なるほど、

私は、「私」を手放す気が無いのだな!という事を、

その仕組みと力動を、

集中して教わっている。

本当にそれが嫌なんだと気づいたら、

今までは、カップに入ったアイスクリームの表面をすくっていただけだったなと思う。

 

 

「私」という仮面が、どんな仮面であるのか、

一枚一枚、兄さんと一緒にあらためて眺めている。

仮面がぴったりくっついていると、どんな仮面かもおぼろげにしか解らない。

 

自己価値の低さもまた自己愛で、

自尊心の無さも自己嫌悪も、傲慢さであり、

本当にすべてが強烈な自己愛だ。

 

出刃包丁で遊ぶ子供が、

「危ないよ。もっと良いものがあるから」と言われて

取り上げられまいとギャン泣きして、暴れて、

それを抱きしめるたびに血を流している 

 

 

 

そんな過程の中で、

赦しをしている時に色んな過去生のイメージが現れて取り消される、という事が

何回か続いた。

 

もちろん過去生というパターンの幻影だけれど、

時間という幻想の中で、何度も何度も同じレッスンをぐるぐると

その度に2つに分かれながら、繰り返しているのが身にしみてわかる。

 

そのうち1つは10年ぐらい前に鮮明に見た過去生で、

色んな側面で現在に強く繋がっているけれど、

出て来たあまりの怒りに、セッション中に終わろうとせず

怒りを持ち帰るという事が起きたものだった。

 

今思うと、それでよかったし、

10年前のセッションの時も、その過去生の人生のすべての瞬間にも、

兄さんはそこにいてくれたのだ。。と感じると、

ありがたくて、ひれ伏して泣きたくなってしまう。

 

同じ幻影としても、過去生という少し大きな枠組みでの動きを見ると、

ああこれはもう、、本当にもう終わりたい、と感じた。

 

 

 

相反する信のコントラストが強くなるにつれて

こころが戦場になっている事と、

解離が起きている事を、以前より生々しく感じる。

 

 

出刃包丁を抱きしめて泣いている子供を、

なんとかしようと頑張ったとしても

頑張る私!もポケットに出刃包丁なので無駄。

 

静かに見ている。

まったく問題ナシという兄さんと一緒に、

それを静かに見ている。