まいにち、

 

たんたんと たんたんと

 

赦していくだけです。

 

そして、ハートに在り続けて、

 

たんたんと たんたんと

 

自動的にことが為されていくのを見ている。

 

 

 

ウジャリ的には、

今年は大きなうねりがある、とよく聞くけれど

 

本当にそうかもねぇ、と思わずにいられないこのごろ。

 

それはどこか、私の中では、

 

2012年頃、もっと言えばその数年前も含めて、、

 

あの頃とリンクしたものを感じる。

 

あの頃の完結編、というか

 

大きな螺旋を描いてまた同じとこに来ていて、

 

螺旋階段のそのステップにはバネがついてる、そんな感じ。

 

びよーーん

 

 

それもシナリオ通りならば、

 

たんたんと赦しをして、びよーん ときたら、抗わず

 

びよーーん するだけ、なんだなぁ。

 

 

 

 


赦しそのものが、ずいぶん変わってきた。

そして、そうなって初めて

「こういうことか」と感じる瞬間が飛躍的に増えた。


目に見えて 呆気にとられるほど

映像が変化する事も、もうそれが普通の事のように感じる。

でも、カタチのレベルは本当に問題じゃない。


忘却のベールの向こう側、つまり こころが癒されること、

視点が変わること、それこそが 本当に凄い。



たいがいツライもんだから

コースは人に勧めるもんじゃないな。。。と思ってきたけれど、


最近は、

赦して赦して赦しまくろうぜー!!

って 言える気がしてきた。笑



赦しというのは、、、

これは本当に、なんというか、、

いい方法だと思う。(ボキャブラリーの無さ)


マイケル先輩が指先をあわせて「ちょこっと♪」って

小さなスペースでいいんだ、より良い世界にしよう、って

まずは鏡の中の自分からだ、って

赦しを学んで実践すること、、、あるいはムーさんやラマナさんに学び実践すること、

そういう事の中に、本質的な答えがある気がするな。

自分を救うんだ。自分って誰なのか、何なのかを問うんだ。

いつか とか 明日、とか誰かが、じゃなくて

いま、なう!自分がそれをするんだ。




ほんとうに、

私たちは、自分のこころが どれだけ壊れているかをしらない。

どんなに痛くて叫んでいるか気づかない。

本当に なんにも解らないまま、

自動的に投影して、

兄弟に石を投げている。

そして自分は正しく、無罪だとするが

いくら正しくても、罪は他者にあり自分は無罪でも、

平安はやってこない。

そうして、その理由もわからない。

そりゃぁ、そうだよ。





そんなのはもう嫌だ。

ほんとうに、ほんきで、

本当の幸いとは何か、それを教えてもらいたいんだ。

この人生で、いま。すべての瞬間。