k0000e040174000c.html
14

 御嶽噴火は、噴火による直接被害だけでは無く、日本山村が抱える現代的な問題をも明らかに示している。

 御嶽噴火により現在、困窮を余儀なくされるであろう王滝村と木曽町に、かつて日本近代が放擲して来た多くの問題がは凝縮する。

 鹿角はそこに何を見るだろう。

 木曽御嶽山の山麓で主な登山口の一つである王滝村の面積は310km3、うち山林面積が295km3、耕作地0.6km3に対して、宅地面積は0.53km3とその宅地の多くも傾斜地に位置する様を見れば、ほぼ急峻な山林地帯としての村の地形特性が見える。
 日本の典型的な強山間村と言える地勢である。

 その歴史を辿れば、王滝村は古来から、霊峰御嶽山のアプローチポイントであった。

 御嶽山はその山体の偉容と霊現が霊場山入りの神界として現れ、中世には神道修験の修行場として日本霊山の三峰に並んだ(注.1)。
 中世以降地域霊山から離れて信仰圏を広げ、中世修験では山麓、王滝口(古くはono-take-kuchi)・黒沢口で百日の精進潔斎(注.2)し、潔斎成就の祓穢の後、年一度の山入りしたとある。
 それほどの霊域であった。

 近世末まで神仏修道が合一し隆盛を極めたが、明治新政府による神仏分離と修験廃止によって一山体制が崩壊を見たのは他の霊峰にも並ぶ。明治以降も大衆化した講登山は継続し、御嶽二柱の近代神道信仰でも廃絶する事無く、現在も信仰を集める山である。

 しかし、近代以降、日本山村域を大きく変化させる激動が王滝村にも及ぶ。

 近世までの王滝村は尾張藩治下で木曽ヒノキ美林で知られた。しかし、明治維新以降は山村域の土地生産性は大きく変質する事が繰り返されることと成る。

 特に尾張藩支配下の木曽支配によって、安定的な林産地として原木の一大供給地と成って来た王滝は、明治維新に入ると明治政府の生産拡大政策の元、燃料林産と養蚕用桑畑の山林強制転換によって、生活資源生産地が破壊されることで貨幣経済への依存を強めて行く。

 近代日本の社会経済は一次産業生産を基盤とした輸出経済に大きく依存しており、都市経済の拡大の中で、その基礎生産資源である生糸・原木・炭の生産拡大が日本山村社会の生活形態を大きく変質させている。

 特に生糸・木炭の商品生産は大正期にピークを打つが、特に昭和5年(1930)以降の昭和恐慌下の不況により、養蚕の生産増強の為に借入を拡大していた事が仇と成り、長野・岐阜県下の山村林家や農家は痛撃を受けた。(注.3)

 戦中の国家非常時の軍需乱伐、戦後はさらに山林域のスギ・ヒノキの拡大生産、さらに石油への燃料転換が計られた燃料革命等の定まりの無い国家方針の転換が相次ぎ、山村はその風下に立たされる。

 生産調整の激変に翻弄され、疲弊した土地生産力は容易に戻らず、大正期から繰り返された経済破綻による出稼ぎの増加と人口流出、生活資源破壊による都市経済への依存の拡大によって、人口扶育可能な生産性を後退させ過疎化が生産される。

 今日の王滝村は長期的な材価の低迷を主とする一次産業の停滞により、昭和末の1700人からその人口は大きく減衰して900人に至っているが、なお深刻な事に一次・二次産業人口は昭和55年時に702人が従業していたのに対して、平成22年時には132人と激減している(注.4)。

 しかし、対しての三次産業人口は統計同年の昭和55年時に429人であったものが、平成22年時に352人と人口対比での減少は見られる物の、人口比率辺りの依存率はむしろ上昇し、実質的には王滝村の三次産業依存が極めて強い状態で有る事が分かる。

 そして、山間山村では比率が極めて特異な三次産業従事は、御嶽信仰および観光登山と、御嶽火口の5km以内に点在するスキー場、温泉入浴客の各種施設従業員とその関連産業で、実に現在36の宿泊施設、2つの日帰り温泉施設、2つのキャンプ場、3つのスキー場が存在する。

 六次産業化が喧伝され始めた今日において、都市経済に向けた農山村として、山村ツーリズムの前駆的存在として、王滝村は日本山村では三次産業依存が既に極端に強く進み、都市経済との接続によって成立している地域であり、その観光資源の中心は御嶽山である。

 近年、シルバー人口を中心とした軽登山ブームは拡大の傾向を見せており、3000メートル級の山でありながら家族登山も可能な山容は人々の人気を集め、冬には御嶽山の積雪がスキーで人を集めている。

 今回の水蒸気噴火で人的被害が深刻な物に成ったのは、9月の御嶽山が紅葉で美しいシーズンの到来を告げる時期であり、その休日の正午直前と言う登山者が登頂を目指す直前の時間に噴火が発生した事が、深刻な被害を出す最悪のタイミングと成った。
 仮に冬期の深夜に同規模の爆発が起きていた場合、被害は全く違う物に成ったと思われる。広く開かれた山であったが故に、人的被害が拡大した。

 ここで、同時にこの御嶽山の噴火予測とその後の警戒継続については、に大きな問題が再び招かれる事に成る。

 深刻で悲劇的な直接被害を招き多数の人命が奪われる事と成ったが、その予報に関する適応範囲とレベルの問題性が批判を浴びているだけでは無く、今後は、警報等の入山規制の内容によっては、極度に御嶽山に依存した第三次産業を主な収入源とする王滝村全域の人々の生活が成り立たなく成る可能性が強い。

 ここにおいて、火山予測とそのリスクへの管理領域に強い構造的矛盾が生成される事と成る。


 


(注.1)
古来からの山岳信仰の霊場である御嶽山は、日本三大霊山に数えられる。三霊山について富士山、白山、立山を述べる史料も多いが、白山、立山を入れ替えて御嶽山を入れる史料も散見され、定まった意見は無い。どちらにせよ、日本を代表する霊峰として、古来以来、カムナビにおける憑、神々が顕現する自然崇拝の対象として信仰を集めた事は動かない。
他に三大霊峰として、恐山、比叡山、高野山を加えた後峰とする考え方も有る。後者二山は平安仏教寺院の聖地である。

(注.2)
百日の重潔斎が変化するのは天明期。御嶽山に関する信仰は18世紀末頃から、急速に変化し、広く大衆登山信仰として受け入れられる物に成った。
「修験と神道のあいだ―木曽御嶽信仰の近世・近代」中山郁 2007

(注.3)
昭和4年の生糸価格を100として、昭和6年の生糸価格の下落は実に55ポイント。これに重度のインフレが重なり、零細生産の多くが破綻した。日本山村域は困窮する。これに関して、後の満蒙開拓団の岐阜・長野圏の傾斜には大きな相関が有ると考える。<<雁金

「現代蚕糸業の社会経済的性格と意義―持続可能な農村社会構築への示唆」矢口克也
http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/refer/200910_705/070502.pdf

(注.4)
現在はさらに深刻な減衰が起きていると考えられる。

「王滝村統計資料」王滝村
http://www.vill.otaki.nagano.jp/aboutus/data004.html

「農林水産資料王滝村」農林水産省
http://www.machimura.maff.go.jp/machi/contents/20/429/details.html

 

 

 

 

 

 


13

 桜島大正大噴火が、そうであった様に天災に対する観測や予測は、過去多くの不幸を生み出している。

 自然災害についてはその観測の正確さだけではなく、予測や予知に関する領域も含めて、「情報が正確で当たり前」なのであり、実際そうで無い時、そこに大きな問題が生起する。

 情報の「正確」さとは、当然のことのようであるが、実はここには大きな問題が入り込む余地がある。

 正確な情報発信が求められる時、発信する側にとって確証の無い未確定の情報は、つまり「存在しない」し、拡散は出来ない。

 憶測や不確かな情報は、事実である場合も有るとしても、時に誤認や避け難い錯覚であったり、悪意が介在する場合も有る。
 また、事実であるとしても、全体の流れを表していない例外と言う場合も多い。

 社会的責任を帯び、情報の精度を求められれば求められる程、情報の「確度」は慎重に取り扱われる事に成り、それが社会からも求められても居る。

 しかし、結果として災害の様な火急な対応が求められ、多くの人々の生命財産の死命を制する情報において、情報の正確さを求る時、しばしば情報は迅速な伝達が不可能に成る。逆もまた然りである。

 それでも、どちらが優先させられるべきかと成れば、社会的責任を問われる情報の発信程、不正確な情報で事態を混乱させたり、情報を受け取る側に誤った判断をさせない為にも、「確度」に重きが置かれるのは当然かと言える。
 
 しかし、受け手と成る人々はそうではない。
 天災による被害により深く傷つき、さらに多くの物を失うとき、人々の多くが果たせなかった救済に思いをはせ、時に自分を責め、思考の中で限りに無い自問を続けている。

 その状況下で「あの時、ああしていれば」を考え続ける。
 しかし、その中で天災の観測そして予測や予知という部分で、迅速な・・・または正確な情報伝達が行われなかったと知れば、「何故、もっとはやく警告してくれなかったのか」という、当然の感情がわき起こる。
 それは被害を受けた人々の未整理で素朴な思いを引き出し、時に社会的な非難として広がり、暴走する中で手の付けられない事に成る事も多い。

 例えば、鹿角が新聞社から名指しの批判を受けた事例の一つに、明らかに「確度」と「速度」の問題が生じている事例がある。

 噴火直後、鹿角は鹿児島新聞記者下園三州兒相手に気を許し放心した様に坦懐している。無防備に過ぎる告白に見えるが、観測者として極度の緊張の連続からの弛緩と言う部分も有ったかといえる。

 「実は震源が最初は良くわからなかった。その為、鹿児島県警の各分署から揺れ具合を聞いてもらっていた。」と・・・。

 鹿角が述べるのを聞き、下園はなんと頼りない事かと落胆する。震源を言い当てるべき人物が警察署に震源を聞いていると呆れ、それを激烈な記事にしている。

 「警察ニ、ゴ依頼シテ其レヲ総合シテ、イヨイヨ桜島ダト言ウ事ガ今朝ニナッテ~。~コレヲ聞ヒタ僕ハウンザリシテ、モフ他ノ問題ヲ提出スル気ガ無ク成ッテシマッタ。」(注.1)

 この記事が「頼りにならない専門家」として、鹿角の信用をさらに毀損する事に成る。

 ただ、この描写から、むしろ鹿角の気象人としての情報に対する正確を優先する対応が見える。

 震源を正確に確定する帝大の大森らが採用していた三点観測法。
 それが不可能であった鹿角はこの時、地震計の振幅波形から大まかに震源を判定する単独観測点法と、地震波の到来箇所を確認する事で震源を推察する原始的なテリトリー法(注.3)とを組み合わせる極めて合理的で正統な手法を、とっていた事をこの坦懐は示している。

 実はここに、鹿角が極めて慎重な態度で、推論を回避し、正確な震源地を推定しようとしていた事が示されている。

 旧式で暴走を続けていたミルングレー式による単独観測点法が不正確である以上、社会的責任を伴って職責として自然現象を観測する者として、当然に取るべき対処方法であり、結果的に大混乱の中で警察署の返信が遅延していたのことは別の問題である。

 正確な情報の発信を求められる鹿角にとっては、テリトリー法と単独観測点法とを併用する事は、最善の合理的な情報探査方法のコンビネーションであったと言える。

 しかし、その告白を聞いた一般人の下園からすれば、それはむしろ逆に聞こえる。堪え難い切迫感の欠如、実情へのあまりの実感の無さ、下園はそう感じた。

 下園にとって、少ない情報から「ぴたりと当たる」占いの様にズバリ結論のみを断定する専門家に信頼は傾くのであり、鹿角の慎重な態度は不信の対象に写る事と成る。

 ただ、測候所の鹿角の様に情報の確実な精度をリアルタイムに求められると言う重責は、机上の理論を主調とする研究者である帝大の大森や今村、そして七高の講師篠本とは共有されるものでないが故に、「実務現業」としての鹿角義助が見せた様な慎重な対応は、世間からは要領を得ない愚鈍や決断力のなさが際立っているように見え、滑稽な道化の様に理解される。

 結果として、鹿角の見せる様な情報の確度確保への慎重さは、しばしば災害情報の伝達において、情報の停滞や被害状況の過小評価の原因と成り批判を浴びるのである。

 天災についてその歴史を知ると、事態をうけもった施設の責任者や実質的な担当者が、過失や怠慢、事案伝達の停滞や事態の過小評価、時に不可抗力としか見えない場合を含めて、糾弾され攻撃を受けた事例は余りにも多い。

 桜島噴火の7年後に起きた富山測候所の台風進路についての通知ミスの問題は実際に富山測候所長を自責からの自殺に追い込んでいる(注.2)。また、担当者レベルで引責辞任や明らかな引責による左遷を余儀なくされたケースは多く採取出来る。

 鹿角が多分にやむを得ない状況から予測に失敗した鹿児島県の桜島においても、それ以降も噴火で犠牲者が出る度に、担当した気象や地質の関係者が大変強い社会的批判を浴びて来た。(注.3)

 桜島噴火から100年が経ち、様々な観測体制や観測技術、蓄積された多くの研究が進んだ今日も同じ問題が未だに継続している。

 気象については、多様な観測技術と様々な気象公式が現実に機能しそこに電算処理が加わる事で、短期予測に対してはほぼその予測は確実に成りつつ有る。
 それでも、長期予報や台風の正確な進路等、複合的な複雑な要素が加わり、公式での正確な予測が不可能な物は、現代の技術でさえ確実性は期待出来ない。

 さらに言うなれば、実は地震や噴火に関して、そのメカニズムの解明とリアルタイムの観測技術は極めて高度な発達を遂げたが、その予測となると予測の困難を指摘する意見は専門家の中でも一定の支持を得ている。

 特に、この度、大変甚大で深刻な被害を出した御嶽山における水蒸気の噴出による爆発は、現在の技術の粋を集めてさえ、ほぼ予測が困難だと言う意見も専門家の中でさえ議論が尽きることはない。




(注.1)
大正3年1月18日 鹿児島新聞 下園三州兒署名記事

(注.2)
 大正10年(1921)9月25日0時、四国の遥か南方北緯26°東経134°付近に有った台風は、急速に北上し、25日夜半に紀伊半島に上陸した。台風の北上速度は50km/h。当所、中央気象台の発表では台風は例年同時期のコースとして、西北西に進み父島周辺を抜けると考えられていた。しかし、25日に突然コースが北に向いた為、中央気象台はその旨を電報で各地に警告したが、富山測候所では発表に手間取る。
 台風は26日早朝、富山を直撃し、いつも通り富山湾で操業していた漁船はひとたまりも無かった。富山県内の死者行方不明者123人、内、操業中の漁民113名が犠牲と成っている。測候所長に対する非難は拡大し、所長は非難に耐え切れず服毒自殺した。
 しかし、後に電報が到着した当時、所長は退庁後で、宿直担当はその旨を所長に伝えず、また、発表もしなかった事が判明した。所長がそれを知るのは台風直撃の後だった。該当の宿直担当者はその数ヶ月前に、経理上の不正が発覚した事から所長に訓戒処分を受けていたため、後に怨恨説が地元新聞等で出た。

(注.3)
「緊急地震速報の概要や処理手法に関する技術的参考資料」気象庁 2008
http://www.data.jma.go.jp/svd/eew/data/nc/katsuyou/reference.pdf

(注.4)
 昭和30年10月31日の桜島噴火では鹿児島大学の学生一人が死亡。負傷者7名。昭和29年11月より続いていた火山性微動がありながら、予知出来なかったとして、当時の鹿児島地方気象台所員がメディアの激しい糾弾を受けている。桜島では犠牲が出る度に同様の指摘が繰り返されている。しかし、火山性の群発地震や微動はイコール噴火ではない為、如何に火山予測が困難かが窺い知れる。
「鹿児島の気象三百年誌」P133等からを典拠とする。

 

12.


 「大​正​三​年​桜​島​大​爆​震​記」の内容を追うと、当時、大災害の全ての禍根を鹿角と測候所に集中させる事で、地元社会が一丸と成って事態の沈静を計った様子が見えてくる。

 鹿角は山口の生まれで、前任地は島根の浜田測候所。
 鹿角本人は鹿児島に籍を移し、明治31(1898)年の赴任以来、永住を志して17年に渡り鹿児島の気象に没頭していたが、異郷長州の産である。

 地縁的しがらみを持たぬ山口出身の鹿角であったからこそ、全ての責を負わせるには格好の対象であり、そうすることで、本来慢性的に存在して来た地域社会の問題や、その他の関係者の責任が、桜島での惨禍の原因としてほぼ見えなく成るという遠景がそこにはある。

 そう言う意味で、鹿角糾弾を行った側に意識無意識の差分が有るとしても、鹿角は明らかにスケープゴートである。

 県令谷口や鹿児島県議会そして新聞社等が、後に執拗な程「大昔から噴火が繰り返されて来た」のに「測候所が警告出来なかった」と指摘するのであれば、ではそれ以前に、地元の為政者達が「過去繰り返されて来た」リスクに対して、なぜ彼等も又、備え、そして取り組めなかったのか?という、という疑問へと跳ね返る。

 むしろ、永年の地元名士達にこそ、先祖の経験知を活かせなかったという責任は重い。前年末の鹿角の上申を前提とするなら、尚更である。

 例えば、東桜島村の村長川上が痛烈に批判していた様に、過去噴火が有り、同様の変事が有りながら噴火無しの表明を出し続けた測候所と言う指摘には、自身も肉親に犠牲者を出したとはいえ、過去の変事を知りながら鹿角の「避難の必要なし」を「逃げては成らない」とまで拡大解釈した事への自省が見当たらず、何より変事を報告しなかった者の責任を度外視する中での論理の飛躍が有る。

 つまり、困難な状況で、「何か」を表明する事を迫られ続けた鹿角に責任を押し付ける事は簡単では有る。

 だが、仮に前日の11日に正しく震源を言い当てられた場合を想定しても、「震源が桜島」という部分から、今の観測体制を持ってしても「桜島噴火の日時」を正しく言い当てる事が誰にも出来ない以上、実は緊急避難において、もともと火山に住まう地として見て、「有事」の対策として慢性的な不備から生じる同じ問題が発生したことは自明である。

 そして、被害実態を見ても、その人的被害の主な物は二次・三次的な備えの不備から生じた悲惨な物であり、さらに、後に避難民と鹿児島市民との間で生じた深刻なトラブルや、島民の避難地での苦心惨憺も又、大きな不備と言う問題がつきまとう。

 それは、鹿角も後に述べている様に、噴火に地震は伴うが、火山性地震も含めて、地震に噴火は伴うとは限らない以上、明確に噴煙を見て初めて予見出来る部分が在る(注.1)。つまりは、タイミングの問題にしか過ぎない。ここで、「何か」を認めていつ避難するかも又、非常に難しい政治的判断なのである。

 つまり、本来であれば、「何か」を求め続けた側にも又、本来ならば、ブーメランの様に「何が出来て何が出来なかったのか」が試される側であったと言える。

 しかし、鹿角に避難の全てを集中させれば、それが全く見えなく成ってしまう。

 当時の鹿児島県側に立つものであれば、当然、行政組織を考えてみた場合に、そもそも、危機に対してどう備えるかと言う問題は、測候所の職域ではない事は全員が認識していたと言えるだろう。

 危機に対して備える事はむしろ政治である。
 つまり多分に法令制度化を前提とした広範囲の社会運営にまつわる政治判断と、軍隊や警察そして役場等の治安組織体制による危機管理体制のコントロールという極めて大きな社会体制上のテーマとして、大前提に県と言う政治体制が取り組まなければ成らないテーマであった筈だ。

 故に、社会側の「備え」として、その整備が何も行われてこなかった事にこそ、本質的な問題が本来はそこに集中するかと言える。
 しかし、ここで測候所の見立て違いのみを糾弾すれば、その後の備えに関する指令系統の本質的な問題が一切見えなく成る。

 現実に、県議会は苦しい財政状況とはいえ、当時の大卒初任給三ヶ月分を切る地震計の予算さえ通過させず、県令山口にせよ噴火と言う「いつか来る日」に向けて、鹿角の上申を早急に具体化させる様な政治的な運動を強く見せる事はしていない。政府震災予防調査会の大森も代理を派遣せず、一月末に訪鹿と回答し、県側もそれを受けている。
 鹿角の上申は熟慮されず、その切迫感はほぼ共有されていない。

 同時に、複数の史料には、明らかにミルングレーがもう一台県下に存在し、県庁内で運営されていた様子が断片的に文字の間に残るが、測候所の観察の不正確を指摘する以前に、県庁内の地震観測体制が何故機能しなかったのかの言及は無い。(注.2)

 また、測候所の鹿角による県警への8時点の報告が何故、そこで明確な警告として広範に発令出来なかったのかと言う点に言及する様な史料を見いだす事が出来ない。

 少なくとも、県の責任として前年から継続的に、何より正直に取り組もうとした形跡は見いだせない。
 そして、「大​正​三​年​桜​島​大​爆​震​記」で述べられている様に、測候所が行った震源地を桜島とする12月8時の報告はかき消されるのである。(注.3)

 確かに、鹿児島県下で発生した地震に対して、鹿角が事前に発生していた霧島噴火や伊集院地震との関連付けを強めていたというバイアスが、当時の測候所の不充分な地震観測体制の中で、震源を桜島とする認知への到達を遅らせた様子が見えるし、そこに「今から思えば」的な技術論や職業人としての神経質な問題を孕んでいる事は見える。

 しかし、それとても、いずれ「起きるかもしれない」大きな社会的災害の全責任を、鹿角の一身に集中させうる程の「罪」はそこにあるとは言えないと思う。
 つぶさに検証を重ねる程、やはり測候所や鹿角の立場にとって、不可抗力と言う側面が余りにも強かろうと思う。

 逆に、やはり県側や土地の為政者にとって、桜島の噴火被害について真相究明をしなかったという前提に、自らへの火の粉が及ぶ事を恐れて、むしろ決して真相究明が正確に「出来なかった」という部分で、批判側に免責への意思を指摘できるかと思える。
 
 大正3年5月10日、引責辞職を却下された鹿角は転勤を願い出て、多度津へと出向し鹿児島へは二度と返らなかった。それは、鹿児島に対する永遠の別離であった。



(注.1)
「気象集誌」大正3(1914)年2月号

(注.2)
 散発的な情報はあるが断定的な情報が無い。担当技師が少なくとも一名居た事と、ミルングレー地震計が運用されていた。記載に担当技師名が残る。

(注.3)
「大​正​三​年​桜​島​大​爆​震​記」 P42

参考資料
「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1914 桜島噴火 」内閣府
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1914-sakurajimaFUNKA/pdf/07_chap04.pdf


写真「大​正​三​年​桜​島​大​爆​震​記」