だいいっしょう
わたしはあなたを愛していました。
恋はまだ、わたしのこころの奥で
きえはてていないのでしょう。
けれどもわたしは願う
それがもはやあなたの
胸をかきみださないように。
わたしはあなたにどんなことでも
悲しみをあたえることを望みません。
わたしはあなたを恋していました。
ものおじしつつ、
うたがいもだえつつ
ことばもなく、
望みもいだかず、
かくも誠をこめた、
やさしいこころで。
いまわたしは祈る、
あなたがほかの人から
おなじこころで恋されていることを。
このアレクサンドル・S・プーシキン詩を
諳んじていた少女がいました。
恋する少年が
少女とおなじこころで
ほかの少女から恋されていることを
素直に祈る
奇しき少女でした。
少女は恋を知りません。
まだ16歳でしたから
それも無理なからぬことかもしれません。
少女の恋は、
対象ではなく、
恋した自分自身に憧れる、
そんな偏ったものでした。
自己愛の発芽は
幼年期よりはじまりますが、
少女は2年前
母を亡くしたことをきっかけに、
虜となったのかもしれません。
ひとを愛せないものは
ひとからも愛されません。
愛されたいと思わない人も
けっして愛されることはありません。
1973年
七夕。
気温24℃の涼しい朝でしたが、
昼下がりには、
33,8℃まで上昇しました。
初夏です。
この月、
雨が降ったのはわずか一日でした。

牛飼いは
水浴びをする天女にひとめぼれ
なにがなんでもの
衝動が貫き、
天女の衣を盗んで
天女に結婚を迫りました。
天女は衣がないと天界へ帰れません。
牛飼いの愛情は半分嬉しく、
半分うとましかったでしょう。
ですが、
男の積極果敢な愛情にほだされて、
ある期間だけの約束を交わし
ふたりは夫婦となりました。
仕合わせな結婚生活ののち
天女は
約束通り天界にのぼりました。
牛飼いは天女を追い
天界にのぼろうとしましたが
ひとの身ではかないません。
そこで崑崙山に棲むという西王母に会い
天界へいたる方法をたずねます。
西王母は牛飼いの願いをかなえますが、
ひとつの条件をつけました。
一年に一度ならば天女に会わせようと。
牛飼いは迷わずその条件をのみ、
天の川へのぼったのです。
一年に一度だけの逢瀬。
牛飼いは満足できるのでしょうか。
満足できるのだとしたら、
それは本当に愛だと呼べるのでしょうか。
七夕伝説の基となったこの文選の古詩を
読み返しながら、
少女は静かな朝を迎えました。
窓の外の景色を
やわらかな陽光が
陽炎のようにゆらせています。
シャワーを浴び、
髪を洗い、
ドライヤーで乾かして、
純白の絹の下着をつけました。
クローゼットから、
テナール藍色があでやかな
ノースリーブのワンピースを選び、
袖を通します。
微かに衣擦れの音がたちました。
琥珀色がまどろむ
マリアンディールのドレッサーの前に腰かける。
ファンデーション
チーク
アイカラー
順に肌にのせてゆく。
リップライナーで輪郭をなぞり
リップカラーをおおう。
その上にグロスをかぶせる。
上唇の先端にさらに重ねて、
ナチュラルアイメイク。
ブラウンを基礎にゴールドをあわせて、
アイライン、
綿棒でぼかして、
リキッドとペンシルのふたつを使い、
アイライナーを描く。
ココシャネルのピアスを耳朶にたらせて、
さあ、完璧。
部屋の鍵を締めて、
レースのカーテンをひくと
ささやかな風をはらんでふくらみました。
ベッドメイクも終了、
机の上も片づけました。
アンダルシアのリビングボードの
2番目の引き出しからハルシオンを採ります。
5錠ふくんで冷水でながしました。
少女は、
やがてくるだろう催眠の前に
ひとしきり窓の外をながめ、
ガス管をくわえました。
消え入りそうな小さな声で、
さよなら、
とつぶやいたあとで。
窓辺には
マーガレットと、
金銀色の短冊をさげた
笹が花瓶に挿されていました。
心地よい風、
ときおりくるくるまわるきらめきのなか、
とおのく意識は、
夢を見せました。
山吹色の天空から
純白の羽をはばたきながら、
天使がおりてきます。
天使の両手は少女にむけられ、
まるで抱きすくめるように
開かれていました。
お母さん、
少女は夢の中で呼びました。
天使はにっこりと微笑み、
少女を抱いて天に昇ってゆきます。
1973年七夕、
少女は短い生涯を終えました。

誰にも知られない
死などあるものか。
誰にも悲しまれない
死などあるものか。
まして
誰も寂しがらせない
死などあってたまるものか。
死はかかわるすべての人を
深い闇におとしてしまうのだ。
時はながれて2009年、
七夕、
天満橋にて
ひとりの年老いた詩人が
川面を流れる天の川を見下ろし
過ぎ去ったあの日を
追憶していました。
水の中の星たちは
ほほえむように揺らめき、
ためいきをつくように、
浮き沈みしているのです。
誰にも知られない
死などあるものか。
誰にも悲しまれない
死などあるものか。
まして
誰も寂しがらせない
死などあってたまるものか。

笹の葉 さらさら
軒端にゆれる
おほしさま きらきら
きんぎん 砂子
五色の たんざく
わたしがかいた
おほしさま きらきら
空から見てる
老詩人は口遊みながら
なみだをひとすじ流しました。


わたしはあなたを愛していました。
恋はまだ、わたしのこころの奥で
きえはてていないのでしょう。
けれどもわたしは願う
それがもはやあなたの
胸をかきみださないように。
わたしはあなたにどんなことでも
悲しみをあたえることを望みません。
わたしはあなたを恋していました。
ものおじしつつ、
うたがいもだえつつ
ことばもなく、
望みもいだかず、
かくも誠をこめた、
やさしいこころで。
いまわたしは祈る、
あなたがほかの人から
おなじこころで恋されていることを。
このアレクサンドル・S・プーシキン詩を
諳んじていた少女がいました。
恋する少年が
少女とおなじこころで
ほかの少女から恋されていることを
素直に祈る
奇しき少女でした。
少女は恋を知りません。
まだ16歳でしたから
それも無理なからぬことかもしれません。
少女の恋は、
対象ではなく、
恋した自分自身に憧れる、
そんな偏ったものでした。
自己愛の発芽は
幼年期よりはじまりますが、
少女は2年前
母を亡くしたことをきっかけに、
虜となったのかもしれません。
ひとを愛せないものは
ひとからも愛されません。
愛されたいと思わない人も
けっして愛されることはありません。
1973年
七夕。
気温24℃の涼しい朝でしたが、
昼下がりには、
33,8℃まで上昇しました。
初夏です。
この月、
雨が降ったのはわずか一日でした。

牛飼いは
水浴びをする天女にひとめぼれ
なにがなんでもの
衝動が貫き、
天女の衣を盗んで
天女に結婚を迫りました。
天女は衣がないと天界へ帰れません。
牛飼いの愛情は半分嬉しく、
半分うとましかったでしょう。
ですが、
男の積極果敢な愛情にほだされて、
ある期間だけの約束を交わし
ふたりは夫婦となりました。
仕合わせな結婚生活ののち
天女は
約束通り天界にのぼりました。
牛飼いは天女を追い
天界にのぼろうとしましたが
ひとの身ではかないません。
そこで崑崙山に棲むという西王母に会い
天界へいたる方法をたずねます。
西王母は牛飼いの願いをかなえますが、
ひとつの条件をつけました。
一年に一度ならば天女に会わせようと。
牛飼いは迷わずその条件をのみ、
天の川へのぼったのです。
一年に一度だけの逢瀬。
牛飼いは満足できるのでしょうか。
満足できるのだとしたら、
それは本当に愛だと呼べるのでしょうか。
七夕伝説の基となったこの文選の古詩を
読み返しながら、
少女は静かな朝を迎えました。
窓の外の景色を
やわらかな陽光が
陽炎のようにゆらせています。
シャワーを浴び、
髪を洗い、
ドライヤーで乾かして、
純白の絹の下着をつけました。
クローゼットから、
テナール藍色があでやかな
ノースリーブのワンピースを選び、
袖を通します。
微かに衣擦れの音がたちました。
琥珀色がまどろむ
マリアンディールのドレッサーの前に腰かける。
ファンデーション
チーク
アイカラー
順に肌にのせてゆく。
リップライナーで輪郭をなぞり
リップカラーをおおう。
その上にグロスをかぶせる。
上唇の先端にさらに重ねて、
ナチュラルアイメイク。
ブラウンを基礎にゴールドをあわせて、
アイライン、
綿棒でぼかして、
リキッドとペンシルのふたつを使い、
アイライナーを描く。
ココシャネルのピアスを耳朶にたらせて、
さあ、完璧。
部屋の鍵を締めて、
レースのカーテンをひくと
ささやかな風をはらんでふくらみました。
ベッドメイクも終了、
机の上も片づけました。
アンダルシアのリビングボードの
2番目の引き出しからハルシオンを採ります。
5錠ふくんで冷水でながしました。
少女は、
やがてくるだろう催眠の前に
ひとしきり窓の外をながめ、
ガス管をくわえました。
消え入りそうな小さな声で、
さよなら、
とつぶやいたあとで。
窓辺には
マーガレットと、
金銀色の短冊をさげた
笹が花瓶に挿されていました。
心地よい風、
ときおりくるくるまわるきらめきのなか、
とおのく意識は、
夢を見せました。
山吹色の天空から
純白の羽をはばたきながら、
天使がおりてきます。
天使の両手は少女にむけられ、
まるで抱きすくめるように
開かれていました。
お母さん、
少女は夢の中で呼びました。
天使はにっこりと微笑み、
少女を抱いて天に昇ってゆきます。
1973年七夕、
少女は短い生涯を終えました。

誰にも知られない
死などあるものか。
誰にも悲しまれない
死などあるものか。
まして
誰も寂しがらせない
死などあってたまるものか。
死はかかわるすべての人を
深い闇におとしてしまうのだ。
時はながれて2009年、
七夕、
天満橋にて
ひとりの年老いた詩人が
川面を流れる天の川を見下ろし
過ぎ去ったあの日を
追憶していました。
水の中の星たちは
ほほえむように揺らめき、
ためいきをつくように、
浮き沈みしているのです。
誰にも知られない
死などあるものか。
誰にも悲しまれない
死などあるものか。
まして
誰も寂しがらせない
死などあってたまるものか。

笹の葉 さらさら
軒端にゆれる
おほしさま きらきら
きんぎん 砂子
五色の たんざく
わたしがかいた
おほしさま きらきら
空から見てる
老詩人は口遊みながら
なみだをひとすじ流しました。




















