僕が何故前橋でも交流会を開いたのか① | 群馬県吉岡町デイハウスきらきらのブログ

僕が何故前橋でも交流会を開いたのか①

皆さんおはようございますキラキラ

きらきらにもDVDプレーヤーがつきました!!

これでDVDもブルーレイも観られますしドラゴンボールもできます!!(できます?)



一年間頑張ったのでご褒美キラキラ



去年の今頃何やってたかなあ…

プライマリーでの修業も終え、建物も次第に完成してきて申請書類に追われてたかな?

確か第一回介護業界活性化交流会も今頃でしたキラキラ



ブログでお世話になっている方々やプライマリースタッフの方々、小池さんの繋がり含めて60人位集まった様な…



そんな素材を振り返って見てたら桐生で行われた第一回介護業界活性化交流会の人前で初めてシェアした原稿が出てきましたあせる



第1章
介護業界へのきっかけ 

2004年大好きだったおばあちゃんが亡くなりました。

幼少期の頃よりおばあちゃんは僕の味方でした。

大学受験や就職の活動の中で、両親が猛反対する中でもおばあちゃんだけは、僕の意思を尊重し、応援をし続けてくれました。

大学受験にしろ、就職活動にしろ、一人っ子の僕が実家を離れる事について気を病んでいたのは本当は両親よりもおばあちゃんだったのかもしれません。

そして2004年おばあちゃんのすい臓に悪性の腫瘍が見つかり入院となりました。

その時病室のベッドでおばあちゃんが言いました。

「貴幸が帰って来てくれたらなあ。」

東京の全てを捨て、実家に戻り、癌の手術はせずに自宅療養を決断したおばあちゃんと暮らしました。

その後間もなく人生に幕を下ろしました。介護の原点を学びました。「寄り添う」という原点最幸の介護マインドにして介護スキルを。



第2章
介護の道へ
―理想と現実―

その後無事ヘルパー2級を取得し介護老人保健施設へ就職致しました。

僕のイメージでは、介護施設とは介護をする人と老人が笑顔で語り合う、ゆったりとした時間の流れる空間を共有する場所であると思いました。

しかし、現実は業務に追われ、笑顔をなくした介護者と、業務に組み込まれた時間の中で、食事・排泄・入浴といった三大介護といわれることをなすがままにされている利用者のなんだか冷たい関係がある空間でした。

想いの強い職員から退職していった様に思います。



続く