回想        元顧問 村上 脩一

 30年誌に続き50年誌を発刊できますことを、OB・OGの皆さんと共に喜びたく存じます。

 創立50周年の記念すべき年に、陸上競技部の三名の卒業生が見事にロンドンオリンピック出場、また本年度は、世界選手権で六位入賞、感慨無量です。 

 私が城西高校に入り、陸上競技部顧問になったのは昭和41年で、私と同期の柴田先生が正顧問で、私は単なる名前だけの副顧問でした。柴田先生の良き指導で選手たちは急速に力をつけ、岡崎市民駅伝初優勝、西三高校駅伝第三位の好成績を上げました。しかし、翌年柴田先生が安城学園高校に転勤となり、陸上競技に対して素人の私は、毎日の練習方法に悩み、生徒の好きなように練習させたり、陸上競技の本を読み生徒の力を把握せずに、練習させたりで、まったく試行錯誤の連続でした。ただ、私自身、長距離が好きでしたので総合力を必要とする駅伝に力を注ぐことに決め、他高校の練習をこっそり見学、また、色々な方に練習方法を聞きながら指導してきましたが、簡単に勝たせてくれません。昭和48年の県高校駅伝では、生徒も逞しくなり総合力も上がり、今年こそ東海高校駅伝初出場も狙えると意気込んで参加し、見事に準優勝でした。その後「駅伝の城西」として、毎年東海高校駅伝に出場を果たしていますが、都大路の全国大会への壁は厚く、道は厳しいです。昭和55年に卒業生の若杉鋼洋君が本校に赴任し私と共に陸上競技部を指導することになりました。若杉先生は、専門の棒高跳は勿論、種々の種目で次から次へと全国総体に出場させ、「駅伝の城西」から「オールラウンドの城西」と言われるようになりました。頼もしい卒業生であり、よき指導者です。

 岡崎城西高校は昭和37年に男子校として開校以来、年々着実に発展し、また共学になり一段と飛躍しその中で陸上競技部も全国大会で活躍できるように大きく成長いたしました。その延長が今回の素晴らしい成果です。

 陸上競技部初期の頃は、雑草と戦いながらのグランド作り、合宿では近くのお寺の本堂を拝借、また教室にゴザを敷き、蚊帳を吊るしての合宿等が懐かしく思い出されます。いま、卒業生諸君の苦しい練習での必死の顔、大会で負けた時の涙顔、勝って喜びいっぱいの顔等が走馬灯のように浮かんできます。

 我々にとって嬉しいのは、卒業後の活躍です。実業団や大学で陸上競技を頑張っている姿、また一般社会人として活躍を拝見すると、頼もしく嬉しくなります。

 この50年誌は、記録・写真・手記で構成していますが、私の不手際で昭和40年代の記録が大部分、行方不明となり卒業生諸君の貴重な記録を掲載できず、誠に申し訳ないです。

 この50年間に、色々な方々にご援助、ご指導を賜りました。関係各位に深く感謝申しあげます。

 

   ー村上脩一先生が陸上競技部50年誌(2010年)に投稿してくださいました。謹んでご冥福をお祈りいたしますー