からっぽに、ぽかんと、

ぽっかりすっかり放心して、

 

 

「助けて下さい」「どうか、憐れんで下さい」

 

 

その言葉が 勝手に溢れ出るまでは

 

やっぱり、どこまでも、

 

「私」は「やれる」と思っている。

「なんとか出来る」「対処出来る」って

 

それは

 

「まだ戦える」「神に勝てる」

 

と信じているということだ。

 

 

それは まるで

 

 

「みこころのままに致します」

 

「で、私はどうするべきですか、Aですか、Bですか。」

 

 

そんな質問をするようなものだ。

 

質問自体が、分離を信じている。

 

 

そんなことしてたら、

 

途方もなく複雑になって 百倍しんどい事うけあいだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「問題が解決できるように、

 

私に問題を認識させてください。」

 

 

 

 

 

 

問題はその映像、その出来事、その思考には無いので

 

ぐぐっと 巻き戻して

 

静かにハートの痛みを感じるとき

 

 

 

この胸の痛み、苦しさが、

 

今この瞬間 まさに 神を破壊し聖霊を蹴飛ばして

 

背後に 天国の門が轟音を立てて閉じた、

 

(と 信じた)

 

その痛み、その苦しさ、その罪悪感 

 

大切なものを失った、もう二度と愛されることは無い、

 

神は復習のため襲いかかってくるだろう

 

その恐ろしさ。

 

 

(もちろん神は 完全無欠な愛を注いでいるし、

天国の歌は一片も欠けてはいない。

 

なのに自我はこんなにも巨大な罪悪感と恐怖を隠し持っているのだから、

誰だって愛が恐くて当然なんだなと思う。

それが神への恐怖だと知らなくても。)

 

 

 

 

 

外側の映像に問題を見て、

 

あれが、これが、と苦しんでいること よりも、

 

 

 

赦しによって思い出す、

 

 

「今この瞬間 こころから出たのだ、

 

神と離れてしまったのだ」

 

 

その苦しみの方が、だんだん強くなっている。

 

 

 

本当に、それは 間違っていて、恐ろしいことだ。

 

だから、こころに戻って イエスに呼びかけるとき、

 

「まちがったこころの選択を取り消して欲しい」と祈っているとき、

 

胸の痛みが、私自身の「愛と助けを求める懇請」なのだと知るとき、

 

 

こころから出てしまった、罪を信じ 聖霊と離れてしまった、

 

それは間違いだった、訂正して欲しい、という一心で、

 

本当に 助けて欲しくて、

 

涙が出てくる事が多くなった。

 

 

 

目の前の あーでもないこーでもない、よりも

 

こころ が戦争状態である事の方が、リアリティがあって苦しい。

 

 

(逆に言えば、

 

私が見ているウジャリ豆の映像は、こころ の状態の反映だから

 

聖霊と共にいない時には、あーでもないこーでもない、があって当たり前ということだ。)

 

 

 

リアリティがあるといっても、

 

そこも幻想なのだから、

 

そして、訂正は既に成されており

 

問題 は既に解決済み、なのだから

 

 

兄さんを信頼して

 

赦しをしていくだけ

 

なのだなぁ

 

 

 

 

なのだねぇ。がんばりや〜

 

 

 

 

 

 

 

 

た、

 

タイトルの付け方がわからない。。。

内容とあっているようないないような。

^^;