過去を赦す、というカリキュラムが進行しているようで、
ひとつずつ、ポン、ポン、と
イエス兄さんが「ハイ次これね」と手渡してくれます。

赦しをしていくと、

まるでそれは、

過去の出来事、その時には悲しく苦しかったこと...は

今、この瞬間、それを赦すため、
いま、

『何も起きてなかったよ。ぜんぶひとつなんだ。
あなたは今も神に愛されていて、神の中なんだよ。
信じて大丈夫だよ。任せておくれ』


そう聖霊に教えてもらうため、

その為に起きていたシナリオだった感じ。。。

この人生、この個体設定で、何年何月にコースに出逢うこと、
目覚める方向へ本格的に動き出すこと、
そして2017年1月に、「過去のこの出来事」というデータを赦すこと
それらも全部、決まっていたこと。。

 

赦すと、本当に 過去も未来もなく
ぜんぶが今この瞬間にあって、
過去の嫌な出来事も今ここにあって いま赦すのだから
結局のところ それは本当に起きたのだったか。。?
という感覚になってきます。




昨日は、赦しをしていて
「!!!!!」って感じになったので
ビボーロクとして書いておきます。





それは、

大きな転機だったなぁ。。。と思える出来事、

当時は文字通り死ぬほど辛かったけれど、
振り返れば「アレがおきて本当によかった」と感謝する出来事

その時期についての赦しが促された日でした。



「今では感謝している」といっても、
コースの存在すら知らない頃でしたから
それはやはり、

「それは確かに起きた」
「私は攻撃されうる存在で、傷つく事が可能な存在」
「兄弟たちも、私も、確かにその行為をした。」


それらの幻想、人形芝居を全て実在として、

でも、私はそれを許すよ。それらには意味があったよ。』

というもの。
だから今、
しっかり赦しをする時がきたんだね。





兄さんの主導で、
過去のその出来事、場面、自我と同一化して苦しむ私、出演している兄弟たち、
全てに光を放射していくことにしました。

私を通して兄さんの光が延長、放射され
兄さんを通してもっと大きな光があります。



辛かったね、もう大丈夫だよ、というのではなく。

このお芝居を 終わらせて行こう、取消してもらおう。

本当のことを教えてもらおう。




兄さんの光を当て 真実に照らして取り消してもらう。

『私たちは完全で、何も欠けておらず、
傷つくことが不可能な存在であり、肉体では無い』



光が溢れて、人形劇の映像が消えてゆきます。















当時の、このシナリオは、

死ぬほど辛い、という物語と

驚くような体験の連続、という物語が

同時進行していました。



「解決しなくちゃいけない現実の問題」が次々に「襲いかかって」くるのに、
一方ではキャパ超えするほど色んな体験が起きるので
死ぬほど辛い、というのも本当なのに
そんなの些細な事だ、という感じもあって。

その「同時進行感」は
思い出しても不思議な感じですが
絶望と希望がセットになっているのって、
ウジャリでは当然かもしれないね。





今も忘れられないのは

ぼんやり駅のホームで電車を待っていたとき
フイに、

辺り一面が光粒子と光でいっぱいになった事です。
瞬きしても、電車に乗っても、移動してもそれは消えず、
それはとても美しく、


「こんなに美しいなら、この世界にもまだ期待がもてる。
まだ知らない、本当の事がきっとあるんだ。


そう 強く感じたことです。
これが 私には本当に救いとなりました。



ここから始まる多くの経験が、
(いわゆる神秘体験というようなもの)

この世界には常識や目で見ることと違う何か、
何かまだ知らない、本当のこと がある。



という 確信になって、
スピリチュアルな学び、内がわへ、自己探求へ
真剣に取り組むきっかけになり、
そしてその後、
 コースに辿り着くきっかけになっています。





それでね、
いま 赦しをしていて
「!!!」となったのが。。。




あの時みえた 光

それは、

今の私が赦しを通して送ったのではないか。

直感的にですが
「!!」と感じたことです。

私というか、イエスが。聖霊が。


光 という知覚を通して
大丈夫だよ、こっちだよ、と導きと癒しを届けてくれていた
というか、
なんというか、言葉にするのが難しいですが。。

そして 今の私は、この体験から、
「ほらね。だーいじょぶなんだよ!」と教えてもらった気がします。
そして信頼が深くなってゆける。





だとしたら。。。

なんと壮大で深遠な計画なんだろう。


それにもちろん、本当には、
私がこうして少しずつ「!」と知っていく事は全体のほんの一部であって、
それを遥かに超えたスケールであるはず。

もぅなんというか、
参りました ありがとう しか出てこないです。





きっと こういうのは、
こういった解りやすい例でなくても、
(光が見えたり不思議な現象などは、それ自体に意味がある訳では無い)

たくさんたくさん起きているはずです。

だから今、起きているように見えるソレが、
「いいこと」か「わるいこと」かなんて、
私たちには、解るわけ無いんです。
悪いことが起きた!というのも、
ただそのように自分で判断して決めた、ということ。




そうしてこれらもまた、
聖霊と読む光のシナリオ

起きてもいないし始まってもいないって事か と思うと。。

@ @
 {}





神の救済計画の大きさ、深淵さのすべては
私たちには、自我には、
解りようもない。
コントロール出来る筈が無い。

だからこそ
ただ 幸せでいてよくて、
ほんとうに、大丈夫なんだ。
ゆだねていけば、良いのだな。




しみじみそんな風に感じられる近頃です。