人権としての食糧権 反グローバリゼーションへ | 権力とマイノリティ

人権としての食糧権 反グローバリゼーションへ

フランスワイン ブドウ畑

■フランスの「新世界」ワインショック
 NHKスペシャルの「ライスショック」に続いて、クローズアップ現代で「フランス ワイン危機」(10月25日)を観た。食糧自給率の高いフランスでさえ、グロバリーゼーションの影響が深刻なのだ。

 フランスは食糧自給率も高く、チーズなど乳製品の輸出品も多いはず。ワインは「新世界ワイン」の競争力に負け、消費者も新世界ワインを受け入れている。EUは、今年7月、これまでのワイン産業に対する保護政策を大きく転換した。補助金の廃止やブドウ畑の減反、そして、新規参入の自由化といった大胆な改革案を打ち出した。

 新世界ワインの台頭によって、地域原産にこだわるのではなく、ブドウの品種による「ワインの民主化」が広まった。それから、高級ワインがこれまでの数十倍の高値をつけるという、二極化という現象が起こっている。

 ライスショックは日本だけの問題ではなく、グロバリーゼーションが世界的にさまざまな現象を引き起こしていることがわかる。反グローバリゼーションを、どうやったら実現できるのか、かなりむずかしい問題だ。

■1948年に認められた「食糧権」
『ル・モンド・ディプロマーティーク』日本語・電子版に、以下のような記事があったので、一部、転載する。

人権としての食糧権の確立をめざして
ジャック・ディウフ(Jacques Diouf)
世界食糧農業機関(FAO)事務局長、1994年着任
訳・七海由美子
http://www.diplo.jp/articles07/0710-3.html

 国際社会は所信表明を繰り返し、善意に事欠かない。にもかかわらず、世界では8億5400万人もの人々が空腹を満たせずにいる。地球には、現在の総人口をたやすく養えるだけの食糧があるはずだ。10月16日は「食糧権」を掲げる世界食糧の日である。この機会に、人々の意識や諸国の政府に、この衝撃の事実を呼び起こすことができるだろうか。

 意外に思えるかもしれないが、1948年に認められた食糧権が、確固たるものとして具体性を持つようになったのは、ここ10年ほどにすぎない。それまでの間、この基本的権利があまり知られず、なおざりにされてきたなどとは、信じがたい話ではないか。「人間は生まれつき善人である」とか「人類は大いなる発展を遂げてきたのだから、やがてすべての人々の福祉が保障されることだろう」といった見立ては、現実によって裏切られている。

 問題はどこにあるのか。我々は長年、食糧の流通の不備や分配の不平等をあげつらい、経済成長や人口圧力をめぐる大理論をでっちあげてきた。あれらの大陸は呪われ、嫌われ、足踏みしているのだと言っては手をこまぬき、神の呪いのせいにさえしてきたのだ。

 おお食糧よ、いかに多くの罵詈雑言が、汝の名において吐かれてきたことか。この21世紀というグローバリゼーションとインターネットの時代に、食糧権が憲法に明記されているのがわずか20カ国程度にすぎないことを、どれほどの人が知っているだろうか。考え方を変えることは難しい。また、関心や意識の欠如を克服することは難しい。この基本的な人権の一つが「復権」を果たすまでに、あとどれほどの時が流れればよいのか。

 すべては1948年に始まった。パリで採択されたあの世界人権宣言の中で、このとき初めて食糧権が認められたのだ。だが、この権利は長い間、いわば休眠状態に陥った。国連総会で、「経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約」が採択されたのは、1966年になってからのことだった。

 1976年に発効し、今日までに156カ国が批准した同規約を通じて、「適切な食糧」を得る権利は諸国の認知するところとなった。これらの国々は、「すべての者が飢餓から免れる基本的な権利を有すること」を認め、「食糧の生産、保存および分配の方法を改善する」ために、個々に、および国際協力を通じて「具体的な計画その他の必要な措置をとる」ことを約束している。

 これらの国々は、「世界の食糧の供給の衡平な分配を確保」することや、「この規約において認められる権利の完全な実現」を達成するために「立法措置」をとることも約束している。各国はこのように、規約上の義務の存在を認めているのだ。しかし、諸国の約束はなかなか具体化には至らなかった。(後略)