あなたは何も知らない、わからない。

 

だから全部任せておくれよ、、、

 

 

と兄さんは言います。

 

それはとてもシンプルに聞こえる。

 

でも、それが難しい。

 

 

 

 

 

 

白無垢。妖精タイムの夕まぐれ、

久しぶりにぼーっと花のオーラを見てしまった。。。

本当に綺麗。綺麗な白。どうもありがとう^^

 

 

 

 

 

 

 

 

私たちが「わからない」というとき、、

 

 

 

 

 

「私、何もわからな〜い。ピーピープー♪」

 

であれ、

 

 

 

 

「私、何もわからない、、しくしく」

 

であれ、

 

 

 

 

「私、何もわからない!ちぇっ!ちぇっ!」

 

であれ、、、

 

 

 

 

 

 

 

 

それは

 

ただ一枚の仮面、覆い、カバーであって

 

 

ペロリとめくれば、

 

私たちは例外なく

 

 

 

私、わかってる。知ってる。』

 

 

 

そう、強烈に信じてる。

 

 

 

「私が」この状況をコントロール出来る、

 

やれる、まだやれる、

 

 

 

どんなにボロボロになっても。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あぁ!また自我が!

 

 

 

 

ってね、

 

自我の巧妙さにしてやられた、と

 

嘆いてはみるものの。

 

 

 

 

それもまた、

 

ペロリとめくれば

 

 

『私の自我はそんなに酷く無い』

 

『いいとこだってあるし』

 

 

 

 

これまた

 

強烈な自我信仰を持ってる。

 

本当に、それは 信仰です。

 

熱心な自我信仰、ウジャリ信徒。

 

 

 

 

 

 

自分がどんなに

 

 

 

「私、知ってる。解ってる。

 

 聖霊ちょっと黙ってて」

 

 

 

と思っているか。

 

いかに

 

「私の自我はなかなかどうして」

 

「手放すものか」

 

厚い信仰を寄せているか、

 


 

 

 

 

それをまっすぐ 地道に

 

明らかにしていくのが

 

コースの実践です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なにしろ それは、

 

自分で 気づいて

 

直視して 初めて、

 

 

 

『やばいなにこれ、

 

本当に、

 

何も解らないし何も出来ねえ!』

 

 

『なんて熱心な自我信者だったのだ!』

 

 

不幸に献身ってホンマやな!!』

 

 

 

と 知るからです。

 

 

 

 

誰でも、

 

本気でウンザリしなければ、

 

それを手放そうとは思えない。

 

 

 

 

 

 

 

どんなに「山積みの問題が大変!」であろうと

 

アレが!コレが!と外側の映像に一喜一憂して苦しんでいても

 

 


本気でウンザリしていないなら、

実は、まだ余裕がある
ということ

 

 

 

 

 

 

 

 


愛(源、神、本当の自分)を見えなくしている障壁、

障壁 を取り去るためには、

それ(自我、罪、恐れ、罪悪感、幻想世界)が


「マジで障壁。ほんと要らない。」と認識される必要がある。







ビックリするけど、

兄さんがテキストで言ってる事は本当のこと。

私たちは狂ってる。


いかに狂っているか、

いかに熱心なウジャリ信者で、

いかに重篤なウジャリ中毒か。


そうして、


それがウンザリするほど明らかになって、

光へ手を伸ばす気持ちがどんなに本気であろうとも、

狂った「私」には、どうにも出来ないのだ。

どうにも出来ない。



そのとき初めて、

ただ祈るしかない、という心境になり




そのとき初めて、ほんの少し、

降参が起きる。









ヨレヨレでドロドロでぐちゃぐちゃで

狂ったまま、

そんな自分ごと


まるごと


おまかせしますだ。。。。










そしたらね、

兄さんが


ほんとうのこと

またひとつ、

教えてくれるでしょう。