この冬は、というか

 

きっと、

冬至の響きにコミットした後から

そういう流れの中にいたなぁ、と思うのだけど

 

 

 

1月も、2月も、

(映像としては何も起きていないし、

もっぱら平和な日々でありながら)

 

 

内がわ奥深く深くから 噴出し続ける「叫び声」を

 

カラダからもひたすら、現れては消えてゆくモノを

 

ずうっと見ていて

 

それはもうホント壮絶なもので、

 

コースの壮大さを思えばそれぐらい当たり前なんだけど

(安心してください。人それぞれ段階にあわせて兄さんがカリキュラムを組むので大丈夫)

 

 

 

 

最終的に(いや、最終かどうかは。)

 

ポッカリくちから出た言葉は、

 

 

 

「。。あきらめた」

 

「。。あきらめた」

 

「。。あきらめた」

 

 

 

 

 

 

たくさんの自我の想念が、

 

あれがこうで、それがどうだから、と

 

理由を見つけてはギュッとにぎりしめて

 

わぁわぁ叫ぶけれど

 

 

 

どれも例外なく、

 

 

 

「神との分離は起きたんだよぉ!!」

 

 

 

その、

往古の一瞬のリプレイでしか無い

 

 

 

まったく本当にそうなのだ。

 

頭での理解が、

 

「げっ。マジか」に変わったとき、

 

「あきらめるしかない」という言葉になった。

 

 

 

 

 

。。。このままいったら、

 

私はウジャリで

 

居場所を失ってしまうに違いない。

 

 

 

 

 

 

支離滅裂ですが

 

今回の「自我のいいぶん」、

 

(聖霊と見ればレッスン)

 

主要なものがそれだったようで、

 

非常に大きな恐怖を伴い、

 

それを理由にしがみつこうと

 

ワーワー抵抗していたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コースを始めて間もない頃、、

 

 

 

 

ずっと学び歩いてきた道でもあるし、

 

たくさんの仲間が今も歩く道でもある

 

「スピリチュアル」というものと、

 

コースでの学びに

 

段々距離が感じられてきて

 

 

 

 

当時の私はよく、

 

こんな感覚を持っていました。

 

 

 

 

二股野郎ですね。笑

 

 

でも

この後も地道に学び続けることで、

二股野郎は無事に解消しました。

 

 

こういう、

 

「2つの道がある」という感覚は、

間違いなんです。

 

 

これは単に、私が、

「スピリチュアル、あるいは「スピリチュアル的な」もの」について

特別性を見ていた。ということで

 

 

 

実際には、

「スピリチュアル的な」行為も

「のどが乾いたから水を飲む」行為も

何にも違いがありません。

 

(どちらも等しく幻想)

 

 

 

 


そして、今

あぁ、また、二股野郎を感じる。。。

と思うのは

こういうことです。






このまま、腹をくくらず二股かけていると、
股が裂けます。いでででで。笑



でも、この「2つの道がある」という感覚も、
やっぱり間違いなんです。


なぜならば

「実在しないものは存在しない」からですね。



要するに、

 

選択の余地など最初から無いのです。

 

そもそも既に終わってて、そもそも始まってもいないし。

 

 

 


でも、
いつまで夢見を続けるか、
続けたければ、

あと100億回 いやそれ以上でも、

生まれ変わる事ができます。

 

あと100億回 いやそれ以上でも、

アレがコレがとスッタモンダできます。

 

 

 

 




しかしまぁ、




ウジャリ世界はしっかりと目の前にあり

そこでうまく折り合いをつけて生きていく事もできます。

 

もしも、そうしようと思えば。

 

 

 

でもそれでは、兄さんが言ってる事とは全く逆だし、

 

何よりも、自分がしんどい。
 

もう、どうしようもないですな。



二股野郎、と言っても

実際には、このように股がって立つことはできないので 



毎瞬、毎瞬、ひょいひょいと

どちらかに立っているということです。

(当たり前ですが、比喩です)

 

 

 

それを、もうあきらめる、

 

あきらめる、っつっても

 

当然やっぱりヒョイヒョイしがちでしょうけど、

 

粘り強く、すべてを等しくしていく

 

その意欲を差し出すこと

 

それと、

 

 

しがみつくのは、もうあきらめなくてはいけません。

 

 

 

 

 

 

 

のっぴきならねぇトコまで来たなぁ!

 

なんて思いますが、

 

これもまた半年後ぐらいには、

 

全然余裕ぶっこいてた、となるのでしょう。

 

 

 

なんか 自分でも

(わたしなにやってんだろう)

(なぜ、こんなことに、、)


と素で疑問に思うことすらあるが

コースじゃなくたって

タオにしろ、いろんな制作にしろ、

その他諸々にしろ、

どうしてこうなっているのか、解ってる事など1つも無い。

(こうしよう)と計画した事など一つもない。

なぜ私は今これをしているのだろう、、、と

自分でも謎な事しかない。

 

そもそもが、コントロール出来ていた事など無いのだし

 

振り返ればすべてにおいて感謝しかないし

 

 

だから、もうどうしようもないのよ。。

(誰に言ってるんだろう)





ああ、ひとつだけ

きっと確かなことがある。

それは、どうやらコレは本当に、

この世のあらゆる苦しみは、

「私」という感覚。ここにあるのだろう。


という事です。


だから

子供の頃からずっと考え続けてきた色んなことの

答えだけは、なんだか納得がいった気がしてる。


で、どうしたら?についての答えなら、

最強の兄さんがいてくれる訳だが

(純粋非二元の実践をあんなに具体的に示してくれている教えは、
他に無いと思うし、コースは本当に凄い)

どこまで実践できてどうなるのかは、わからない。









これはもう、しかたがない。

この先、映像がどうなるのかなんて解らないし

もしかしたらある日ケロッと

なにもかもやめてテキストがドアストッパーになってるかもしれんが


任せるしかないし






私の人生、私の学び、「私の、、(etc) 」
と思うから恐いだけで

私の人生じゃないなら、何が恐いのかなと思ったりもする。





どうなるのか知らないけれど、

たぶんこうして今 学んでゆくことが

 

カタチのレベルの話にはなるけれど

 

いつか、どこか知らない誰かの何かに

ちょいと役にはたつかもしれないし

そうじゃないとしてもだよ、

 

自分しかおらず他人はいなくて

 

自分すら いないのだし

 

 

そもそも

 

そもそも

 

赦しは全ての兄弟に反映してゆくのだ。


そうであるなら、それだけでいいし

 


他に何が あるってんだろう。