寺尾聰×小倉智昭スペシャルトークショー
■ライブで寺尾聰のトーク
「フジテレビ お台場オトナPARK これからはじめる! オトナセミナー」の寺尾聰トークショーに、東京・お台場のフジテレビまで、出かけてきた。
この連休の3日間を使って、小倉智昭が総合プロデューサーを務めるイベントだ。今年、還暦を迎えた小倉は「団塊の世代がお台場に来て、楽しく・元気になれるイベントを考えた」と言う。ライブやセミナー、飲食ブースなど、フジテレビ全館をイベント会場に行われた。
少し早めに行って、他の会場でも覗こうと思ったが、ゆりかもめで台場の駅を降りると、あんまりに人が多くて止めた。連休で子ども連れが多く、さしずめ、安・近・短で、お台場に、遊びに来ているといった感じだ。なので、おとなしくカフェでコーヒーを飲んで、開場を待った。
午後4時から始まったトークショーの会場は、約160名の席で満席。みんな往復ハガキで応募。ハイ、わたしもハガキを出しました。寺尾聰と小倉智昭は、2年前にインタビュー番組で意気投合し、それ以来、ゴルフ仲間だ。
寺尾聰は、Gパンに茶色の革ジャンというラフなスタイルで登場。
小倉が「寺尾さん、座談会とかトークショーって出ないですよね?」寺尾は「そうですね。小倉さんのお声かがりなので、今日は来ました」そんな感じでスタートした。
トークショーなので、こういう掛け合いで進行したが、小倉が寺尾をインタビューしたので、これ以降は寺尾の話を中心に進めていこう。
■浮き沈みの激しい芸能生活
小倉さんと親しくなったのは、2年前だけど、実は20~30年年前から、僕は小倉さんのことを意識していました。六本木のライブハウスで、やたらにバンドに詳しいアナウンサーがいるな、と思っていたんです。小倉さんとは、浮き沈みが激しいのも、性格が似ているところがあるようだ。僕は売れていない時に、キャバレー回りしていたこともあるんです。
[寺尾は66年にザ・サベージのベーシストとして「いつまでもいつまでも」でレコードデビュー。その翌年、グーループを脱退、石原プロに所属し、俳優として映画デビューする。]
音楽活動は、三保敬太郎さんたちと、座がシラケるという意味の「ザ・ホワイト・キックス」に参加しました。
お金がなくなって、曲を作ってレコード会社に売り込みに行ったんです。その時、作曲したのが、カセット二台でいわゆる多重録音したのが「ルビーの指環」などの曲です。2社レコード会社に行ったのですが、後から行ったレコード会社で、契約金のような形で、前金をもらえる交渉が成立したので、最初に行った東芝EMIに、その話しをして、その会社より少し高い前金をもらえることになり、東芝EMIからレコードを出すことになりました。
その当時、石原プロで「西部警察」のレギュラーとして、ドラマ撮影で全国を飛び回っていた。そしたら、ロケ先のパチンコ屋なんかで、自分の歌が流れていることがあり、「ザ・ベストテン」などの歌謡番組に、出演依頼が来るようになったんです[「ルビーの指環」は81年にレコード大賞を受賞]。
石原プロは、版権をある有名な会社に譲っていたため、作曲の印税を、85%くらい持っていかれ、勤労意欲なくして、俳優業に専念していました。
■世界に通用する映画をつくりたい
最近、仕事をしていないと言われるんですが、来年の春から国営放送の地方局で制作する、定年の前の刑事役でドラマに出ます(これは推測だが、土曜ドラマではないだろか?)。
今やりたいのは映画です。自分で監督したいのと、小泉監督と一緒にやりたいものがあるんです。世界に通用する映画だと、僕は思っているんですが、五億から十億ぐらいかかるので、プロデューサーがいなくて、スポンサーが付かない。去年からいろいろ動いているんですが、個人では壁が厚くて、なかなか思うようにいかないんです。
・・・とまあ、こんなトークが行われました。予定より15分オーバーの1時間のトークショーでした。
そうか、寺尾聰は、映画を撮りたいだぁ~。
どうも、最近、CM出演しかないと思っていたが、水面下で動いていたけど、うまくいかいないということだ。
「フジテレビ お台場オトナPARK これからはじめる! オトナセミナー」の寺尾聰トークショーに、東京・お台場のフジテレビまで、出かけてきた。
この連休の3日間を使って、小倉智昭が総合プロデューサーを務めるイベントだ。今年、還暦を迎えた小倉は「団塊の世代がお台場に来て、楽しく・元気になれるイベントを考えた」と言う。ライブやセミナー、飲食ブースなど、フジテレビ全館をイベント会場に行われた。
少し早めに行って、他の会場でも覗こうと思ったが、ゆりかもめで台場の駅を降りると、あんまりに人が多くて止めた。連休で子ども連れが多く、さしずめ、安・近・短で、お台場に、遊びに来ているといった感じだ。なので、おとなしくカフェでコーヒーを飲んで、開場を待った。
午後4時から始まったトークショーの会場は、約160名の席で満席。みんな往復ハガキで応募。ハイ、わたしもハガキを出しました。寺尾聰と小倉智昭は、2年前にインタビュー番組で意気投合し、それ以来、ゴルフ仲間だ。
寺尾聰は、Gパンに茶色の革ジャンというラフなスタイルで登場。
小倉が「寺尾さん、座談会とかトークショーって出ないですよね?」寺尾は「そうですね。小倉さんのお声かがりなので、今日は来ました」そんな感じでスタートした。
トークショーなので、こういう掛け合いで進行したが、小倉が寺尾をインタビューしたので、これ以降は寺尾の話を中心に進めていこう。
■浮き沈みの激しい芸能生活
小倉さんと親しくなったのは、2年前だけど、実は20~30年年前から、僕は小倉さんのことを意識していました。六本木のライブハウスで、やたらにバンドに詳しいアナウンサーがいるな、と思っていたんです。小倉さんとは、浮き沈みが激しいのも、性格が似ているところがあるようだ。僕は売れていない時に、キャバレー回りしていたこともあるんです。
[寺尾は66年にザ・サベージのベーシストとして「いつまでもいつまでも」でレコードデビュー。その翌年、グーループを脱退、石原プロに所属し、俳優として映画デビューする。]
音楽活動は、三保敬太郎さんたちと、座がシラケるという意味の「ザ・ホワイト・キックス」に参加しました。
お金がなくなって、曲を作ってレコード会社に売り込みに行ったんです。その時、作曲したのが、カセット二台でいわゆる多重録音したのが「ルビーの指環」などの曲です。2社レコード会社に行ったのですが、後から行ったレコード会社で、契約金のような形で、前金をもらえる交渉が成立したので、最初に行った東芝EMIに、その話しをして、その会社より少し高い前金をもらえることになり、東芝EMIからレコードを出すことになりました。
その当時、石原プロで「西部警察」のレギュラーとして、ドラマ撮影で全国を飛び回っていた。そしたら、ロケ先のパチンコ屋なんかで、自分の歌が流れていることがあり、「ザ・ベストテン」などの歌謡番組に、出演依頼が来るようになったんです[「ルビーの指環」は81年にレコード大賞を受賞]。
石原プロは、版権をある有名な会社に譲っていたため、作曲の印税を、85%くらい持っていかれ、勤労意欲なくして、俳優業に専念していました。
■世界に通用する映画をつくりたい
最近、仕事をしていないと言われるんですが、来年の春から国営放送の地方局で制作する、定年の前の刑事役でドラマに出ます(これは推測だが、土曜ドラマではないだろか?)。
今やりたいのは映画です。自分で監督したいのと、小泉監督と一緒にやりたいものがあるんです。世界に通用する映画だと、僕は思っているんですが、五億から十億ぐらいかかるので、プロデューサーがいなくて、スポンサーが付かない。去年からいろいろ動いているんですが、個人では壁が厚くて、なかなか思うようにいかないんです。
・・・とまあ、こんなトークが行われました。予定より15分オーバーの1時間のトークショーでした。
そうか、寺尾聰は、映画を撮りたいだぁ~。
どうも、最近、CM出演しかないと思っていたが、水面下で動いていたけど、うまくいかいないということだ。