国立公文書館蔵「樺太千島交換条約正本」

 

 

 私は、歴史好きでもあります。

 特に、我が国北海道を中心とする北辺の日露国境確定史にも学生時代から大変興味がありました。私の本年314日付ブログ「歯舞群島及び色丹島」でも記載しましたが、北方領土問題解決には、先ずは北方四島中の歯舞群馬及び色丹島のロシアから我が国への返還が鍵となります。

 

 

 さて、本日57日は、今から145年前に平和的外交交渉により日露国境が確定した日です。即ち、千島列島の中千島得撫(ウルップ)島以北から北千島占守(シュムシュ)島までの18島が我が国領土に帰属した日です。

 

 1875(明治8)57日、我が国🇯🇵とロシア🇷🇺が、全権榎本武揚がロシア訪問のうえ全権アレクサンドロフ-ゴルチャコフとの間でサンクトペテルブルク条約(樺太千島交換条約)を締結しました。

 即ち、日露間の樺太国境確定交渉が難航し、そのため1855(安政2)27日に日露通好条約を締結して以来、日露両国人雑居地(共有)であった樺太全島(事実上、樺太開拓使を設置し実効支配していた概ね北緯47度以南の樺太南部)を放棄する代償として千島列島最北端の占守(シュムシュ)島とカムチャッカ半島ロパトカ岬の間の海峡を日露間の国境とした平和的条約です。

 

引用  外務省HP「北方領土問題の経緯(領土問題の発生まで)

 

 

 

 

 

参考 樺太千島交換条約以前の元々、北緯49度以内の樺太(北蝦夷)南端及び択捉島以南の南千島(東蝦夷)が日本領土であった事を示す古地図3点(①から③)

 

①国立公文書館蔵

「高橋景保監修、永田善吉の銅板による日本辺界略図1809(文化6)」のアイヌ民族の聖地であった北緯49度以南の北蝦夷(樺太)が日本領土。帝政ロシアの進出がなかった模様。なお、北緯49度以北の北蝦夷(樺太)には、犬雪車を交通手段としたギリヤーク民族が聖地として生活していた模様。

 

 

 

②国立公文書館蔵

 

「フォン-シーボルト地図1828(文政11)」

赤色ロシア領、黄色日本領。北緯47度以南日本領土。帝政ロシアの軍事進出があった模様。

 

 

 

 

③国立公文書館蔵

「明治維新後1870(明治3)頃の蝦夷地地図」

北は北緯47度以南の樺太南端、東は択捉島まで日本領土。当初、明治政府は、樺太開拓使を大泊に設置し北緯47度国境確定を模索していた模様。

一方、択捉島及び国後島については、1855年(安政2年)2月7日締結の日露通好条約で日本領土が確定していた模様。

 


 樺太千島交換条約は、日露両国語ではなく、当時、国際公用語であったフランス語正文で締結され批准されました。

 

 

 

 問題なのは、ロシアから譲り受けた千島列島の範囲に北方領土の択捉島と国後島が含まれるのか否かを巡る論争ですが、この条約では含まれていない事は明らかです。

 

公文書館蔵「樺太千島交換条約正本」

 

(フランス語正文)

En échange de la cession à la Russie des droits sur l'île de Sakhaline, énoncée dans l'Article premier, Sa Majesté l'Empereur de toutes les Russies, pour Elle et Ses héritiers, cède à Sa Majesté l'Empereur du Japon le groupe des Îles dites Kouriles qu'Elle possède actuellement avec tous les droits de souveraineté découlant de cette possession, en sorte que désormais ledit groupe des Kouriles appartiendra à l'Empire du Japon. Ce groupe comprend les dix-huit îles ci-dessous nommées : 1) Choumchou

 

18) Ouroup, en sorte que la frontière entre les Empires de Russie et du Japon dans ces parages passera par le détroit qui se trouve entre le cap Lopatka de la péninsule de Kamtchatka et l' île de Choumchou. [5]

 

(第1条に述べられたる、サハリン島に対する諸権利のロシアへの譲歩の代わりに、全ロシア皇帝は後継者に至るまで、現在自ら所有するところのクリル諸島のグループを、その所有に由来する凡ての主権とともに日本皇帝に対してゆずる。従って、上述のクリル諸島のグループは日本国に属する。このグループは以下に挙げる18島をふくむ。:1)シュムシュ

途中省略

18)ウルプ 従ってこの海域におけるロシア国と日本国の境界はカムチャツカ半島ロパトカ岬とシュムシュ島との間の海峡を通過することになる。)[6]

 

(日本語訳文)

全魯西亜国皇帝陛下ハ第一款ニ記セル樺太島(即薩哈嗹島)ノ権理ヲ受シ代トシテ其後胤ニ至ル迄現今所領「クリル」群島即チ第一「シュムシュ」島

途中省略

 

第十八「ウルップ」島共計十八島ノ権理及ヒ君主ニ属スル一切ノ権理ヲ大日本国皇帝陛下ニ譲リ而今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ柬察加地方「ラパツカ」岬ト「シュムシュ」島ノ間ナル海峡ヲ以テ両国ノ境界トス

 

 

国立公文書館蔵

1875(明治8)千島樺太交換条約以後、明治中期の日本全図

 


 上記の地図では、当時、千島列島も北海道全図に記載され北海道として認識されていた事が判ります。

 

 

 しかしながら、1951(昭和26)98日のサンフランシスコ条約で我が国が主権放棄した千島列島には択捉島及び国後島を含まれていた事は、厳然たる歴史的事実であります。

 一方、ロシアが領有の根拠とする1945(昭和20)211日にアメリカ、イギリス、ソビエトの3国間のヤルタ秘密協定ですが、当該協定の千島列島の範囲こそ曖昧なものの、対日参戦後のソ連軍軍事侵攻状況から得撫島以北の千島列島を引き渡しの対象と考えていたのではないでしょうか?

 いずれにしても、いい加減な協定です。

 

 

引用 内閣官房HP「領土問題の発生」より

 

 

 

 今後、1993(平成5)1013日の東京宣言に基づき南千島の択捉島及び国後島の帰属を日露間で話し合い解決する事が法と正義であるものと考えます。

 確かに、ロシア(当時ソビエト)は、南樺太約3.6万㎢及び千島列島約1.56万㎢の合計約5.16万㎢(現在の我が国国土の約7分の1相当)の大量の領土を終戦直前に参戦し我が国から奪って占領併合したのでありますから、固有の領土南千島約5000㎢は、北海道附属島嶼である歯舞群馬及び色丹島と共に四島一括返還すべきとの我が国の従来通りの立場があります。

 しかしながら、我が国は、大日本帝国敗戦の結果として、①1951(昭和26)98日締結のサンフランシスコ条約第2条により南樺太及び南千島を含む千島列島の主権を放棄した事及びは厳然たる歴史的事実であり、②他方、ソビエトが当該条約をボイコットし国際法に南樺太及び千島列島を領有する条約的根拠ない事も厳然たる歴史的事実であります。

 したがって、未来志向で日露平和条約締結を考えるときに、隣国同士の平和共存共栄を俯瞰するならば、少なくとも南千島の択捉島及び国後島の帰属を日露両国が痛み分けして国境確定すべきが至当との結論です。

 ロシア側も、50歩引いて我が国の立場に立つことが、日露平和条約締結以降の未来の自国の利益に繋がる事を俯瞰すべきであります。北方領土問題の「日露平行線」に終止符たる試金石を打つべきであります。

 

 それには、我が国も、50歩引いてロシアの立場に立つこと、即ち1956(昭和31)1019日に締結した日ソ共同宣言第9項に規定する歯舞群馬及び色丹島の日露平和条約締結後の「二島返還」を基礎に、南千島の択捉島及び国後島の帰属につきロシアと折り合いを付けながら様々なバリエーションを模索しながら国境確定の実現を図るべきです。例え、北海道知床半島から望む国後島全島及び択捉島南端の一部の返還で妥結したとしても、我が国は恥じる必要は全くないと思います。

 なぜなら、世界史上、戦争によらず平和条約交渉による国境確定こそが「地球よりも重い。」からです。そして、何よりも、国際的に日露両国共に真の外交的勝利を勝ち得るからであります。

 

 

 

 

引用

「北方領土4島他の問題を戦略的に考える」より