あけましておめでとうございます☆

 

 

 

 

 

 

12月に読んでいた
テキスト15章の最後は、

 

 

 

 

兄さんから私たちへの

「完璧な信」と共に、

 

新年に向けてJ兄さんが語ってくれていて

ぐぐっとくる箇所です。

 

(『新年は喜びと自由の中で始まる』

http://ameblo.jp/t-freechild/entry-12235056170.html 

 

 

 

----為すべきことはたくさんあり、

私たちはずいぶん遅れをとってしまった。----

 

 

 

 

この言葉は、

初めて読んだ時からハッとさせられました。

そして今読んでも、改めて ハッ!としてグッ!と背筋が伸びる思いがします。

 

私はテキストを熟読しているとは全く言えないので、、

もしかして他にもたくさん、似た表現はあるのかも?ですが

 

 

「遅れをとってしまった」というハッキリした言葉が

 

とても なんというか、、

ねぼけまなこをパチン!と起こされるような

 

 

 

テキストの文をそのまま読めば、今のわたしには、

 

神の救済計画、

兄さんが先頭に立って指揮をしてきた神の子の解放が

2000年以上経ってもまだ。。

そのことを言っているように読めます。

 

兄さんは既に時間を超えているので、

イライラと私たちを待っている!何て事は無く

愛の中で待っていてくれる。

 

それに時間は真実には無いのですから、

焦るという必要は無いのでしょうし、

テキストには焦らせるような文章は出てきません。

 

 

 だから

「本気出してこ。」って

「ささ。行くよ」っていう、

 

兄さんにオシリを叩かれるような。

あるいはまた、

 

ズラリと並んだコースを実践する兄弟、、

赦しをする者、神の救済計画を受け入れると決めた者たちを前に、

兄さんが始まりの喝を入れてくれているような、、

そんな風にも感じます。

 

 

 

テキストは次のように続きます。

 

 

--新しい年の訪れと共に、

 

聖なる瞬間を受け入れなさい。

 

そして、大いなる目覚めにおいて、

 

永きにわたり空席とされてきた

 

あなたの持ち場につきなさい。

 

 

 

 

 

。。告白すると〜〜

わたしはスピリチュアルの学びと道を長く歩いた中で、

 

どうもこう、なんというか、

こういう表現が苦手でした。

 

つまり、「神の救済計画」「あなたの持ち場」「聖霊に使っていただく」とか、

なんていうのか、そういうの。^^;

 

非常に自我の想念が入り込みやすい、強化しやすい危うさが感じられる。

もちろんコースが伝えている事は、一般的にこのような言葉が使われる意味と

全く違う事は解っているけれど。

いわゆるスピリチュアル的な世界だけではなく、

コースでだって、この言葉の元にチャネラー大量発生みたいな側面もある。

 

 

。。。とかなんとか、理由を挙げる事は出来るが(いちゃもん、笑)

 

 

赦しをしてほどけてくると(直視して光を当てれば、)

ただ単純に、

 

 

救済計画なんて嫌だね!持ち場なんて知るか!

聖霊に使われるなんてとんでもないね!

 

 

って 叫んでただけでした。

とことん原因は外には無い。

 

 

そして同時に、

 

本当に、心底、涙が出るほど、

必死で神へと手を伸ばしてもいるのです。

 

この葛藤、決断の主体である「こころ」そのもの。

そんな、

どうにもならない自分の支離滅裂さを認めてしまえば、

必ず光がさして来ます。必ずです。

 

兄さんの前で正直に、

「心の嘆きをつつまず述べて」重荷を降ろせば、

罪、咎、憂いを取り去ってくれます。

 

この小さな信を得ただけでも、

私はコースを学んで良かった とよく思う。

 

 

 

 

 

書きながら思い出したけれど、テキストを最初に読んだ頃は、

 

「あなたの機能は赦し」という言葉にも「んー?」となり、

わざわざ、機能に変わる表現(翻訳によって「役目」「役割」とか)を調べて

そうか、、、なんてやってた。

 

すばらしい抵抗力!

 

「機能は赦し、なんてロボットじゃあるまいし(私は立派な肉体よ!!)

「役目?うん、それなら受け入れられるかな、、私 他にもやれることあるし

 

みたいな

今おもうと面白い!!  笑

 

でも、赦しによって起きて来る癒しの大きさ、目覚めを考えたら

本当に、、自我は抵抗して当然です。

 

 

 

 

 

そうして、今、こうして書きながら

 

私の唯一の機能は赦しである。ということ

 

神の救済計画を受け入れて、

私の持ち場に着く ということ

 

それを感謝と共にひれ伏すような気持ちで

 

「はい。かしこまりました。」と言える自分をながめ、

 

もう、そこを本気で受け入れる時なのだなぁ。。と感じます。

 

そもそも、持ち場にはもう ついてるんだと思う。

全ての兄弟が。全ての完璧な導きの中で。

自覚がなくてもね。

 

だからきっと、

それをどこまで本気で受け入れていくか

「はい。そうします。」と誓えるか、なのかな。

 

 

 

まだまだサボリ誘惑だらけだけども、

今の私の精一杯、出来ることはとりこぼさず。

そして、

 

--今年一年をすべて同じにすることで、

これまでとは違った年としなさい。--

 

 

はい。

。。これ毎年「はいっ!」って思ってるけど 笑

 

今年は、昨年までより、もう少し引き下がった、

本気モードで。

 

 

それぞれの持ち場についた兄弟たちと共に

関係のすべてを、神聖なものにしてもらおう。

 

これが私たちの意志

 

 

 

 

 

 

 

世界中すべての兄弟姉妹たちが

喜びと自由の中で1年を始める事が出来ますように。

ありがとうございます。

アーメン

^^