雪の日の朝は静かで、灰色で、真っ白だ。

二週続きで週末が大雪。

昨晩は風雪が激しくて何度も目を覚ました。

今日は全ての予定をキャンセルしなければならなさそう。

裕はベッドの中で身じろぎをした。

隣は暖かいのにもぬけのから。

キッチンからは欠伸と、お湯をカップに注ぐ音、そして床を滑るスリッパの音がぺたぺたと、寝室へ向けて歩いてくる。

「起こしたか?」

マグカップから立ち上る湯気はコーヒーの芳香。

「今何時?」

「まだ6時前」

一口すすってから、ぎし、とベッドを軋らせて彼女の夫はついさっきまで眠って居た自分の居場所に再び身を滑らせた。

「もっと寝た気がしたんだけどな」

「昨日はマナに付き合ってTV見ていたから」

「途中でうとうとしたけどね、ほとんど覚えてない」

「みたいだな」

「マナは?」

「もう自分の部屋で寝てるよ」

「もう、宵っ張りの朝寝坊なんだから」

飲む? と差し出されたカップを受け取った刹那。

「わーっ!」

「痛い-!」

ふたり同時に悲鳴をあげる、触れた指先から、ばちっと火花が散った。

「静電気かよ! またお前は!」

「私じゃない、あなたが!」

「いや、絶対お前! 帯電体質だろ、絶対そうだ!」

「それを言うならあなただって!」

「フリース着て寝てるからだろ、余計電気が溜まるんだ!」

「あなただって着てるじゃない! 誰が北国育ちよ!」

「えーい、うるさい、寒い時はどこ産まれだろうと寒いんだ!」

ドアの向こうから、「ほんとーうーるーさーいー」と娘がうなる声がした。

夫婦は顔を見合わせ、つい笑ってしまった。

「それ、ちょうだい」裕は夫の手から再度カップを受け取って一口、飲む。

はい、と妻から戻されたカップを再び受け取って、彼は残りを飲み干した。

「電車が全滅だ、先週よりひどい」

「そう、先週の今頃はまだ動けたのにね」

「ああ、今日は自宅でTV三昧になりそうだな」

「きっと金メダルって大騒ぎするのよ」

2014年2月、ソチオリンピックが開催中だ。

昨夜は男子フィギュアスケートのフリーが行われた。

深夜だから静かにと言って聞く娘ではない。真夜中だからハイテンションだったのか、一人で盛り上がっていた。

しかも、日本選手が金メダルを取ったのだ、うつらうつらしながら、娘が歓喜する声を遠くに眠りについた記憶しかない。

くすり、と笑って扉の向こうに目をやり、彼は言う。

「誰に似たんだろうな」

「さあ、誰にかしらね」

裕はベッドに身を横たえる。

「もう、起きるの?」

「出鼻くじかれたからなあ……もう少し寝るか」

「そうね。先週はかつてない大雪。今日はなんて呼ばれるのかしらね」

「やっぱり、かつてない大雪じゃないか?」

防音が効いているはずの室内なのに、外の静けさや風が吹く音が伝わってくる気がするのは何故だろう。

彼女は夫の腕に身を寄せて深く息を吐く。「あの日を思い出す」

ん? と促すように問う夫へ。

「大学受験の日。ちょうど今頃だった」

「ああ……。あの日も未曾有宇の大雪だって言われてたな」

「うん、受験があって、祖母のお葬式があって。ばたばたしてて。やっとのことで家に帰ったら大風邪ひいて倒れちゃった。他の大学の試験は寝込んでて全滅。私の大学受験は一発勝負になっちゃったのよねえ。体力が戻った頃にはもう大学の合格発表だった」

「危ない橋渡ったんだなあ」

「ホント。首の皮一枚で進学できたんだよね。受かってて良かった」

ふう、と息を吐く。

「あの数日間の間に起きたことは、時間の感覚があってないようで……よく覚えてなくて。大変だったなあ、って子供心に思ったけど。実際はその後に起きたことの方が人生に関わる一大事だったのよね……」

髪にからむ雪、芯まで冷えるような寒さ、けれど寒さを感じない焦り、絶望、そこから一気に希望へ転じた。

「あの時……伝えたいことがあったの」

「誰に」

「試験会場へ連れて行ってくれた人。恩人なの」

「おや? 案内なら麗がいい、って言ってたのはどこの誰だ」

「やだ、いつの話?」

「さあ、いつのことだろうな」

「怒ってる?」

「忘れた」

ぷいとそっぽ向く、つんと澄ました彼の横顔に吹き出す。

「例えばよ、あの雪の日、すれ違ったのが麗が先だったら、どうなったかしらね」

「俺が知るかよ」

「私も知らない。多分……何も起きないし始まらなかったと思うの。だって、私が出会ったのは麗じゃない。恩人は別の人だったもの」

すがりついていた腕が裕の肩に回され、彼女の髪を梳く。

「もし、そいつがここにいたら。何と言うんだ」

「ありがとう、って」

今の私がここにいるのは、その人のおかげ。

泣いていた彼女を引き上げてくれたのは、差し出された手。

温かい世界へ連れ戻してくれた。

先を歩いて、裕に道筋を与えてくれたのだ。

その時も、その後も、そして……今も。

わかっているよ、と声が降り注ぐ、雪が降り積もるように。

今日という日ははじまっている、もう起きなくちゃ。

でも、もう少しだけ微睡んでいたい。

彼女は夫の名を呼んだ。


何度口の登らせても飽きることのない、愛しいひとの名を。