先ず初めに、今日、安倍総理とプーチン大統領との間で日露交渉が進展しているのは、鈴木宗男参議院議員が永年、選挙区に抱える北方領土問題解決に真摯に御尽力されてきた恩恵であり、筆者は一国民として感謝を申し上げます。

出典北方領土・4島他の問題を戦略的に考える



現代まで日露間で係争する北方領土(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)帰属及び国境確定問題は、1945815日ポツダム宣言受諾による大日本帝国の敗戦及び818日から95日までのソ連軍による千島列島並びに北海道の歯舞群島及び色丹島への侵攻占領の結果として、1952年のサンフランシスコ平和条約第2条第C項による我が国の千島列島主権放棄及び主権放棄した千島列島の具体的な範囲島名不明記(※注1参照)並びに同条約へのソ連不調印により生じた問題であり、その解決には、1956年日ソ共同宣言第9項の「平和条約締結後の歯舞群島及び色丹島の引き渡し(返還)」を基礎とする事が残された唯一の道です。約10年前にプーチン大統領及びゴルバチョフ旧ソ連大統領も「ロシアは、歯舞群島及び色丹島の返還義務がある。」と表明しています。

国際法上、日露両国間に現代も国境は不存在ですから、したがって、国境問題の解決が必要です。


現在、北方領土(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)の内、北海道と生活圏が一体の泊(国後島羅臼岳以西西側)と歯舞群島以外には、ロシア🇷🇺人が、島民として生活しています。

概ね、択捉島約7000人、国後島羅臼岳以東の古釜布(ユジノクリリス)中心に約6000人、色丹島約3000人です。

また、択捉島、国後島羅臼岳以東、色丹島穴潤には、ロシア軍基地又は国境警備基地があり、更に択捉島と色丹島にロシア企業ギロストロイの水産物加工工場があります。


さて、北方領土問題の発端は、19452月第二次世界大戦末期に、グルジア人共産党独裁者ヨシフ  スターリンが、アメリカ合衆国ルーズベルト大統領及び大英帝国チャーチル首相とでヤルタ秘密協定(※注2参照)により、194589日に日ソ中立条約無視の対日参戦をし、結果、818日から95日までに千島列島等(北方領土即ち択捉島、北海道と一体の生活圏にあった国後島、北海道の歯舞群島及び色丹島まで)を知床羅臼と根室から、雑草のように捥ぎ取り、同胞島民を追放し、ソ連共産主義政策「帝国主義からの人民解放」を大義名分赤旗の下に、ロシア人を南千島の国後島西部及び北海道の歯舞群島以外に植民。しかも、千島列島及び北海道の歯舞群島及び色丹島の歴史的地理隠蔽のために、占領地全部をサハリン州に編入した事にありました。なお、北海道歯舞群島及び色丹島までもマロークリル(小千島列島)と呼称して併合しました。また、我が国が終戦日を1945815(ポツダム宣言受諾日)としているのに対して、ソ連時代からロシアが92(我が国の降伏文書調印日)としているのは、815日終戦後に千島列島などに侵攻し併合した事実を正当化するためであります。ただし、ロシアが92日を終戦日として、その日までに占領した北方領土全てが第二次世界大戦の結果、ロシア領土となったと主張するにしても、実際にソ連軍が歯舞群島及び国後島羅臼岳以西に侵攻上陸したのは、ロシア側(旧ソ連)の記録からも93日から5(注3参照)ですから、辻褄が合いません。反対解釈すると、歯舞群島及び国後島羅臼岳以西が、我が国領土であると言う理屈になります。


しかし、スターリン死後のフルシチョフ時代に日ソ共同宣言第9項により、「平和条約締結後の歯舞群島及び色丹島の引き渡し(返還)」を約定し、両国国会で批准しました。国際法上、現代まで有効です。

 

したがって、解決には、日ソ共同宣言を基礎に返還地域の確定と返還地域とロシア側に残る地域を日露両国の共同申請で世界自然遺産登録(択捉島、国後島と知床半島一体の登録)する事による非軍事化が現実的だと思料します。


私は、日ソ共同宣言第9項平和条約締結後の歯舞群島及び色丹島の返還を基礎に、1960年代池田勇人内閣時代に1952年サンフランシスコ平和条約で主権放棄したと解釈していた千島列島南部の択捉島及び国後島に対する主権放棄の撤回権を行使して領有権を主張し始め、後に北海道の歯舞群島及び色丹島と千島列島南部の択捉島及び国後島とを合わせ北方領土四島として返還運動を推進してきた。」経緯から、歯舞群島及び色丹島の帰属問題は我が国帰属で解決済みであり、択捉島及び国後島の帰属問題が日露間で交渉されるべきが本筋です。そして、国際法上、歴史的にも北海道と特に密接に生活圏が一体であった国後島を中心に択捉島の南部までを我が国に帰属させる北方領土面積折半返還が「法と正義に基づく最終的解決」であると思料します。次に、ロシア島民の住民保護の観点からロシア側が譲歩しない場合には、住民非居住の歯舞群島及び松が浜から大崎に国境線を引き以西の色丹島西端並びに羅臼岳に国境線を引き以西の国後島(国境線で我が国領土内となるメンデレーエフ空港と道路は日露共有)を我が国への返還地域に確定する事が現実味を帯びるものと考えています。或いは、複雑な国境を避けるなら、人口密度が高い色丹島(255平方キロメートルに対して3000人、人口密度11.75)をロシア側に残す代わりに、国後島(約1500平方キロメートルに対して6000人、人口密度4)を我が国に返還地域に確定する事も現実味を帯びるものと考えています。即ち、歯舞群島及び国後島の2島返還です。

しかし、更に、国後島羅臼岳以東の古釜布(ユジノクリリス)を中心部とする以東地域には、ロシア人島民が98.5パーセント居住しておりロシア側が拒否する可能性が高く、国後島羅臼岳以西の北海道羅臼側の以西地域の約500平方キロメートル(国後島約1500平方キロメートルの約3分の1)を返還地域に確定する事が現実的解決策であるとの結論です。

即ち歯舞群島及び国後島3分の1の返還策1.33島返還策です。


国後島は地理的に千島列島南部に含まれますが、北海道の色丹島及び排他的経済水域をロシアに残すのと、交換して国後島西部及び排他的経済水域を我が国に返還されること事は、北海道の利益に叶うと考えているからです。

即ち、陸上面積でなく排他的経済水域を含めての解決を基礎に、なるべくロシア人島民の居住権を害する事なく、北海道の利益(=根室海峡、三角水域、北太平洋排他的経済水域の確保)を確保できるとの結論からです。


しかしながら、究極的な目的は、日露両国の国家国民百年の大計を俯瞰した平和条約締結と日露共存共栄です。

先ず、平和条約締結後に、我が国に返還される島数が、例え、前記1.33島であっても、プラスアルファとしてロシア側に残る北方領土と併せて、北方領土全体の振興を図るべきが建設的と思料します

21世期中に、択捉島天寧空港とハワイオワフ島ホノルル空港の直航便が往来し観光客で賑わう日が訪れるでしょう。



※注1

サンフランシスコ平和条約第2条につき、吉田茂全権は、受諾演説で「千島南部の択捉島及び国後島が固有領土であり、北海道の一部である歯舞群島及び色丹島である旨」を述べた。


※注2

ヤルタ秘密協定

 対日参戦の代償として我が国から「1905年日露戦争後のポーツマス平和条約により我が国主権となった北緯50度以南の」南樺太返還(但し、間宮林蔵の間宮海峡発見に象徴されるように古来から樺太全島が北蝦夷と呼ばれた我が国領土と認識されていたことから、1905年ポーツマス平和条約で当時ロシア人軍人約1000人程度が大泊(コルサコフ)に駐留している以外は、北部ギリヤーク民族及び南部アイヌ民族の先住民が先祖伝来静謐に生活していた樺太全島のうち北緯50度以南の樺太が我が国に回帰して以降、殖産興業を推進し鉄道網を整備し北の眞秀となり、北海道、本州、四国、九州と共に我が国本土とされ同胞約50万人が島民として居住)と、「1975年樺太千島交換条約で平和裡に我が国主権となった得撫島から占守島18島のクリル諸島なのか我が国固有の択捉島及び国後島までを含む千島なのか範囲不明確の」千島列島引き渡し


※注3

歯舞群島及び国後島羅臼岳以西への侵攻占領の日時(下線)

ボリス・スラヴィンスキー/著『千島占領』(共同通信社 1993.7)に基いて記載。



194582217

暗号電報第677

ワシレフスキー元帥は、クズネツォフ、太平洋艦隊司令官ユマシュコフ上級大将に対して、北海道を避けて第87狙撃兵団の先兵を南千島へ輸送することができるかどうかを検討するように命令。



23

太平洋艦隊参謀部より北太平洋艦隊司令官に宛て、択捉島と国後島へ海兵2個小隊を乗せた掃海艇二隻を派遣することが命令された。

232時、電報第6360号発信。南千島攻略作戦はレオーノフ大佐にゆだねられた。このとき、レオーノフは真岡から大泊に向かっていた。 


25日5時


太平洋艦隊参謀部より北太平洋艦隊司令官に宛て、択捉島占領のための準備命令が下されるが、北太平洋艦隊司令官アンドレーエフ海軍少将は、レオーノフの大泊港占領作戦が完了していないことを理由に、命令の再考を求めた。


2510時 

レオーノフの大泊港占領作戦が完了。ドブロヴォーリスキー海軍大佐到着まで、レオーノフが臨時の大泊海軍基地司令官に任命された。

正午までに、第56狙撃兵団の先鋒部隊は豊原に入城。

これにより、南樺太はソ連軍に占領された。



 


択捉島 
26540

大泊港上陸作戦に参加した艦船は特別船団に編成され、レオーノフが指揮をとることになった。

特別船団には、国後島・択捉島への上陸部隊の揚陸を伴う偵察が命じられた。

261250

掃海艇第589号、掃海艇第590号、大泊港から、択捉島に向けて出航。

27日


(この項は、千島歯舞諸島居住者連盟創立者の高城重吉氏の証言であるが、日にちは28日の誤りである可能性が高い。)

 9時ごろ、ソ連軍艦が択捉島西岸の紗万部沖に現れる。発動機船に乗船し、9時半、両船の距離は1500mに接近。高城はソ連艦に乗り込み、天寧・留別の場所を教える。10時ごろソ連艦から離れる。

 19時、留別からの第一報で、ソ連艦上陸を知る。

281315

掃海艇第589号、掃海艇第590号は択捉島留別湾に入港。20分後、掃海艇第589号から揚陸を開始した。

上陸すると、日本軍軍使が現れて、降伏の用意あることを伝える。

3018

揚陸指揮官ブルンシテイン海軍中佐、択捉島で6000人を捕虜としたが、3000人は別の場所にいるため即座に捕虜にすることは困難と、報告。

315

掃海艇第590号は100名の上陸部隊を乗せて、択捉島留別湾から国後島へ出航。



後島東部古釜布

9月2日早朝


大泊港において、ヴィニチェンコ海軍少佐率いる部隊は乗船し、国後島へ向けて出航。


5時40

掃海艇第590号とヴィニチェンコ海軍少佐率いる部隊は国後島古釜布湾で合流。

640

部隊の揚陸開始。上陸すると、日本軍軍使が現れて、降伏の用意あることを伝えた。

105

ヴィニチェンコ部隊は国後島上陸古釜布に上陸し、捕虜・武装解除に着手した。

11時


チェチェリン海軍少佐指揮する部隊は、大泊港で乗船完了。 

34

チェチェリン海軍少佐指揮する部隊が、国後島古釜布湾に到着した。

4825

ウスペンスキー海軍大佐指揮下の上陸部隊が、国後島古釜布湾に到着した。 


国後島西部泊

59

ウスペンスキー海軍大佐指揮下の上陸部隊が、国後島羅臼岳以西の泊港に上陸し、占領。


色丹島


831230

ヴォストリコフ海軍少佐指揮下の第113狙撃旅団の2個大隊からなる上陸部隊(総勢600名)が編成され、大泊から色丹島に向けて出航。 

919

ヴォストリコフ部隊は色丹島の斜古丹湾にはいる。

先進部隊の上陸後、日本軍軍使が現れ、降伏の用意があることを告げた。 

1140

色丹島上陸を完了し、捕虜・武装解除に着手した。




歯舞群島

921040

北太平洋艦隊司令官、電報第7071号により、レオーノフ大佐に対して、歯舞群島の占領作戦準備を命じる。(作戦の遂行は、チェチェリン少佐に委任)。

レオーノフ大佐は無線で命令をチェチェリン少佐に伝えたが、連絡が不良であったため、作戦準備指令であることを伝えることはできなかった。

36

4時に国後島古釜布湾に到着したチェチェリン少佐は、上陸部隊の編成、歯舞群島の調査に着手した。

第一グループには水晶島・勇留島・秋勇留島を占領する任務を与え、第二グループには多楽島・志発島・春刈島を占領する任務を与えた。

3日11時



チェチェリン少佐指揮下の第一グループ・第二グループは古釜布を出航。

4日3時50分

チェチェリン少佐指揮下の第一グループ・第二グループは歯舞群島の担当地域に到着。

13時:歯舞群島の偵察完了。部隊の揚陸開始。日本軍は降伏の用意を示した。

1930分:諸部隊の揚陸完了。

5日19時

歯舞群島の日本軍部隊は武装解除され、捕虜と武器の引渡しは完了した。

2335分:捕虜と武器を国後島古釜布湾に移送完了。