期待と愛着
最近、とある事情で、スマホをアイフォンに変えました。10年以上前に、i pod が発売された時、『これは流行らない』と、豪語した直後から、アップルフィーバー。その時の悔しさもあって、アップルは使わない。と、だいぶ小さいレベルでの個人的不買運動をしていた訳ですが、、、そんな自分の手元にアイフォンがやってきました。最初は、今までのアンドロイド製品との比較で、アイフォンの欠点ばかり見ていましたが、まぁ、最新の機種ともなれば、使いやすいのは確かです。個人的な小さいレベルの反抗心なんて、すぐに消えました(笑)(忠誠心が足りないとか、裏切り者とか言わないでくださいね。)とかく、自分の所有物にはとても愛着が沸くタイプでして、車とかバイクとかも、すごく綺麗にしておきたいですし、ボールペン一本にしても、財布など持ち物に感しては、納得いくまで吟味して、所有したら、溺愛する(笑)という傾向はあると思います。でも、今は、何でもシェアの時代。新製品が次々と出て、時代の流れや新製品を使い続けると考えるならば、いっそ所有せずに、シェアという方法が合理的なのかもしれません。何故、ここまで、新製品が出るのかと言うと、恐らく使う側が『飽きる』からでしょう。見た目とかその機能など、真新しいものが、興味関心を生み、今自分の手元にあるものが、なんだかもう古く感じ、飽きてしまう。あとは、その製品や使う用途や、その人それぞれの価値観にもなってくるのでしょうが、買い替えサイクルが早いものと、そうでなく、長期間じっくりつかっていくもの。そういった分け方もあって言いと思います。替えが効くものであれば。人の身体は、そうはいかないです。そんなこと当たり前に分かっています。と、言われてしまいそうですが、替えが効かない事は分かっているし、物と身体は別物。そう、身体はモノではないです。でも、所有する側 と 所有される側 という、二つの立場で考えると、身体とモノというのは、少し同じ考え方が出来る事もあります。物理的な身体 と それを動かしている、”意識”“意識”というのが、“魂”なのか、また別の呼び方があるのかもしれませんが、自分が腕を動かして、その動いている腕を見たときに自分の腕が動いている。と認識できる。そこに 動く身体 と 動かしている“何か” はあります。となると、その身体には、所有者というか操縦者というかが存在しています。その所有者が、その身体に対して、あまり愛着が沸かない、飽きた として、『はい。シェア。交換。』とは、“まだ”いかないでしょう。その身体の唯一の所有者・オーナーは、その“意識”でしかなく、あなたの身体の唯一のオーナーであったり、理解者は、“あなた自身”でしか有り得ないのです。恐らく、今のスマホよりももっと、まだまだ使いきれていない機能や能力が身体には存在します。所有者が、自分自身の身体の可能性を信じて、愛着を持って観ていてあげないと、身体は身体で、表に出さない意志を持っていますので、信用されていない、期待されていないと落胆してしまいます。ここでいう、愛着というのは、なんでもかんでも肯定して、自分はこれでいいんだって大っぴらにすることではなく、否定することがあってもいいと思いますし、何故だ?と疑問を持ったり、もっとこうなったら良いって思うことは、あって当然だと思います。ただ、最後の最後に、その身体を理解して信じて、そして変えていけるのは、そのオーナー自身でしかないって思うんですね。『自分に期待って、自信過剰かよ・・・』『自意識高く持ちすぎるのってどうなの・・・?』自信過剰 や 自意識高い というのは、他人が判断することなので、自分の中に納まる期待や意識の高さは、むしろ持ったほうが良いと思います。というよりは、持つことも、持たないことも、それは、その所有者の勝手なのですが、やっぱり、いつも自分のそばで、頑張ってくれている身体には、愛着と期待を持って過ごす事って、すごく大切だと感じています。