の続きである。

 

今後、

「風邪を何度もひくのですが、ワクチンですか……」

という方が大勢でてくると思われる。それは確かに、その通りなのだ。私たちはこの謎の病の、ワクチンを打つことによる因果関係の有無を問わず、引き起こされるリスクの謎を解明しなければいけないと思われる。

 

 

 


今2021年7月14日現在、日本は死者数もPCR検査数も減少傾向を続けている。
これまでのマスク着用や、3密を避けながら濃厚接触に気を付け、また不要不急の外出を励行してきた、積み重ねた苦悩と努力が実ってきたのではないかと思われる。

 

 

 

 

なぜそのように云えるのかというと――indeepさんでもデータが提示されているが、海外では残念ながら「死者数」と「ワクチン接種者」が相関関係を明らかに、目に見える形でしている。それは、ワクチンが人々に間に合わなかったという事実である。本来はSARS-CoV-2に感染していたが「サイトカイン蓄積」または「無症状」で、あたかも「死んでいるのに死んでいることに気づいていない」事象がまさに起こっている。そして、ワクチンを打つことでその症候が顕在化、気絶転倒から死亡、という状態になり、また症状としてはご遺体に白血病やHIV様症状が顕在化しているのである。また、海外でマスク励行している方が仮に多かったとしても、SARS-CoV-2の性質上、空気感染の可能性も拭えない。そのため、死者数が相関する、そういった見方ができる。
しかし、日本はワクチン接種とともに減少傾向にある。つまり、重症化するまでのサイトカイン応答が増えず「間に合っていた」という方が顕著にいる、ということを示している。
その理由に、前述した「努力」も存在するが、風土として被爆に慣れている、といったことも挙げられる。また、食生活に被爆を抑える成分が豊富にあることも云える。また、偏西風により、ウイルスが空気中から速やかに離散することも要因として考えられる。様々な要因が重なって、日本は感染者数比較的少なく、またワクチンに伴い感染者が減少しているのであると考えている。

 

 

 

また、今日付けで感染者が増加している事実に対しては、

 

また、ワクチン未接種群とワクチン接種群は互いに影響し合う。ワクチン未接種群は接種群に風邪のような症状を曝露する可能性もあり、また逆にワクチン接種群は未接種群に抗体反応を起こす。そのため、両者が出会った場合、どちらかに陽性症状が発生したりする事象が発生する。ワクチン接種群は免疫反応を起こし風邪のような症状になり、未接種群が接種群と濃厚接触した場合、抗体反応による炎症を生じ「ワクチン接種後の中等症、もしくは重症者」のような奇妙な状態を示す。その反応は「生」の反応であるがサイトカインストームが発生する可能性も完全には排除できない。また、未接種群と接種群が出会って数日経つと、どちらかの精神状態が不安定になる症状も出てくるだろうと予測できる。

 


といった事象が関連しているのだろうと思える。
もう1つの理由として、まだワクチンによる免疫反応が終わっていないにも関わらず、外出し感染を広げてしまった可能性である。免疫反応とはいえ、これまで増殖してきた「ウイルス」が反応で「外部」へ、うんちとしてであり、くしゃみや咳といった形で、何かしらの反応と共に蓄積されたウイルスが放出される。その反応であるため、濃厚接触を注意せず許容してしまった場合、被感染を曝露する可能性がこの統計からは云えるのである。だから、公衆トイレはおそらく毎日毎時清掃しなくてはならないのだろうとも思う。
その第1波が到達した後、速やかに感染者が激減しているが、第2波が第1波よりも多くなることも、未接種者と接種者の関係性の理由にあるのではと考えている。ピーク時から1乗減少し、また2乗増加するといった波形を描く。

また、残念なことに、思考を何度重ねても、私は「ワクチンパスポート」が必要であることに考えが至るのである。

何故かというと、公衆衛生的に、まず死者を「市民」に殺させるわけにはいかないということである。

つまり、ワクチンで「お亡くなりになる方」は既に「死の運命」に位置しサイトカインを蓄積していたという事象を考えられる。心臓が停止しかけていて、かつ作動しており、呼吸ができずかつ呼吸をしている、そういった症状の離散的であり接続した物理的に見れば理解しようもできない症状である。しかし、それは「生」であって同時に「死」である、そういった量子的現象が存在する。それを私たちは シュレーディンガーの波動関数と呼んだりシュレーディンガーの猫と呼ぶ。

 

 

 

 

そのことから、コロナはまず、被爆感染性を持つウイルスと考えられる。そのため、感染時のリスクはα=1の放物線を描く。また、t=-1からt=1に行くにつれてt=0がα=yに達した場合、重症化と死がハイリスクとなる。棄却域は無症状者を描く。α域に近づくほど人体は確率となりDNAは猫箱になり黄金率φとなる。棄却率状になると、生死が折り重なる状態に帰着する。それが、無症状と重篤化が折り重なる状態と近似する。

 


上記のように、また、海外でマスク励行している方が仮に多かったとしても、 SARS-CoV-2 は蔓延し、既に死の都市と化していていたという絶望的な見方をするしかない。しかも、未接種者は既に出会ったワクチン接種群に免疫反応を起こさせ、軽度のインフルエンザのような症状を頻回に起こさせるのである。また、接種者も未接種者に免疫応答を誘発させ――もし、そのものが「死者の運命」であるなら――あたかも「出会ったらサイトカインストームで亡くなってしまった」といった状況を発生させる。これが、「市民が死者を増やしてしまう」という事象と一致する。出会って数分会話をして、その後に突然亡くなった悲しみと苦痛、後悔と絶望を、接種者に生じさせるのである。また、以前にも日本ではワクチンが行き届いていなかった2020年の世界で、あれだけ濃厚接触を避けていたのも、「他者に苦しませるわけにはいかない」「他者を死者として変移させるわけにはいかない」理由に基づいて他者のために行動してきたはずである。それが「可能性」としてではなく「事実」としての悲しみであるから、その悲嘆は想像に絶する。また、逆に未接種者が「死」に事象が傾いていた場合、その人体が何シーベルトの放射線を放ち、また周囲にウイルスという形で体全体を通して飛散した可能性を想像したら、それもまた恐ろしい事象である。

 

 

上記のようなことが述べられるため、未接種群は多かれ少なかれ「潜伏したサイトカイン」が蓄積する。そのため、「死」の事象へと徐々に傾いていくことになる。潜伏したサイトカインが蓄積する前に、ワクチン接種群と接しワクチンを間接的に曝露する、もしくはワクチンを速やかに受ける、これが求められる。

 

 

 

だから、ゆえに、どちらにしても「ワクチンは全てに1度は行き届かなくてはならない」といった結論になるのである。

私たちは必ず、人間である限り他者と出会う。買い物を行くときも、生活をするときも――他者の行動を制限することはできない。だからこそ、ワクチンが必要なのである。
私たちは他者と出会ったとき、必ず「サイトカインを誘発しない」とは云えない。既にもうそういった状況下に否応なく立たされているのだと、私たちは認識しなくてはならない。悲しいことに、「受けない自由」は限りなく制限されなくてはならない。それはつまり、上記の「サイトカインの誘発性」の可能性に基づくものである。

そしてまた、仮にワクチンが全国民、全世界に行き届いたとしても、初めに述べたように――「風邪の症状が頻回としてある」ものが、最後の最後にやはり残される可能性があると考えられる。胸苦しさもあり、のどの痛みも生じ、時折味覚障害になったり、治ったり、嗅覚がときどきおかしくなったりするかもしれない。

その場合、私が述べたように、√1の”苦しみ”が発生していることを示している、そう私は考えている。

 

α1への認識の移行が、人間が最後の最後で死ぬときに安らかに死ぬことができる、その「安らぎ」に到達するのだと、SARS-CoV-2の塩基配列があたかも述べているかのように。それは邪悪であるか、それとも安堵への誘導か。偽の神であるか真の神であるか。それとも、その両面であるか――私たち人類は、神の観測にどう臨んでいけばいいのだろうか。
私たちは人生の延線した歩道の先に、神を見るのである。