北蝦夷と呼称された樺太(サハリン)島南部は、少なくとも江戸時代17世紀初期より古くから、南端亜庭湾の久春古丹(大泊、コルサコフ)と久春内(真岡、ホルムスク)を中心に北洋漁業拠点として栄え、松前藩の陣屋もあり、我が国領土でした。

また、帝政ロシアが、長崎に日露開国要求のためニコライ レザノフ提督を派遣し江戸幕府の開国拒絶にあった直後に、その報復として、レザノフの部下ニコライ フヴォストフが文化3年(1806年)に樺太南端亜庭湾の久春古丹を襲撃し事からも我が国領土と認識していた事は明らかです。また、東蝦夷の択捉島沙那港への襲撃も同様でした。

なお、その直後の文化5(1808)、ロシア進出状況確認のため江戸幕府の命を受けて樺太北部の調査をした松田伝十郎に従った間宮林蔵が、沿海州と北樺太の間の間宮海峡を発見する偉業を成し遂げました。また、樺太北部にもロシアの進出はなくロシア人の定住もなくギリヤーク人等が先住する状況が確認され、樺太南部先住アイヌ人は日本人として処遇され漁場の開発運営等に当たっていました。

当時、商人栖原角兵衛と伊達林右衛門は、共同で久春古丹(大泊)と宗谷の間に500 石以上の帆船2艘を就航させ、漁場48箇所を経営し、亜庭湾沿岸部を中心に樺太南端7ヶ所の宿泊所を設け交通の便を計りました。


続く。