だいいっしょう




 わたしはあなたを愛していました。
 恋はまだ、わたしのこころの奥で
 きえはてていないのでしょう。
 けれどもわたしは願う
 それがもはやあなたの
 胸をかきみださないように。
 わたしはあなたにどんなことでも
 悲しみをあたえることを望みません。
 わたしはあなたを恋していました。
 ものおじしつつ、
 うたがいもだえつつ
 ことばもなく、
 望みもいだかず、
 かくも誠をこめた、 
 やさしいこころで。
 いまわたしは祈る、
 あなたがほかの人から
 おなじこころで恋されていることを。


このアレクサンドル・S・プーシキン詩を
諳んじていた少女がいました。

恋する少年が
少女とおなじこころで
ほかの少女から恋されていることを
素直に祈る
奇しき少女でした。

少女は恋を知りません。
まだ16歳でしたから
それも無理なからぬことかもしれません。
少女の恋は、
対象ではなく、
恋した自分自身に憧れる、
そんな偏ったものでした。
自己愛の発芽は
幼年期よりはじまりますが、
少女は2年前
母を亡くしたことをきっかけに、
虜となったのかもしれません。

ひとを愛せないものは
ひとからも愛されません。
愛されたいと思わない人も
けっして愛されることはありません。

1973年
七夕。
気温24℃の涼しい朝でしたが、
昼下がりには、
33,8℃まで上昇しました。
初夏です。
この月、
雨が降ったのはわずか一日でした。




牛飼いは
水浴びをする天女にひとめぼれ
なにがなんでもの
衝動が貫き、
天女の衣を盗んで
天女に結婚を迫りました。
天女は衣がないと天界へ帰れません。
牛飼いの愛情は半分嬉しく、
半分うとましかったでしょう。
ですが、
男の積極果敢な愛情にほだされて、
ある期間だけの約束を交わし
ふたりは夫婦となりました。
仕合わせな結婚生活ののち
天女は
約束通り天界にのぼりました。
牛飼いは天女を追い
天界にのぼろうとしましたが
ひとの身ではかないません。
そこで崑崙山に棲むという西王母に会い
天界へいたる方法をたずねます。
西王母は牛飼いの願いをかなえますが、
ひとつの条件をつけました。
一年に一度ならば天女に会わせようと。
牛飼いは迷わずその条件をのみ、
天の川へのぼったのです。
一年に一度だけの逢瀬。
牛飼いは満足できるのでしょうか。
満足できるのだとしたら、
それは本当に愛だと呼べるのでしょうか。

七夕伝説の基となったこの文選の古詩を
読み返しながら、
少女は静かな朝を迎えました。
窓の外の景色を
やわらかな陽光が
陽炎のようにゆらせています。
シャワーを浴び、
髪を洗い、
ドライヤーで乾かして、
純白の絹の下着をつけました。
クローゼットから、
テナール藍色があでやかな
ノースリーブのワンピースを選び、
袖を通します。
微かに衣擦れの音がたちました。
琥珀色がまどろむ
マリアンディールのドレッサーの前に腰かける。
ファンデーション
チーク
アイカラー
順に肌にのせてゆく。
リップライナーで輪郭をなぞり
リップカラーをおおう。
その上にグロスをかぶせる。
上唇の先端にさらに重ねて、
ナチュラルアイメイク。
ブラウンを基礎にゴールドをあわせて、
アイライン、
綿棒でぼかして、
リキッドとペンシルのふたつを使い、
アイライナーを描く。
ココシャネルのピアスを耳朶にたらせて、
さあ、完璧。

部屋の鍵を締めて、
レースのカーテンをひくと
ささやかな風をはらんでふくらみました。
ベッドメイクも終了、
机の上も片づけました。
アンダルシアのリビングボードの
2番目の引き出しからハルシオンを採ります。
5錠ふくんで冷水でながしました。
少女は、
やがてくるだろう催眠の前に
ひとしきり窓の外をながめ、

ガス管をくわえました。

消え入りそうな小さな声で、
さよなら、
とつぶやいたあとで。

窓辺には
マーガレットと、
金銀色の短冊をさげた
笹が花瓶に挿されていました。
心地よい風、
ときおりくるくるまわるきらめきのなか、
とおのく意識は、
夢を見せました。
山吹色の天空から
純白の羽をはばたきながら、
天使がおりてきます。
天使の両手は少女にむけられ、
まるで抱きすくめるように
開かれていました。
お母さん、
少女は夢の中で呼びました。
天使はにっこりと微笑み、
少女を抱いて天に昇ってゆきます。

1973年七夕、
少女は短い生涯を終えました。




誰にも知られない
死などあるものか。
誰にも悲しまれない
死などあるものか。
まして
誰も寂しがらせない
死などあってたまるものか。
死はかかわるすべての人を
深い闇におとしてしまうのだ。

時はながれて2009年、
七夕、
天満橋にて
ひとりの年老いた詩人が
川面を流れる天の川を見下ろし
過ぎ去ったあの日を
追憶していました。
水の中の星たちは
ほほえむように揺らめき、
ためいきをつくように、
浮き沈みしているのです。

誰にも知られない
死などあるものか。
誰にも悲しまれない
死などあるものか。
まして
誰も寂しがらせない
死などあってたまるものか。




 笹の葉 さらさら 
 軒端にゆれる 
 おほしさま きらきら 
 きんぎん 砂子
 五色の たんざく 
 わたしがかいた 
 おほしさま きらきら 
 空から見てる

老詩人は口遊みながら
なみだをひとすじ流しました。









いつもの昼休みだった。

上着を脱ぎ捨て、
運動場でサッカーをしていた。

数組の男子が、二組に分かれ、
試合形式、
センターハーフに陣取り、
攻撃を組み立てる。
キーパーが蹴り上げた
ロビングを胸トラップ、
勢いを殺したボールを
腿でコントロールし、
インサイドで向かってきた敵を交す。
あとは、スピードに任せて、
ひたすらゴールを目指す。
ドリブルに、妙はない。
速さ、それだけで、
相手DFを面白いように交せる。
素人相手に、
フェイントは不要だ。
ペナルティエリア、
DFは二人、
3対1だ。
慌てない。
虚を突くのだ。
ゴールに背を向け、
味方を待つ振りをする。
そして、
反転して、シュート。
ボールは
キーパーの股を低く抜けて、
ゴール。

派手なガッツポーズなんて、
しない。

その時だった。

「S!!」

呼ぶ声がする。
校舎、2階の窓から、
顔が覗いている。
見上げていると、

「そこにおってや」

そう言い置いて、
見覚えある顔が運動場に出てきた。
2組にいる
仲がいいヤツではなかった。
話があるという。
心当たりが、
いっぱいある自分にとって、
この言葉は、充分足枷となる。

腕を掴まれて、
校舎に入る。
逮捕された犯人然。
刑事か、あんたは?

睨みつける。
何も、
悪い事をしたわけ(たぶん)ではないが、
逃げ出せないようにする
しっかりとした掴み方だった。
逃げ出したくなるような
理由があるのだろう。
考えたって、仕方がない。
階段を上り、食堂前の、
新校舎と旧校舎の渡り廊下に着いた。

そこに、
女生徒が数人輪を作っていた。

「連れてきたで」

女生徒達が一斉に振り返った。
瞬間、真ん中にいた女生徒が
「キャー」と悲鳴をあげて、
その場に座り込んだ。
長い髪と長い総襞のスカートが、
上と下で扇状に開き、
容貌は両手に隠れている。
逆光だったからか、
彼女達が黒い小山の塊に見えていた。
光はいつも、
くらい。
状況把握が
できやしない。
表情なんてとても窺えないせいだ。
他の娘達が、
いっしょになって座り込み、
彼女をあやす情景は一種、
異様でさえあった。

「S、この娘、
おまえのこと好きなんやて」

いけすかない
ニワカ刑事。

春が、来た、のか?

信じられない体験だった。
まさか、
女子に告白されるとは夢にも思わなかった。
波打つ胸で煌めく校章の色は紺、
2年生だった。

慰められる女生徒は、
泣いているのか、
どうしているのか、
啜泣く声も聞こえなければ、
友達の声に反応もしない。
思考は一瞬で
海の底に沈んだ。
どうなっているのか、
ばかみたいに呆然と
見守るしかない。
昼休みの終わりを告げる
チャイムが校舎に鳴り響いていた。




その日の放課後、
もう一度、
その女生徒達と対面する。

想い出した。
その少女を覚えていたのだ。

2年のときの文化祭、
講堂での
演目終盤、
1年女子のフォークロック、
ひとりの少女がピアノの前、
弾き語りはじめると、
講堂中の喧騒が一瞬にして静寂となった。
それは、
まさに天使の歌声だった。
世の中にこんな声が存在するのだ、
という素直な感動が、
全身を凍らせた。
それがその女生徒だった。

天使の歌声との
交際がはじまった。


昼休みから2年後、
ふたりは別れ、
27年後、
彼女の家に電話をかけた。

予感はあった。
彼女が結婚している筈がない、

という、
あさましい
切望をまぶした予感だった。

積極的で、
奔放な彼女が、
家庭に収まっているとは、
とても想像できなかった。

だが、それは、
27年前の彼女だったなら、
という絶対条件がつくことも、
覚悟していた。

そう、
もしそうなら、
潔く、諦めよう。
27年間、
どうしても解ききれなかった疑問は、
死ぬまで封印しよう。

何故彼女なのか、
何故彼女でなければならなかったのか、
そんな、
だれでも考えることを、
必死に考えていた。
反芻して、
その都度、
答えを導こうと努力は、
した。
だが、
それでも、
27年前の自分への訣別にはならなかった。

単に答えが欲しかったのだろうか?
いいや、
そうじゃないと、
今の私は思う。
私は、
純粋に、
彼女にもう一度逢ってみたかったのだ。

それは、
格好付けすぎだろう、
ともうひとりの自身が謗る。

そんなことはない、
そう考えることこそ
格好付けている証拠じゃないか、
ともうひとりの自分が擁護する。

予感はあるが、
予測はすまい。
考えまい、
思うまい。
なるように、
必ず、
なる。
鼓動は、
胸を圧して、
意識を遠のかせるくらいだった。



番号は、
変わっていなかった。
忘れっぽい私が、
けっして忘れなかった7桁の数字。
呼び出し音が止まった。
  
「はい、Nですが…?」

懐かしい彼女の声が聞こえた。

変わっていない。
電話だけの、造り声だ。

名前を告げる。

沈黙。

驚きは沁みてこない。
だけども、
ちゃんと、
呼吸する音だけは
聞こえている。
雲の上にいるような
あやうげな沈黙だった。

拒絶はされていないのかもしれない。
久し振りやナ、
ようやっと、
声に出せたのはこれだけだった。

返事は、ない。
白い翼が網膜の端っこで開いた。

何か言わなければ、
だけど、
それ以上の声が出てこない。
幻覚だったのか、
私は、
意識の全てを投入して
網膜に映えたその正体を探った。

だが、一瞬だけの映像は、
一瞬で消え、
もどってはこなかった。

”何年、待たせる気だったの?”

それが、
彼女が応じた最初の言葉だった。

白い翼が、
意識の探索を嘲笑うかのように、
拡がった。

今度は、見た。
ちゃんと、捉えた。

それは、天使の羽だった。
追いかけた蜻蛉は、
こんなところにいた。
白い羽をもった、
天使と言う名前の蜻蛉。

こんなところにいたんだ。
清算しよう、
私は心を鼓舞した。

よみがえる
さまざまな情景
声と匂いと温もり。
27年の時空を
さかのぼってゆく。





その駅に至るまでに、
地下鉄と国鉄環状線と京阪電車に
一時間揺られなければならなかった。

夏休みの家出騒動以来、
週の半分を私の部屋で過していた彼女を、
彼女の父親との約束を守るべく、
会う機会を制限しなければならなかった。
その代償に、私が彼女の住む街に、
週に3度訪れる約束をする。

駅前の喫茶店、そこが、
私たちの「逢引」場所だ。
8月の末から2月中旬まで、
それは、続いた。

私は浪人中だったし、
彼女も、進学か就職か、
大事な時期だった。
私たちは、
互いに独りの時間を、
知らず知らず、
育ててしまっていた。

年が改まり、
愈々、
受験シーズンに突入する。
すべりどめの2校に不合格し、
本命の発表を待つ。
本来ならば、
難易度のレベルがケタ違いの本命校に、
受かるわけが無かったのだが、
この年、
マークセンス方式が取り入れられたために、
チャンスはあった。
勘、
次第で、
苦手の英語もなんとかなるかもしれないと、
手応えをを感じていた。

結果は、
合格だった。

だが、その報せは、
彼女には告げられない。

何故なら、私たちは、
その前に、
別れてしまったからだ。

別れは、
嘘みたいに、
唐突だった。

「別れへん?」

そう訊かれて、
別れようか、
と応じれるほど、
私たちは醒めていなかった筈だった。

「え?何て?別れる?何で?」

疑問符のオンパレードだ。
穿って云えば、
それだけ、
矜持が怯んでいたのだ。

「理由は、ない。
でも、別れようよ、駄目?」

駄目だ、
と、私は言えない。

勝手な女だとも詰らない。
それが、
私の負の部分に根ざす事を、
嫌というくらい、
知る事になってしまう。

去りたければ、
去るがいい。
私は、追わない。
そして、
その場所にも、
とどまらない。
互いに、
反対方向へ逃げれば、
忘れる事もたやすいだろう。

刹那単位に、
思考は切り替わる。

理由を訊こうとしない私に焦れて、
彼女が言訳する。

「嫌いになったわけじゃないの、
今でも、Sさんがイチバン好き」

イチバン?
この言葉に私は打ちのめされる。
言葉は意味を誘引する。
男の陰を、妄想した。

「理由はええよ。別れよう」

私の声は、
強がりがバレるくらい震えていただろうか。

晩冬の夜空に、
星は見えない。

彼女の茄子紺色に消えてゆく後ろ姿を、
私は、
意地と泣き言と、
叫びたいくらいの孤独感に呵まれながら、
見つめていた。
もう、
二度と、
この姿を見る事はない。
彼女は、
けっして立ち止まらず、
振り返りもしなかった。

それだけの覚悟だったことを
改めて知らされた。
ロングタイトスカートの豊満な曲線が、
夜にかすんで溶けていった。

それから27年。

私は、
その理由を清算するために彼女に逢う。




12番目の駅は、
今も変わらず、
想い出の中のたたずまいを残していた。
改札口、
柱の陰に、
彼女はいた。

赤ん坊を抱いて。

子供なのだろう。
私の予想は外れた。
それでいい、
その方がいいんだ、
と素直に思った。

愛くるしい赤ん坊だ。
女の子?
名前は?
S?
変わった名前やナ。
旦那さん、変人やろう。
違う?
え?
孫?
孫って、それじゃ、子供は?
  
娘?
そうか、ひとり?
娘さんは?
来なかった?
そうか、そういうことか。

「勝手に解釈してるでしょう、
Sさん、変わらないね」

むずかる赤児をあやしながら、

「この子の母親はね、
Sって名付けたの。
懐かしくない?」

「何が」

「忘れっぽいんだから、
Sよ?思い出さないの?」

「意味が、よく判らんけど」

「Sさんて、本当に、自分のこととなると、鈍感よね」

「久し振りに逢って、人格否定か?」

「違う。娘はね、今年27歳になる」

27?
おまえが45。
-27で、
ええと、18?
え?
S?
Sなんて……、

私は思い出した、その名前を。
そして、同時に全てを理解した。
まさか、
そんなこと、おまえ、
何故、黙って……。

「勘の悪いお爺ちゃんですねぇ、ほら、目の辺りなんか、Sさんそっくり」

 

恋は、清算された。
そしてその何故を、
私は知った。
それは、ふたりにとって、
過酷だったのか、
試練だったのか、
そんなことは、
どうでもよかったのだ。

彼女は、私を待っていた。

蜻蛉を追いかけて、
故郷を忘れてしまった少年のように、
私は、定住の地を離れ、
山々に蜻蛉を追い、
野や丘や、
川を渡って、
いつしか故郷を忘れたかのように、
彼女を忘れようとしていたのかもしれない。
ほんの少しの、
勇気を振り絞れば、
こんなことにはならなかったのかもしれない。
意地、プライド、主義、
そんなもの、
もってもいないくせに、
背を向けつづけた27年間の歳月。
851472000秒なんて、
振り返れば、
ほんの一瞬だった。

私の友人達も含めて、
全員が、
その後の彼女を知らなかった。
偶然逢った事もないという。
同じ街で暮していて、
それでも、
出逢わない、という、
やけに意図された偶然。

それが、
どれだけおかしいことなのかと、
私は、
ようやく、
理解した。
嘘だったのだ。
友人達は、
彼女のその後を、
知っていた。
知っていて、
ずっと、
私には、
報せなかったのだ。
何故、教えなかったのか、
と、詰るまい。
それも、
彼らなりの、
友情だったのだろう。

こうして、
ふたりは、
27年ぶりに、
寄りを戻し、
2年後の4月、入籍した。

   
   こうして、君は、
   かすかな罪も知らずに終わるだろう
   口さがない老女らも、
   君の恥をいうものはなかろう
   いやしがたい痛みが、
   この心にうずまくが、
   君は、
   恋のための殉難のひととなることはない。

                 バイロン






毎週欠かさず視聴している
「ただいま恋愛中」にチャンネルを合わせる。

一組目のカップルが手を繋いで現れて、
交際のなれ初めやら、
ふたりに起こったさまざまな出来事を
仁鶴とやすきよ相手に、
のろける。
やすしにきつくつっこまれても、
カップルはここぞとばかりに、
のろけまくる。
恋する二人に耳は要らない。
よく考えてみれば、
つくづくばからしい内容だった。
他人ののろけなんて聞いて、
何が楽しいんだか。

不幸はひとりで背負い、
幸福は別け合う、
という夢のような道徳が、
まだ、
かろうじて残っていた時代だった。

オレは今、幸福の絶頂にある。
夏のクラス旅行、
あの焼けつくような陽射しの下で、
オレは
真っ赤なハイビスカスを見つけた。
オレは、
知らなかった。
こんな近くに、
艶やかな花が咲いていたなんて。

その花の名前は、
律子という。
小さくて、スリムで、色が白くて、
ビキニが焦るくらい似あっていやがった。
いつもは道端で忘れられていた花を、
ギラつく太陽と無間地獄のような砂浜が、
艶やかに変身させた。
シンデレラのように、ガラスの靴を履き、
カボチャの馬車に乗って現れたんだ。

その花がオレに告げる。
恥ずかしくって、
とても思い出せたもんじゃないけれども、
悪い気はしなかった。
いいや、正直に言おう。
嬉しかったさ。
ああ、跳び上がりたいくらい、
嬉しかったさ。
昂揚のあまり、
旗だって掲揚して、
敬礼だってしてやろう。

生れて初めてだった。
女の子から告白されるなんて。
こんなにも顔が痛くなるなんて思いもしなかった。
え?日焼けの所為じゃないぞ。
顔の表情筋だ。
どんな顔すればいいのか、
笑っちゃ失礼な気がするし、
怒っちゃ拒否しているようだし、
悲しい顔なんてしたことないから無理だとしても、
どんな顔してりゃいいんだ、
オレは悩んで、
とんでもない顔になっていたんじゃないかと
気がかりでしようがなかった。

2年の時から、
オレを好きだったと言った。
そんなに昔から、
オレを好きだったなんて、
夢にも思わなかった。
おれは鈍感じゃない筈なんだが、
片思いってやつは、
密やかだからこそ、
切ない。
オレだって、経験がある。
だから、思いを伝えるなんてことは、
絶対にしないし、
やってはならないことだ。
だが、彼女はそのタブーを冒した。
夏は心の鎧を解き放ってしまうのか?
男のオレだって、
そんなことまで口に出せない。
いいや、男だからこそ、
口に出せないことだってある。
女は怖い。
全身が「色」で出来ている。
髪も目も鼻も口も、
胸もお腹もお尻も脚も、
全部、色、で成り立っている。
隙はどこにもない。

好きになれば、
こんなことはおろか、
男では絶対に出来ない事だって、
冷静に成し遂げてしまうだろう。
男の色と女の色は、
根本的に異なるものだ。
どうちがうのか、
ややこしくて頭が痛くなってくるから、
やめておく。

旅行から帰って、夏が終わっても、
オレタチの夏は続いてゆく。
永遠だ。
死が二人を分かつまで、
その思いは消えない。
永遠にオレを愛している、
と彼女は誓った。
オレも誓おう。
オレはオマエを永遠に愛し続けるぞ。

2組目のカップルが登場。
腕なんか組んで、
熱い熱い、
おいおい、
女の子の胸が男の肘に当たってるじゃないか。
プラトニックじゃねえな、
こいつらは。
Cまで絶対に行ってる。

  あれ?

女の子よく観れば、
オレのタイプじゃないか。
化粧濃いけど、ストライクゾーンだ。
少し、彼女に似ているし。

  あれれ、声まで似ているぞ。

男のぶさいくなことよ。
女の子のセンスを疑うね。
こんな男に惚れる女なんて、
外貌ってのは
つまりは懐の深さだ。
底が浅いに決まってらぁ。

男が自己紹介し、
続いて、女が自己紹介する。

  「○○律子です」

...........................オレの、
ハイビスカスだった。




この男、高2の頃は、
伊丹サチオに瓜二つだったが、
高3になってぐんぐん背が伸び、
沖雅也そっくりになっていた。
当然、下級生の人気を独り占めして、
ファンクラブまで群出するくらい、
モテモテぶりだった。
そんな男が、
選んだ相手が彼女だったのだ。
彼女はそのテレビ放送の前日まで、
彼との仲睦まじい様子を
校内中に見せびらかしていたのだ。
晴天の霹靂が全身を貫いただろう。

彼は、この夜のテレビ番組以来、
女性不信に陥った。
彼も、事の顛末を彼女に糾問しただろう。
しかし、こういう場合、
事実の究明は、
けっして喜ばしい真実をもたらすことはない。
彼女はフタマタをかけていたようだ。
夏以前から、
テレビ出演した不細工男と付き合っていたらしく、
浮気相手は、彼の方だったのだ。

本命と2番、
まるで現代を垣間見るような気にさせられるのは、
皮肉でないこともない。

その後、二人は別れたが、
相当な諍いがあったようだ。
詳しい事を私は知らない。
しかし彼は、これより以後、
女性を一切信用しなくなった。
浮気するならするがいい。
オレは、構わない。
別れるだけの話だ。
人間なんて、そんなものだ。
口では永遠を誓い、
誠実を装い、
信用を求めるが、
見せかけと本質は大違い。
毎日、いい男はいないか、
獣のような生理臭さで、
道行くホルモンを
品定めしているに決まっている。

彼は、
仕事の関係で東京に2年転勤していたが、
帰阪すると、嫁をもらっていた。
15歳年上の女性で、
確かに、美人だったが、
それで、本当にいいのか?
答えは決まっていた。

いいんだ。
女なんて、それでいいんだ。
オレは何も求めないし、
与えない。
妻といえども、浮気するだろう。
2年後か、3年後か、
いいや、今この時だって、
オレに隠れてしているかもしれない。
オレが知れば、
それでこの所帯は終わりだ。

彼の予言めいた愚痴の通り、
3年後、奥さんの浮気が発覚して、
二人は離婚した。
だが、彼の孤独は3日とはつづかない。
装うように女性を換える。
心なんて要らない、
愛なんて御免だ。
人は愛のみに生きるにあらず。
交際なんて、
瞬間の積み重なりに過ぎないのだから、
立ち止まる事もなく、
瞬間を満喫してゆけばよいのだ。

眉をしかめながら、
こう呟くこの男、
背中にいつも不運を負う。
友人の披露宴では、
心の底から祝福して、
涙まで浮かべて感激する激情家なのだが。






俺は待っていたさ。
ずっと、ずっと、待っていたさ。
日が沈んでも、
月がのぼっても、
待っていたさ。
必ず、来る、
ってアイツは言った。
必ず、って文句は、
絶対、っていうことだ。
絶対、っていう文句は、
もしも、とか、
万が一、とかいう、
危なっかしい尺度じゃない。
完全無欠、ってことだ。
そうさ、パーフェクト、ってことさ。
完璧、この世の果て、さ。

俺は、この世の果てをまだ見た事がない。
誰だって観たことがねえかもしんないけど、
俺だって、観たことねぇさ。
だからこそ、完璧ってことなんだ。
  
この世の果てには、
きっと、
俺等が見た事もない楽園がある筈なんだ。
こ難しい理屈は抜きに、
見て、騙る、
そうさ、俺等はだまされる。
美しいもの、
儚いもの、
哀しいものに、
俺等は絆される。
それだって、
この世の果てなんかじゃない。
この世の前、さ。
つまりは、完璧じゃない、
ってことだ。
完全なものがそう何個もあってたまるかよ。
  
人には、ひとつ、
完璧なものがある。
それは、誰にでもあるものだけど、
誰もが気づかない、
ありきたりのものだ。
あって当然すぎて、
これだ、
って改めて指摘なんてされた日にゃ
赤面するくらいのものだ。
だけど、人は、
それ以上の、この世の果て、
を追い求める。
速すぎて、
俺等の足じゃ追いつけないけど、
それでも、少しでも近づこうと、
必死で追いかけなけりゃ
永久に後ろ姿さえお目にかかれねえ。

俺のハイビスカスは、
人妻になっていた。
そういう年齢になっている、
そうでないほうがおかしいのは判っていたさ。
交際を再開したS、
27年越しの恋も実らなかったU、
ふたりとも相手は、独身だった。
おかしいことが、
寧ろおかしいことだった、ってわけだ。
常識なんて、あてになるはずがない。
平均とって、
それから判断する悪い癖、
やめなければならないなぁ。
常識は所詮常識さ。
それ以上には、絶対に、なれない。
正解半分、不正解半分。
当たるも八ヶ当たらぬも八卦、
ってのとおんなじで、
結局のところ、
いってることは、普通の事だ。
人にあなたは人間です、
あなたは男です、
あなたは生きています、
って占われて、
正解しない方が変だろう。
分かり切った事を、
分かり切ったように、
言うなよ。
分かり切った事は、
あんたには判りきっちゃいないかもしれないけど、
俺には、分かり切った事なんだ。
晴れてる日に、いいお天気ですねぇ、
なんて、しゃらくせぇことぬかすなよ。
空を見りゃ、
犬にだって判断できるさ。
それを、さも自分だけが気づいたように、
仰々しく挨拶するなよな。
挨拶だったら、
こんにちは、こんばんは、おはよう、
それで充分じゃねぇか。
無駄な文句なんてなんで挟むんだ。
時間の浪費なんだ。
そりゃ、時間を浪費することは楽しいさ。
だけど、そんな奴らと浪費したくはねえさ。
自分ひとりで浪費してろよ。
俺は、俺が好きなときに、浪費を楽しむさ。
楽しみを分けてなんかやらねえ。

不倫理概論、だれかの卒論のテーマだったなぁ。
倫理がある故に社会が機能しているのならば、
不倫理によってこそ文明は繁栄するだろう、
とかなんとか、
わけの判らないへ理屈の山だったっけ。
作り上げた決まりは、
作り上げたその日から破ってしまえ、
正しい事は同時に卑しく疚しいことなんだ、
恥を知れ
恥を知るならば倫理なんてくだらないものに
縛られている筈がないなんて、アイツらしい。

今日のことをアイツはなんて言うだろうか。
今度の集会には、
ちゃんと報告してやろう。
それにしても、
いつだってアイツは、
良い目みてるような気がするのは、
気のせいだろうか。
強運の人間、
ってのは、この世は
苛立たしいくらい不公平だって
アイツを見るたびに思い知らされる。
上手くいきっこないのに、
どうして在学中に結婚なんかしやがったんだ。
皆の予想は完全に外れたさ。
アイツだけは、30過ぎまで、
絶対に結婚しない、って確信していたのに。
アイツに付き合いきれる女なんて、
この世にふたりといてたまるかよ。
それなのに、懲りないやつだ、
離婚して、
今度は12歳も年下の女と再婚しやがった。
女ってのは、
よっぽど不幸に憧れているのか?
アイツが女を仕合わせにできるはずがないんだ。
不倫理概論だぜ?
Y教授だって腰を抜かすだろうよ。
発狂こそが、詩人の究極の到達点だ、
なんて本気で書いていやがった。

死という解脱、
自殺という悟り、
裏切りという奉仕、
アイツにかかっちゃ、
この世のあらゆる汚濁こそが、
至高の境地になってしまう。
そんな男が、
仕合わせな家庭を築けるか?
築けっこない。
破綻は約束されているようなものだ。
それなのに、
アイツにはなんで女が群がるんだ?
50前なのに20代の容貌しやがって、
アイツはきっと化物なのさ。
アイツが人間だなんて、
俺等は全然信用していない。
女にとって、アイツは、悪魔そのものだ。
そういえば、あなたは悪魔だ、
なんて詩を恋人に進呈されてほくそ笑んでいやがった。
アイツにとってはそれも恋歌に聞こえるらしい。

アイツには常識が非常識に見える。
アイツの常識(もしそれがあったとしてだが)は、
周囲を不幸のどん底に陥れる。
目に見えない精神世界での話だ。
アイツに感化されたら、
もう日常が日常でなくなってしまう。
言わんこっちゃない、2度目の結婚も破綻。




「待った?」

やっと来やがった。
何時間待たせやがるんだ。
俺は優しくなんかないぞ。

「待ったぜ」

「ゴメン、夕飯の支度に手間どっちゃって」

なんて所帯染みていやがんだ、ちくしょう。

「どんくさいなぁ、約束の時間覚えてたのか?」

「ゴメン」

「許すとおもうなよ、これは貸しだからな」

ちょっと言い過ぎたかな。
これもアイツの悪影響かもしれない。
ようやく呪縛から抜け出したのに、
また、アイツと付き合い出したもんだから。
ついつい僻みっぽくなっちまう。
だけど、
この貸しは取り立て出来ねぇだろうなぁ。

「何処か入る?」

老けたなぁ。
これがあのハイビスカスかよ。
今じゃビキニどころか、
ワンピースだって着れねえだろう。
どんな旦那なんだろうか。
まさか、
一緒にテレビでていたぶっ細工なあの野郎じゃあるまい。

「ねぇ、どこか入ろう」

「ここでいいだろう。寒いのか?」

「大丈夫だけど」

「じゃ、ここでいいな」

「訊きたいことって、何?」

いきなりかよ。
まぁ、それも、いいだろう。

「おまえな、何故俺じゃなくて、
あの時、あいつを選んだんだ?
俺は、それでも構わないって譲歩しただろろう?
そんなにあいつの方がよかったのか?」

「ううん、違う。あなたを好きになり過ぎて、
ずっと不安だったの。分からないでしょう?」

判るわけがない。
俺はおまえじゃないし、
女じゃない。

「不安?俺はあれだけ
おまえを好きになったじゃないか、
信じられなかったのか?」

「信じてたよ。
だから。不安になったの。
あなたが、いつまでわたしを好きでいてくれるか」

「それはおかしいだろう。
不安だったら、
不安じゃないように何故しなかったんだ?」

「不安だからよ」

「それじゃ答えになってないじゃないか。
不安だから、諦めたってのか?
そんなの、変じゃないか、
俺がいつまで好きでいられるかなんて
俺だって判んねぇよ。
そんなわけの判んねぇことにこだわってたら、
なんにも出来ねぇじゃねぇか」

「なんにも出来なくなってしまう恋だってあるわ」

「そんなものは、この世に、ありません!」

「あなたの世界にはないでしょう。
でもね、
普通の女の子には切実なことなのよ。
何にも出来なくなって、
わたしがわたしで
なくなってしまって、
やってることも、
かんがえることも、
なんでもかんでも、
ごっちゃまぜになっちゃって、
気がついたら、
きっとあなたは
いなくなっていたはずだわ」

「だから、って、
俺をフることないだろう。
俺の気持ちはどうなるんだ?
考えてみた事があったかい?
そんなしおらしい女の子が
テレビでただいま熱愛中!
なんて真似できるわきゃーない。
信じられるか、
そんなこと。
少女漫画の世界だろう、
そんな世界は」

「ええ、そうよ、
少女漫画よ、悪い?
王子様を待っている
お姫さまになれない
農家の娘。
かなわぬ恋にあこがれて、
胸を焦がして、
それでも、
その恋をちゃんと胸に刻んでお嫁に行くの。
想い出だけを大事に、
大事にしまっておいて、
ときどき、
ひきだしてはためいきつく、
そんな気持ち
あなたには分からないでしょう?」

「判ってたまるかよ。
もしその憧れの王子様がその娘に恋をしたら、
その娘は諦めるのか?
憧れって、なんなんだ?」

「憧れは、恋じゃないわ。
もっと崇高なもの。
そうよ、恋なんかじゃないわ」

やっぱこいつ
いまでもバカだ。

「もしもし、
頭だいじょうぶか?
片思いだろう?
それだって好き、ってことじゃないか。
好きなら、恋じゃないわけないだろう?」

「好きと、憧れる、
は別のものよ。
愛していると、恋している、
人を思う言葉は、みんな意味が違うの。
憧れるってことばは、そのなかでも、特別なの」

「もしもーし?
だいじょうぶか?
言ってる意味わかってるよな?
百歩譲ってそうだとしよう。
ならばその世界には
浪漫ってのは存在しないのか?
シンデレラは存在しないのか?
なわけねぇだろう?
ちゃんと浪漫はあるじゃねぇか。
憧れだって、
ちゃんと恋になるじゃないか」

「それはね、
もともと憧れじゃなくて、
恋だったのよ。
シンデレラには確信があったの。
王子様と出逢いさえすれば、
恋を叶えられる」

こじつけやがったぜ。

「もう一度、訊くぞ。
それが理由なんだな?」

「そうよ、だから、今でも、
想い出の中であなたは輝いているわ」

オレは電球かよ。

「判ったよ、
気を遣わせたみたいだな、
スマン。
もういいから、
早く帰れよ。
もう二度と会うことはないから」

「会えないの?
同窓会にも、来ないの?」

名簿から削除されてんのに
招待状がとどくわきゃねーだろうが。

「ああ、いかない。
永久に行くことはない。
これで、グッド・バイだ」

ちょっとだけ強がってしまったが、
ばれちゃいないだろう。

なんども振り返りやがって、
とんだラブロマンだぜ、
でも、
いつまでもこうして
見送ってやるよ。

後ろ姿、あんなに肥えやがって。
タプタプしてるじゃないか。
俺のハイビスカス。
真っ赤なビキニが似合っていた、
律子。
ちっちゃくって、ガリガリで、
すぐに躓いてばかりいた、
律子。

ちくしょう。

本当は、俺にだって、
判っていたさ。
おまえがどんな気持ちで
別れを切り出したのか。
あの涙が嘘だなんて、
俺は信じちゃいなかった。
律子、俺はたぶん、
いまでもお前が好きなんだ。
おまえだけが、
好きだったんだ。

おまえよりキレイな女はたくさんいたさ。
でも、おまえじゃない。
おまえじゃなければ、
駄目だったんだ。
律子。
あんなにお腹プヨプヨしてても、
皺だらけになっても、
オバサン臭くなっても、
亭主持ちでも、
子供が何人いても、
白粉がキモチワルイくらい浮いていても、
キレイになったよ。
ずっと、ずっと、
キレイになったよ。

美的さって
年齢じゃないってことを
教えられたよ。
おっさんも
負けてらんないな、
お洒落しまくらなきゃな。
見てろよ、
おまえがもっと
後悔するくらい
格好良くなってやる。

満月だったな、
朧月夜だ、
吐息だって
月色さ、
ためいきは
つかないぞ、
意地でも
つかないぞ、
冷たい川風が
吹きつけてきやがる、
寒くなんかねぇぞ、
そうさ
やせ我慢さ、
男は
我慢しなきゃーな、
雨でもふりゃ、
絵になるんだが
そうはいかないな、
そういうもんだ
二度目の失恋、
ばかみてーだけど、
妙に
誇らしいのは
何故なんだろうな、

さようなら、
オレの
真赤なハイビスカス。




あなたが
ここにくれば
答えはでる。

どちらかが
ここにこなこなくても
答えはでる。

どちらも
ここにこなければ
答えはでる。

どちらも
ここにくれば
答えがでる。




智と
愚と
希望と絶望にあふれた
真実の部屋には

もとめていた
答えがあるわけではない。

答えは
選択が生じたその刹那に
気付かないだけで
一緒にうまれている。

真実の部屋は
もうひとりの
自分であるかもしれない。

深淵に沈んだ
もうひとつの意識、
それは
あなたであり
わたしであり
あなたでもわたしでもない
もうひとりの
存在だ。




あなたの祈りは
あなたの苦悩は
あなたの不安は
風とともに
もうひとりが
舌打ちしながら
解きほぐしてゆくだろう。

その部屋を
あるものがこう呼んだ、
ホワイトロッジと。







「ねぇ、おばさん!!」

麗人がふりかえる。
洋風喫茶のテラスにしつらえられた
青銅のベンチに、
なつかしい顔が腰かけている。

「おばさん、ぼくと茶飲みに行きませんか?」

麗人は怒ったように
ぷぅと頬をふくらませ
無視しようとするが、

「おばさん、てれなくていいですよ、
ナンパなんか久しぶりでしょうに、
素直に、嬉しそうな顔してくださいな」

麗人はたまらずに失笑してしまった。

もう充分におっさんだった 
この
ずうずうしい彼のことを
27年前
知人が
こう喩えた。

「まるで怪物やな」




「夜空は何故、
灼熱の光で満たされていないんか?
宇宙が有限か無限かに関して、
H.W.オルバースが
1823年に提起した設問や。
宇宙が無限に大きく,
かつ天体の数の密度が
時間・空間的に一定やったら
空の明るさは
夜昼の区別なく無限大となるはずで、
夜空が暗いことは、
途中での光の吸収がないとすれば、
宇宙が有限であることの
証拠となるのではないんか。
実際には、
宇宙が無限でも
膨張のために光が到達する範囲は有限になり、
受ける光量も有限となるので、
夜空が暗くても
星間吸収や宇宙が
有限であることの証拠にはならへん。
180年経った現代でも、
この謎は解明されていないんやで」

深い夜空の下、
西宮、
川沿いの公園で、
子守歌を聞かされていた。

月に一度、彼は、
恋しい彼女の街を訪れ、
その公園で夜を明かす。
私は、彼に誘われて、
最初と2度目を付き合ったことがある。

記念すべき初回は、
自転車で行く。
大阪市港区夕凪から西宮まで、
ママチャリをひたすら漕ぐ。
体力を奪う長い長い坂を登り、
筋が悲鳴を挙げてもまだ着かぬ。
昼前に出発して、
到着したのは夜だった。
体力のなさには、
自信があった私達だ。
同行したもうひとりの友人は、
どうしようもないくらい
根性なしである。
何度も罷めよう、
戻ろうと提案するが、
怪物の意志は、
ステンレスのように固い。
おもしろいことに
紛糾した議論下において
無茶に思える強行意見は
必ず最後の最後で通ってしまう。
棘だらけの鞭のように、
それは、疲れた体を叱咤する。
化学物質名
2-ジヒドロキシフェニルエチルアミン、
つまりドーパミンを分泌、
前駆物質として
アドレナリンを脳に送り込み、
交感神経を刺激し,
心臓機能を亢進させる。
動かなかった四肢も、
麻痺したまま動き出す。

1時間に1度休憩しながら、
私達は目的地へ到着。
困憊した体を、
夜の河風に浸す。
疲れた四肢に、
茄子紺色の冷気がしみわたり、
そのまま、
河原へおりると
公園に向かい、
ベンチで横になる。
晩秋だった。
紅葉がほのかな焦げ茶色、
月にてらされ映える。
川面は妖しげに
蒼くゆらめき
夜空は
ためいきがでるほど
醒めていた。
満天の星空、なのだろう、
夜空には、
朦朧とした灯火が数点見えるだけだが、
きっと、あの空の彼方には、
いまだに解明されない
”オルバースのパラドックス”の謎が
得意げに実践されている筈だ。

怪物の講義が心地よく眠気を誘う。


怪物は、
中学生時代、とびきりの神童だった。
末は博士か大学教授と、
両親に期待された。
だが好事魔多し、
神童にも、苦手なものがある。
外国語だ。

「a、って、何やねん」

「aの過去形が、the、やろ?」

こんなトンチンカンな問いを、
大学入試験の終わったその日に、
訊くほどだった。
試しにアルファベットを言わせてみると、
言えないのである。
覚えていないのか?
この6年間、この男は
英和辞書をいちどでもひいたことがあるのか?
暗澹とさせられた。

理数系の才能は神童のまま順調に成長したのか、
高校進学は2番で合格したらしい。
英語さえ普通の成績が取れていれば、
北野だって大手前だって合格できただろう。

言い換えれば、
英語になじめないなにかが
かれのどこかにあったのだ。
それは一種の偏見と呼べるものであろうし、
端的な例をあげれば、
異性への異常な拘泥を示唆できるだろう。



恋とはなにか?
この単純だが難解きわまりない設問は、
神童にとって、
いかにしても解読できなかったらしい。

1+1=2であるが、
2でない状況もある、
この文科系に必須な思考の柔軟さが、
できない。
これは性格に致命的なよじれを与える場合がある。
絶対的であるものなど、
この世には皆無に等しいことが、
納得できないのであるから。

このような頭脳に、
人類最高の謎とされる
恋が
理解できるわけがない。

神童は悩み、
それを求めて実践する決意を固めた。
窮理を厭わぬ精神は
思考と行動が一致する
陽明学派に似た
希有な気性をもっている。
恋の実践、
ナンパだ。
ミナミや梅田に出ては
女性をひっかけ、
同伴喫茶やラブホテルに直行。
性体験が
ついに100人に達した。

だが、実践は
神童をして一層塗炭の苦しみに陥れしめた。
なぜならば、
恋とは、
ゆきずりに咲くものではなく、
欲望だけで萌えるものでもないからだ。

ぬぐいようのない
矛盾のただ中にある日々に懊悩とし、
受験があり、
身長が188センチまで伸び、
1年を経て
怪物と
私は出逢う。

最初に衝突があった。

事象に対する認識に
おおきな齟齬があるからだ。

美しいとは、
美しいという表現にあるのではなく、
美しい事象そのものが有している、
美しい事象は
しかし美しいままでいるわけではなく、
ときには歪み、
醜いばかりに変貌する。

それはおかしい、
と神童は反駁する。

美しいものはいかなるときも
美しくなければならないと云う。
まっすぐなものは決して歪まず、
変貌するものではない。
故に変貌する事象は、
そもそも美しいという価値がなかったと。

彼はこの世にまっすぐなものなどあり得ない、
ということを解せない。
歪んだ醜さは、
それそのものは
確かに美しさとはかけ離れたものだが、
角度も感性も立点を変えれば
おのずから多種多様となり、
内も外も右も左も表も裏も、
多角的な観点が生じ、
それぞれを観覧すると
醜さにも、
美しさに劣らぬ「美」が
必ずどこかに存在するものだ。
美の対局にあるものは、
醜であるが、
醜そのものもまた
「美」をもちうるからだ。

美醜は美的感覚だけではなく、
嗜好に左右されやすいからでもあるだろう。

つまるところ美とは
偏向するものなのだ。
偏向は
穢れである。
理科系は、
穢れを知らない。

一方文科系は、
そもそもが否定と疑問にはじまり、
その素養は
勤勉ではなく
自堕落という
甘味な毒に
全身どっぷりと浸からねば成長しない。
偏向などお手の物だ。
所謂、
思想を極めてゆくと不良と呼ばれる。
昔も今も変わらない。

詩藻に囚われたものは、
さらに「悪」の烙印を額に押される。
健全が社会の規範である限り、
詩藻を追うものはアウトローとなる。

怪物は、
徐々に、頑固な自我を緩めていった。 
  
単純でなんでもないことが積み重なると、
いつしか、おおごと、になっている。
変化とは、そういうものなのかもしれない。

彼は変わった。
確かに、変わった。
身を律し、慾を耐えた。
とりわけ、女性への
言い知れない偏見は影を潜めたようだ。

不良と噂され、
「悪」に分類される者のすべてが
犯罪者となるわけではない。

詩藻を追う不良達は、
世間が想像するほど、
自堕落でも不良でもない。
むしろストイックな場合もある。

通念とは容易に妬心に左右される、
なんの根拠もない
ただのいじめである場合もある。

世界中の人々を、
ひとつの通念で分類することなど、
不可能だからだ。

未成年で喫煙し飲酒していても、
困っている人を無視することはなく、
泣いている人を慰めずにおれない。

通念を盾に、
真理をねじ曲げて、
戦争したり弾劾裁判を起こしたり、
陰口をたたき陰湿にいじめる、
そんな連中こそ、
不良であり、
社会不適格者ではないのだろうか?

仕方がない、
仕様がない、
と諦めることは、
諦めずに抵抗し
抗議することに比べて、
正常なことなのか?
排他的なのはどちらなのだろうか。

青少年にとっての社会は、
晦渋に充ちている。

100人斬りの怪物は、
その姿を、人に似せて、
初めて恋をした。
遅い初恋だった。
初恋は27年も続いた。
その間、彼の種としての本能は、
抑圧され続けた。
身を律することは、
並の努力じゃなしえない。
不屈の決意を課せられる。

なにがなんでも、
初恋の相手を手に入れる。
何十年かかろうが、
何百年
(心意気の問題だから、不滅なのです)
要しようが、
諦めないと自身に誓う。
友人が次々と所帯を構えても、
親兄弟がうるさくても、
彼は、独身を貫き、
異性と距離を置いた。

そのまま夜を明かした私達は、
早朝、
登校する彼女を待った。
彼女が路地から現れる。
私達三人は、叢に隠れている。
なにしているんだ?
何故、彼女に会わない?
そのためにここに来たのじゃないのか?

しかし、怪物はまんじりともせず、
彼女をやり過ごした、
身を隠したままで。

……これで、いいのさ……と、
さも言いたげに、
自嘲めいた笑を浮かべ、
拳を握りしめながら。

325度目の訪問で、
彼はようやく彼女の前に姿を現した。

おばさんとおじさんに化して。

「驚いた?」

「驚いたよ、何してるの?」

「おまえを待っていた」

「いつから?」

「9865日と12時間前から」

「え?」

「許してくれとは言わない。せめて、
あの時、あのままのおまえに戻って、
答えてくれないか?」

「怒ってなんかいなかったよ、
あの時も。
あなたがどうしてあんなことしたのか、
あたしは分かっているつもりだった。
道化芝居だったんでしょう?
三人が本気でなかったことも解っているわ。
友人は本気で怒っていたけど、
直ぐ嘘だって見抜けたよ。
そんなに都合よく同じ日同じ時間に、
友達の彼女に告白するなんて、
ありっこないものね。
あたしの気持ちを確かめたかったんでしょう?
そうなんでしょう?」

「違う」

「違わないわ。なのに、どうして
そのあともう一度やり直そうって、
恥を忍んで頼んだのに、断ったの?
ねぇ、あなたは、
本当にあたしのことが好きだったの?」

「好きだったさ。いいや、
今も、大好きさ」

「嘘だわ。嘘じゃないのなら、
どうして断ったの?
拒絶したのよ?
あなたはあたしの恋を。
あたしはあなたを赦さないって
その時に決めたの。
もう、一生、赦してあげないって」

「それでも、俺はおまえが好きだ。
これは、天地神明に誓って、本当だ。
だから答えてくれないか?」

「いいわよ、何?」

「いったいいつになったら、
俺の気持ちを受け入れてくれるんだ?
それとも、もう俺のことなんか、
いい想い出にしてしまったのか?」

「いい想い出なんかじゃないわ。
辛い想い出よ。
忘れられない想い出よ。
口惜しくて、歯痒くって、
あなたを殺したいくらい憎んだわ」

「つまり?どういうことだ?
死ぬまで、俺は待たされるのか?
おまえは、死ぬまで寡婦を通すつもりか?
ああ、知っているさ。白状するよ。
俺はあの日から、毎月、ここに来て、
家を出るお前を見送っていた。
病的だよな。
27年間、毎月、
欠かさずに、見送っていたさ。
おまえが気持ちを受け入れてくれるその日まで、
黙って続けようと思っていた。
そんなこと、おまえは知らないだろう。
だから、おまえがあれ以来、
ずっとだれとも付き合っていないことを、
ちゃんと知っているさ。
なぁ、何故なんだ?
何故おまえは誰とも付き合わず、
俺も許さないんだ?
おまえのこの27年間って、
なんだったんだ?」

「あなたになんか、言われたくないわ。
あなたはどうなの?今も独身なの?」

「言っただろう、今もおまえが好きだって。
俺も、ずっとひとりさ」

「怪しいものね。
教えてあげましょうか?
あたしはあなたが毎月、
ここで隠れて観ていたの知っていたの。
驚いた?
あたしは鈍感じゃないわ。
あなたの視線だもの、
気付かないわけないやん。
あなたがいつ姿を現してくれるか、
27年もかかっちゃうなんて、
計算違いもいいとこ。
あなたって、とことん、常識外れやねんから。
あれ?驚いたの?
好意ってね、
見えなくったって、
かならず伝わるのよ
深ければ深いほどね」

「知っていたのか……」

「あたしがひとりでいる理由、
これで分かったでしょう?
あたしも、あなたが、ずっと好きなのよ」

「え?嘘だろう?なら」

「ダメよ、赦さないんだから。
死ぬまで赦さないって、言ったでしょう。
あれも嘘じゃないんだから」

「やり直せないのか?」

「ええ、やり直せないわ」

「ずっと?」

「そう、死ぬまでね」




ふたりはそれで別れた。
彼の「何故は」、
疑惑の判定だが、アウトに終わった。
それから、更に年月が過ぎて、
2005年、1月15日、
彼は、
欠かさず積み重ねた西宮訪問が350回目になった日、
再び彼女の前にその姿を現した。

「オバサン、ねぇ、そこのオバサン」

「もう、怒るよ、何がオバサンなのよ。
お姉さんって呼んでよ」

「もうオバサンだろう?嘘はいけない。
オバサン、このオジサンとお茶でも飲みませんか?」

「なに?ナンパしてるの?」

「変なオバサンだなぁ。
お茶飲もうって誘われて、
それ以外になにがあるんだ。
ナンパです、
正真正銘
ナンパです。
ねぇ、オバサン、
あなたに一目惚れしました。
お願いですから、
この気持ちを受け取っていただけませんか?
オジサンだけど、
白髪も増えて
皴もこんなに増えたけど、
オバサンを慕う気持ちは、
保証するよ、
永遠だから」

「本気なの?」

「ああ、本気さ。
俺がどれだけおまえを慕ってきたか
教えてあげようか?
え?知りたい?
ならば、教えてあげよう、
9億1千と
6百6拾1万
7千6百秒間、
ずっと思い続けてきましたよ」

「もういっぺん、訊くわよ?本気なの?」

「本気です。オバサン、俺と付き合ってくれますか?」

ふたりは出逢をやり直し、
28年ぶりに交際をはじめた。

          
  ”おれはやっぱりデカくて醜いウスノロの怪物や”

                シュレックのつぶやき。

  シュレックは、
  お姫さまと結婚できましたね。

オルバースのパラドックス、
現在では、
そのために必要な距離や
時間あるいは星の密度は、
実際の宇宙の大きさ・年齢・密度より
およそ10兆倍も大きなものとなることが
明らかとなったため、
パラドックスの前提は
成立しないことがわかっているのです。

つまり、

夢は
夢のままで
けっして終わりはしない、
ということなのだろう。