昨日は伯母の49日と納骨の儀が行われた日でした。

大阪は涙雨。
かさがないと不安な日でした。

本家の伯父が建てたというお墓を見たのは初めて。
祖父母はもちろん、夭折した父と伯父の姉妹と、
(どちらも幼くして、あるいは若くして亡くなったのだそうです)
そして伯母の名前が墓碑銘に刻まれていました。

男兄弟がいない家の長女だった祖母は、
自分の家を継ぐことができず、
家督は他の者が受け継ぎました。

 ここんところは込み入った事情があったようです、
 明治・大正、昭和初期の「家」の考え方です、
 今の私たちが家庭を持つのとはずいぶんと違います。
 さくっと結論から言うと、
 祖父母の長男が養子として祖母の家に入りました。
 男女の役割が厳しかった時代はそんなに昔のことではなかったんです…

 といいたいけど!
 
 私もいい歳ですので、やっぱ昔のお話ですねーーーー

分家筋に嫁いだことから、墓に対する考え方は
当時からすでにぶっとんだ発想の持ち主でした。
いずれ無縁になるかもしれない墓はいらない、
お寺さんで毎日ありがたいお経を唱えてくれるところで
供養してほしいと。

祖父母は京都のお寺さんに永代供養されていたはずなのですが、
伯父は思うところがあってお墓を伯母と一緒に建てたのだと思います。

だって、亡くなった姉妹も一緒に祖父母と同じお墓に
弔っているんですからね。


閑話休題

宴席の最中、従姉妹の旦那さんから、配られたのは
地元のコミュニティマガジンでした。
製作に関わっているからとのことだったんですが、
ずいぶんと時間をかけて練り上げた本誌は
伝えようとする人の気持ちがあふれてました。

もし、私がずっと大阪、茨木に残っていたら、何をしたんだろう。
きっと仲間を募って何かを企てていたような気がする。
当時は同世代の友人がたくさんいましたし、
若い頃は、徒党を組んでわいわい遊んでましたからね。

東京へ出てきて、なんだかんだありつつ、
一人で行動するのに慣れ、
勝手気ままに過ごして今になってしまったんですが、
ありえなかった「もし…だったら」を形で見せられたような気がして
甘酸っぱく、切なく、うらやましくもおもったのです。

地元に根ざした生活、したかったんだな、私。
もう、今頃気づいても遅すぎる。

そんなことを思った昨日でした。

茨木市のコミュニティ誌、ゆっくり時間をかけて
気に入った人のお手元に渡れば、と
大量に配布する形は取っていないのだそうです。

もし、茨木市内のスポットで見かけることがありましたら
ぜひお手にとってご一読下さい。
そして、地元を愛していただけたらと思います。

ちなみに、伯父の家は写真屋さんです。
冊子の写真は、すべて従姉妹の旦那さん(もちろんカメラマン)が
撮影したものなのですって。
ちびっと写真をかじったことがある私から見ても
いい写真がたくさん載ってました。

今後の活躍、期待してます。