ひたひたひたひた、、と

 

硬い岩の間を水が浸透していくみたいに

 

 

 

いつの間にか、少しずつ 少しずつ、

 

真理が浸透していって

 

 

いつしか小さな亀裂がピシリと入って、

 

 

 

ひたひたひたひた、、、と

 

硬くてぶ厚い

仮面の内側に、水がたまっていく。

少しずつ、少しずつ。

 

 

 

 

ガッチリと嵌っていた仮面が、

 

気づけば フィットしなくなってきて、

 

その違和感から、

 

『仮面があるんだ』と認識し始める。

 


既に朽ちて、不要となった仮面の破片が

 

パラパラ、すこ〜しずつ剥がれて。。


自分でも知らぬ間に、気づけばすでに、

まったく違う場所にいる。





そのようなプロセスを、

たくさんの兄弟を通して見せてもらっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

そこで得る学びは

ひと言で言えば「信頼」だなぁ〜、と思う。

 

 

 

 

 

コースの教えに初めて触れると、

 

「兄弟を肉体として見ない」という言葉に

 

動揺する事は多いと思う。

 

じゃあどうすりゃいいの、というような。

 

逃げてる事にはならないか、とか

 

冷たく感じる、とか

 

相手を肉体として見て、その自我の個性を愛すること、、

 

「良いところも、悪いところも」大好きだよって思える事が、良いこと。

 

ウジャリ豆では、自我での共振が仲間意識だとされるから

 

当然、そうなるけれど

 

でも、

 

「良いところも悪いところもある自我」はその人ではない。

 

勝手にそのような卑小なカテゴライズするのは攻撃だ、と兄さんは言う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

地道に実践していって確かにみえてくるものは、

 

 

 

聖霊に対する信頼であり、

 

兄弟に対する信頼、だった。

 

 

 

なんてうれしいこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だいぶ昔のことだけど、

 

スピリチュアルマーケット的なイベントに出展して間もなくの頃

 

 ふとお客さんが途絶えたときに

 

ボンヤリ会場を見渡したら

 

各ブースにいるお客さんの後ろに、

 

無数の光が列をなして光っているのがみえた事がある。

 

 

 

お客さん自身は、

 

ブースでなんらかのセラピーなりヒーリングを受けて

 

話しながら涙をふいている人も多く、

 

とても深刻で、辛そうなのだけど

 

その後ろには、

 

ひとつではない、2つ3つどころじゃない、

 

本当にたくさんの光 があって

 

それを見たら、もう、

 

「なんだ、みんな、大丈夫なんだ!」と心底思えた。

 

 

という事があった。

 

 

思えば、私の「みんな絶対ダイジョーブ」という

直感というか妙な確信はあのへんから始まっていたんだな。

 

 

 

 

 

 

 

でも、その「大丈夫なんだ」と、

 

今の「大丈夫なんだ」はだいぶ違う。

 

 

いろいろ違うけど、

 

絶対的に 信頼度が違うんだと思う。

 

 

 

その人がどんな風にみえても、

 

それが本当の姿では無いし、

 

必要なのはいつでも自分自身の中を見つめて赦しをすること。

 

兄弟といっしょに神のひとり子へと戻る選択をすること。

 

 

その人がどんな風にみえても、

 

皆、もれなく、確実に、確かな導きの中にいて

 

みんな、絶対に 大丈夫なんだ。

 

 

そしてそのように信頼ができるということは、

私自身も大丈夫なんだ、と知ること。

 

 

 

 

ハレルヤですなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は、

 

世の終わりまで、

 

いつもあなた方と共に居ると言った。

 

 

だからこそ、

 

私は世の光なのである。

 

 

 

私は世界を攻撃しないが、

 

 

世界の本質のゆえに、

 

 

私の光が それを必ず一掃する。

 

http://ameblo.jp/t-freechild/entry-12184996535.html

 

 

わたしたちの兄さん、無敵だし☆

信じる者は救われる とは、本当だな。