そのころ僕は
 神戸のホテルの
 120部屋ある
 建具の入替を
 もう7日間
 泊まり込みで工事していた。
 1987年12月24日
 クリスマスイブ
 その日は
 予約がいっぱいで
 久しぶりに大阪に戻る予定だったが
 団体客のキャンセルが出て
 7部屋だけ建具を吊り込むことになった。
 同僚はせっかくのイブ、
 家族と過ごせなくなった不満をタラタラ
 吐いてはいたが、
 大工なのだからと
 黙々と蝶番を彫り込んでゆく。
 工事は12月25日、
 予定より2日早く終わり、
 深夜、
 阪神高速神戸線から
 環状線を乗り継いで
 喜連瓜破でおり、
 同僚を自宅へ送り、
 今里通りを縦貫して
 森小路の我が家に
 帰った。

 久しぶりの家には、
 真っ暗で、
 明かりをつけると
 微かな懐かしい香りと
 真っ白な埃が舞った。
 お腹は空いていない。
 喉も渇いていない。
 眠くもない。
 風呂にでも入ろうか、
 まずはテレビをつけて、
 音量は落とし、
 ステレオのスイッチを入れる。
 鬼束ちひろの
 ビューティフルファイター。

  Sister.Low 無差別にひとしい真似より
  意味深な教えをからだで悟って
  少しニヒルに

 重低音のきいた旋律が
 疲れた四肢を震わせる。
 ふと窓を観る。
 いつも踊りだす影は映っていない。
 ふっ、
 溜息交じりの自嘲ひとつ、
 ドラムの連打に消えていった。

 珈琲を入れる。
 モカマタリはもう湿気てるだろうが、
 構わずに淹れた。
 香りが薄い。
 砂糖をたっぷり入れて、
 牛乳がないから、
 そのまま
 マグカップに銀のスプーンを突っ込み、
 黒褐色の渦をおこす。
 匂いがさらに立ってくる。
 飲みながら、
 ブルゾンの内ポケットから
 ラークを取り出して
 Gパンの右ポケットから、
 蝶番の緩んだ
 スターリングジッポーを握って
 火をつける。
 弱々しい炎の揺れのさなかに紫煙がたちのぼる。

  帰ってきたよ。

 いないはずの相手に
 心の中で挨拶する。
 ふっ、
 悪い癖になっていた自嘲が、
 また出てしまった。
 曲は
 惣領智子の
 終わりのない歌。
 
  夕べは淋しさにふるえて眠って夢を見た。
  もつれた糸のようにあなたと私と誰かと。
  過ぎ去れば想い出になる。
  今をちょっと耐えれば
  私はここにいるわ、いるわ。

 なんでこんな悲しいメロディが好きなのか、
 あいつの趣味にはいつも戸惑ってしまう。
 
 妻は、
 その年の秋
 静かに逝った。
 最期まで
 夫の心配ばかりして、
 気丈なまま意識を失い、
 そのまま逝ってしまった。
 覚悟していたとはいえ、
 絶望という文字を
 どれだけ飲み込んだだろうか。
 その日から、
 日常は
 幻の中に沈んでしまった。
 何をしても
 何を考えても、
 何を見ても、
 何を聞いても、
 虚ろだった。
 時は止まったまま、
 心は仮死状態のまま
 想い出が津波のように
 押し寄せてきた。

 『大丈夫じゃないけど、
 心配するな、
 俺は元気だぞ』
 
 いるはずのない
 妻に告げる。
 
 さて風呂に入ろう。
 もう一度
 鬼束ちひろだ、
 リズミカルな脱衣で、
 たっぷり湧いたバスタブに身を沈める。
 バブルスイッチオンにして、
 泡風呂、
 何気に気持ちいいのは、
 数千もの泡が割れる瞬間の
 空気なんだろう。
 壁にしつらえた、
 防水の本棚から
 読みかけの本を選ぶ。
 
  天才と狂人の間。

 夭折した島田清次郎の物語だ。
 貧しい金沢の青年が、
 原稿用紙も買えずに
 新聞広告の裏にせっせと書き溜めた小説を、
 当時文壇の重鎮だった大作家に送りつけた。
 返事がない。
 作品には絶対的な自信があった。
 手に取り読んでくれさえすれば、
 いかな大作家といえども、
 感動の余り
    必ず連絡してくるはずだと確信していた。
 しかし連絡は来ない。
 来る日も来る日も、
    半年が過ぎ、
 彼は粉雪の中を郵便配達している。
    倨傲極まりない自負さえ
    揺らぎ始めた。
 絶望とは希望とは何なのか
 読者は考えさせられる。
 ついに連絡は来た。
 手紙の中、
 文字が躍っている。
 曰く、私はドストエフスキーを発見した
 先輩作家の気持ちでいる、と。
 彗星のように文壇にデビューした彼の作品、
 地上は
 ベストセラーとなった。
 しかし
 これが頂点だったと
 彼はきっと
 感じはしていない。
 まだだ、まだだと
 命を削るように
 彼は執筆してゆく。
 何作か発表したのち
 彼には人として肝心な何かが欠けていたことが
 明るみにで始めた。
 それは彼を推薦した大作家はおろか、
 母親でさえ
 気づかない狂気だった。
 彼はそれから次々と破廉恥な刑事事件を起こし、
 文壇から石もて追われる。
 発狂ののち、精神病院に収容されて、
 静かに死んでいった。
   金沢の近代文学館で
   彼の写真を観たのは
   20歳の頃だった。
   彼の瞳には白い星が煌めいていたと
   文中にあったからどうしても
   確認したかったのだ。
   星はあった。
   しかし煌めくというより
   寧ろ寂しげに見えるほど
   か細く暗んでいた。

 長風呂しすぎた。
 体を拭いて、
 パジャマに着替え、
 ビールでも飲もうとキッチンに行くと、

  あなたの部屋の前座り込んだら、
  なんて静かなの、
  恋の入り口みたい。
  私に生まれたこと感謝できたら
  あなたはいつだって
  抱きしめたくななるのね。
  どんな風に
  扉は開くのだろう。
  どんな風に、
  夜は終わってゆくのだろう。
  ただ泣きたくなるの、
  好きだから、好きだけど、
  いつも胸が、
  恋よりあたたかい温もりをあげたい、
  忙しいあなたに。




 中山美穂?
 こんなCDあったかな。
 にしても、
 誰がかけたんだ?

 居間に戻るとどうだろう、
 透明ガラスの三脚テーブルの上、
 苺のケーキ、
 8本の蝋燭が灯っている。
 傍らには七面鳥が真ん中、
 エビやホタテのフライや
 ローストビーフに
 ポテトフライが盛り付けられた、
 豪華なオードブルと、
 ドンペリとシャンパングラス。
 カウチソファーの上には、
 パルコの紙袋。

 蝋燭の火を吹き消すと、
 大気の中に幽かな残り香が。
 シャネルのアリュールだ。
 小粋な悪戯の主が判明した。
 紙袋にはクリスマスカードと
 生成り色の
 フィッシャーマンセーター。
 カードを啓くと、
 
  『メリークリスマス
  いつまでも落ち込んでんじゃーねーぞ
  元気出してね
  大好きなパパへ』

 小憎らしいやつだ。
 もう帰ったのだろうか、
 部屋を出て、
 廊下の先、
 エレベーターはまだ一階についていない。
 ここは17階。
 急げば間に合うか。
 パジャマのまま、
 非常階段を駆け下りる。
 一階だ。
 エレベーターはまだ2階。
 間に合った。
 キンという金属音と共に、
 扉が開いた。
 
 可愛らしいサンタクロースが乗っている。

 「一緒に食べへんのか?」

 「連れ待たせてるから、驚いた?」

 「ああ、びっくりしたよ、合鍵持ってたんか?」

 「うんショーシさんに借りたよ」

 「その仮面、ミニスカートのジジイやで、ちょっとした変態やないか」

 たっぷりとした顎髭に、真っ赤な肌、サンタクロースの仮面だった。

 「変?」

 「ああ、変や」

 「じゃ、脱ぐね」

 薄化粧した美少女が現れる。
 自慢の娘だった。

 「パパ、寒くないの?」

 「ああ、階段駆けてきたきたからな」

 「早く帰って、全部食べてね」

 「ああ。ありがとうな、プレゼント今度渡すわ」

 「あてにしないで待ってる、早く部屋帰ってね風邪ひくから」

 エレベーターに乗り込み扉が閉まるまで、
 娘は満面の笑顔で見送ってくれた。
 満ち足りた瞬間がずっと続いた。

 エレベーターの扉が閉まって昇り始めても、
 娘はしばらくその場を去らなかった。
 やがて、

 「いつもあなたと一緒よ」

 そう呟くと、
 可愛らしいサンタクロースは
 振り返りながら、
 さらに仮面を脱いだ。

 そこには
 死んだはずの彼の妻の顔があった。
 仮面の下の仮面、
 彼女はいったい何者なのか、
 彼女の頬を流れ落ちた
 一粒の涙には、
 真っ赤な衣装が映えていた。
 
 やがて街に
 夥しい鈴の音が響くと、
 8頭のトナカイに曳かれた橇が
 降りてきた。
 彼女はゆっくりと乗り込むと、
 鞭を一閃、
 橇は夜空へ飛び立っていった。
 
 
  
 
  
 
 




いくつぐらいだったのだろうか。

雨は既にふりはじめていたのに、
きっと、不器用に梯子を伝って、
屋根の上にのぼり、
シャボン玉をとばしていた。
吹き出されたシャボン玉が、
いきよいよくとび、
雨と風に桾(ふし)染されてゆく。

オキナワの民家は大抵が平屋だった。
下では、私の名前を呼んで探している。
いつものことだと、なぜ諦めないのか。
抛っておいてくれればよかったのだ。

こうちゃ~~ん!!
こうちゃ~~~~ん!!!

返事なんかしてやるものか。
恐いものなんてなかった。
暴風も、豪雨も、
ともだち。
雷様は、
親友だった。
  
からだがいくら濡れたって、
気にならなかった。
濡れた瓦はよく滑る。
それがどうした。
滑って落ちたら、
それまでのことだ。
落ちる不安にさらされながら、
危ないことする奴はいない。
落ちる不安なんて全然ないから、
あぶないことができるんだ。

ガジュマルの樹が咆哮してる。
この樹には、死人の魂が集うという。
闇夜の午前零時、
魂が妖しく蔓や木肌を赤錆色、
ほのかにまぶくという。
見たことはない。
でも、抱きつくと、
冷たい。

「おまえは、ひとりじゃないんだね?
おともだち、たくさんいるんでしょ?
ぼくは、いつもひとりさ。
こうしておまえに抱きついていたって、
ひとりなのさ。
つまらないよね。
だから、おまえのともだちに逢わせてよ。
おねがいだから、逢わせてよ。
なかには、ちいさな子供だっているんでしょ?」

「約束通り、
おまえの好きなシャボン玉とばしているよ。
さぁ、おまえも、約束守ってよ。
おまえのおともだち、逢わせてよ」

私は、独り言をよくする子供だった。
咎められることもあったが、
どうしていけないことなのか、理解できなかった。
言葉は、相手がいて使うものだって理屈が、
どうしても飲み込めなかった。
  
言葉は、自分のものじゃないの?
自分のものを、自分がどう使ったって、
構わないんじゃないの?
僕は、
僕だけのための言葉しかもっていない。




瓦がかたかた鳴り出した。
私を空へ舞いあげようと
突風が大地から立ち上がって来る。
横殴りの雨に、
眼を開けていられないけれども、
僕は、ガジュマルをずっと見ていた。
蔓が風に巻き上げられ、
封じ込められるように雨に包まれて、
ちぎれて、はじかれる。

痛いかい?
痛いよね?
おひげはおまえの心のヒダだよね?
心が千切れてゆくって、
どんな感じ?
それは、とっても寂しいの?
それはとっても、やるせないの?
教えてよ。

僕のこの胸の痛みと、
おんなじかい?

雨雲の真ん中に雷雲が拡がった。
ぴりぴり、怒ってるみたいに、
じぐざぐの光が点滅してる。

雷さん、落ちてくる?
落ちてくるなら、
僕に向かっておいで!
おまえの光で、僕を焼け尽くしてよ!!

光の枝がどこかに落ちた。
つづいて、音がとどろく。
変な感じだ。
音って、どんくさい。

もうひとつ、落ちた。
綺麗な光の枝条、
見知らぬ電磁の世界の王様さ。
あらゆる音が、かしずく。

だんだん近づいてくる。

いよいよ、僕だね?
僕に落ちてくれるんだね?
もう、天使は要らないよ。
扶けてくれなくったっていいよ。
しびれて燃えるって、
どんなんだろう。

胸は高鳴り、
血と肉は踊り、
意識はいちじるしく放電する。




だけど、落ちたのは、
僕の大好きなガジュマル君だった。
激しい閃光で眼が一瞬眩んで、
べきべき、避ける音、
そして音と同時に、
真っ赤な焔が翔んだ。

その時だよ、
ガジュマル君は約束を守った。
  
べきべき音をたてながら、
折れたその裂け口から、
数千もの丸い光るビー玉が
空に舞い上がってゆく。

おともだちだよね?
君たち、どこへゆくの?
空へ帰るのかい?
ねぇ、こんにちは、
僕は、こうちゃんっていうんだ。
知ってる?
僕も、おねがいだから、
連れていってよ!!

つれないね。
一緒にはいけないんだね。
じゃ、君たちに花を贈るよ。
石鹸の泡だけど、
シャボン玉っていうんだ、
綺麗なんだよ、
虹色にかっこいい円を描いて、
ふわふわさまようんだ。
ほら、こうだよ。
ほら、たくさん飛んでるだろう?
嬉しいのかい?あ、嬉しいんだね?
だって、あんなにくるくる回ってる。

さよなら、死人たち、
さよなら、大好きだったガジュマル君。
さよなら、さよなら、さよなら!!

しばらくのち、
救い出された私は、叱られることもなく、
翌日、違う家に向かって旅立つ。

今度は、
どんな人がパパとママになるんだろう。

 シャボン玉とんだ
 屋根までとんだ
 屋根までとんで
 こわれて消えた。

 
  本当を言えば僕はおそろしいくらいです
  すぎた夏、僕の心をとりこにした
  うれしい恋に自分の生活が
  いまではあんまり深入りしているので、
  
  そんなにまであなたの姿が
  すべてあなたのものである心の中に住んでいる
  僕の心はあなたを愛し
  あなたの気にいることよりほかは
  何も思わない。

  そして僕はわななくのです、
  こんなにあけすけなものの言いようを
  あなたの言葉ひとつ微笑みのひとつを
  思い出すだけで
  それが僕の掟です。

  あなたの身ぶりのひとつ
  まばたきのひとつ
  言葉のひとつで充分です
  僕の心の奥にあるこの天国の夢を
  かなしい喪の心に変えるにも。

  しかしそれにしても
  そのために僕の未来が暗くなり
  苦しみが多くなるかも知れないのに
  大きな希望を通さずに
  僕はあなたを見ようとは思わぬのです。

           ヴェルレーヌ
  





 3章

  臨済宗南禅寺派の修業道場である京都円光寺は、

  紅葉が見事なのだそうだ。

  同じ地名をもつ町をさらに南へ下ると、

  山科という聞き慣れた町に着いた。

  ここか?

  頬を腫らしたマデラがうなずいた。

  ひところ流行った2階建ての鉄骨モルタル造りのハイツだった。

  1フロアに6室、

  全部で12部屋の扉がふたりに向いていた。

  どの部屋だ?

  2階の右端の部屋です。

  視線で確認し、

  建物の両脇にある階段の左側からのぼる。

  訝しげなマデラの表情に、

  男は小声で応えた。

  足跡で、気づかれるだろうが。

  部屋の前、

  山下という木彫りの表札がかけられている。

  あいつが彫ったやつだ。

  昔から俊男は手先が器用で、

  版画が得意だった。

  あいつは、ここまでちゃんと着ていたんだ。

  チャイムを2度鳴らし、

  数秒後に、もう一回鳴らす。

  それが合図なんだろう、

  しゃらくせえやつらだ。

  男は声に出さず、

  扉の吊り元側、右に移動した。

  ドアチェーンをはずしていないのだろう、

  10度の角度しか開かない。

  「まぁどうしたのその顔!! 」

  なつかしい声がした。

  この扉の向こうにその声の持ち主がいる。
 
  とうとう見つけた。

  せきまえに閉じられた扉が今度は90度に開いた。

  「みよちゃんごめん」

  マデラが女に告げた。

  女は傍らに立つ男に視線を奪われ、膠着した。

  あ、麻倉・・・・・・。



  相変わらず分量の目利きが下手な女のたてた

  どろどろの珈琲が、卓袱台に運ばれた。

  中央に濃紫・黄・白の斑を

  ばらまいた三色スミレが萩焼の花瓶に挿され、

  ふたりとひとりをわけていた。

  6畳の居間だろうか、

  畳は真新しいが、

  家具がなにもない。

  窓から西日が差し込んで、視界が暗かった。



  
  山下美代子、

  45になるのにまだその美しさに陰りがない。

  目元の隈が所帯の辛さを浮き彫りにしているようだが、

  白磁器のような肌は健在だった。

  男が彼女と最後に会ったのは、

  1年前の京都だった。

  娘の部屋を探しにきたついでだったか。

  伊勢丹の進出に合わせて大改装を行ったJR京都駅、

  贅沢過ぎるほどの空間をおしげもなく使い果たしたような、

  長い長いエスカレーターに乗ると、

  空に浮かんでゆくような錯覚に陥る。

  昇りきった屋上に、

  山下美代子が立っていた。

  麻倉さん、少女のようだ、と男は女の声を

  眩しい印象とともに上書きした。

  
  「さやちゃんは気丈に暮しているよ」

  男がはじめて声をかけた。

  「元気にしてる?あの娘、料理なんかできないから」

  「元気だ、ときどき、電話が来る」

  鎖骨が目立つほど痩せた。

  痩せたら印象がガラリと変わることがあるが、

  幼馴染だ、

  見間違うことはない。

  青みがかるほど白いその顔は、

  陽を背にうけながらなおも白い。

  影まで白んでいるということだ。

  男は、目のやり場に困るように、

  壁の傷跡を見つけた。

  数ヶ所、右上から左下に3本の深い引掻き傷。

  床のフローリングにも、同じ傷があった。

  爪か?

  そのときだった、

  沈黙してうなだれていたマデラの様子が気味悪く笑い出した。

  ひっひっひっひっひ・・・・・。

  肩が震え出す。

  細かく左右に揺れたかと思うと、

  激しく上下に振動しはじめた。

  麻倉帰って!!

  女が叫んだ。

  少女の叫びだ、しかし、その音色は、

  真摯さにまみれている。

  「みよちゃん、どうしたの・・・・・」

  二の句を継ぐ瞬間だった、

  山根が急に立ち上がった。

  だが、その背丈は山根じゃない。

  その影も、山根じゃなかった。

  逃げて!!!!

  美代子が叫ぶのと同時だった、

  マデラの影がさらに膨らんだ。



  
  世阿弥の能にも記された妖かしがいた。

  源頼政が紫宸殿上で討ち取った、

  頭は狸、尾は蛇、手足は虎、

  声はトラツグミに似た妖かしも、

  同じ、

  鵺(ぬえ)と謂う。

  妖かしとはいえ、ひどい描写だ。

  ひとではない形相に、ひとではない体躯、

  ひとは変化(へんげ)しないと

  信じられているうえでの剪定(せんてい)だろう。

  きつねつきの女の形相を観たことがあるだろうか。

  ヒステリーの一種だと解説されても、

  にわかに信じられないほどの変貌ぶりだ。

  その顔は、きつねそのものだからだ。

  情に偏執した顔は、どうだろうか。

  憤怒の顔、それも、違うのだろうか。

  ひとは、心の顔をごまかせない。

  感情が激すれば、なおさらだ。

  純粋な意味で、ポーカーフェイスなどありえない。

  心の起伏は、その肌にまで現れるし、

  吐息にまでこもる。


  
  訥々怪事。


  ひっひっひっひっひ、

  マデラの呼吸補助筋の強直性痙攣

  (つまり、しゃっくり)

  めいた声が止まった。

  「やりたい放題、やってくれたよな」

  その声は、マデラの声ではない。

  「マデラさんやめて!!! 」

  女が絶叫する。

  麻倉は、異様な圧迫をマデラの影から受けていた。

  影をとりまく大気が圧縮されて

  飲み込まれるような、

  異様、と形容したい緊迫だった。

  がちゃり、がちゃり、

  と重厚な金属音が2度響いた。

  影の形容が変わっている。

  手だった部分が、

  鋭い鉤爪をはやした熊手のようだった。

  こいつはいったいなんだ、

  麻倉は瞬時に攻撃を予感した。

  「あいつもはじめは威勢がよかったぜ」

  「おまえ俊男に何かしたんだな? 」

  「おなじところへ送ってやるよ、感謝しな」

  「殺したのか?

  みよちゃん、そうなのか!! 」

  「逃げて麻倉!! 」

  一瞬男の気がそれた。

  虚の間は、容易に危機をさそう。

  影の爪が右から飛んできた。

  寸前でよけた、

  つもりだった。

  だが、爪は男の衣服と胸の肉片を奪い去っていた。

  あの鉤爪は、のびるらしい。

  まいった、

  避けようがない。

  かっと熱くなる胸にを抑えると濡れている。

  血が噴き出ているらしい、

  それを確認するひまはなかった。

  じわじわと、

  死を予感させられる間合いがつめられる。

  あの手の内側に飛び込まない限り、勝機はない、

  覚悟を決めた男は、左に跳んだ。

  化け物の影がそれを追う。

  男は跳ぶと同時に、右に跳躍した。

  影に肩をぶつけ、その頭部を両手でわしづかみ、

  頭突きを鼻らしき箇所に3度いれた。

  ぐしゃり、と骨のつぶれる音がする。

  そのまま襟らしき箇所を両手でにぎり、
 
  背中を胸に合わせ、しゃがむように、腰に乗せた。

  背負い投げ。

  影が鈍い轟音をたてて床にたたきつけられた。

  受け身は取らせない。

  たたきつけたのだ。

  しかし、投げられながら影は、
 
  腕を一閃させて男の腿を裂いていた。

  ひるまぬ麻倉は、

  顔面に蹴りをいれ、

  めまいをこらえながら

  肘打ちをつづけて落とした。

  抵抗されては、負ける。

  男は、2度、3度と、

  肘打ちを入れる。

  どこにいれているか、

  実は感覚がない。

  なんとかなりそうだ、

  そう思った瞬間だった、

  後頭部を衝撃が貫いた。

  がしゃん、ばらばらと、

  砕けこぼれる鈍器の音が衝撃を押した。

  ”なにするんだ・・・・・・ ”

  ふりかえった男の目に、

  泣きながら佇む美代子が見えた。




  
  懈怠(けたい)の内に巣くうものは、

  どこからやって来たのだろうか。

  女は、幸せではなかったのかもしれない。

  幼馴染の夫と娘たちがいて、

  家があり、親族がいた。

  魔が差したのだ、とは、とても思えないくらい、

  その熱波は衝撃だった。

  量子力学で、

  空間の中に有限の拡がりをもつ波動関数のことを、

  波束(はそく)とよぶ。

  この波動関数が代表する粒子は、

  空間のその有限の部分でだけ存在の確率を有し、

  粒子のおおよその位置が

  この部分の中にあることを示す。

  われわれは、有限の世界で生きている。

  

  そう、

  なにげないひとことから、

  すべては、はじまった。

  女がマデラと知り合ったのは3年前だった。

  衝撃は直線でやってこない。

  波である。

  波動を少しづつ受けて、

  やがて、堰が切れるように、

  心を一変させるほどの

  つみかさねた事実をつきつける。

  どの時点が波の頂点で、

  どの時点が底部なのかは、関係ない。

  事実、つまり、

  「愛情」を自覚する時点が、

  最後の最後の、瞬間だ。

  面白いものだ、最後の瞬間が、

  同時に愛情の発露の瞬間なのだ。

  女はマデラに頻繁に逢った。

  逢い、抱かれ、なにもかも忘れて、

  磁気嵐のような情感に身をまかせた。

  この時間があれば、自分は、生きてゆける、

  とまで、確信する。

  家に帰れば現実が待っている。

  ならば、これは、夢実なのだと確信する。

  それから3年、

  女とマデラの不倫は続いた。

  いつから俊男が知ったのかは

  分からない。

  二人の関係がこれまでと

  どう違って行ったのかも

  判らない。

  麻倉が解るのは、

  美代子が家出し、

  それを追った俊男も失踪したという、

  事実だけだった。

  

  ある種の女にとって、

  過酷な現実には

  代償が必要だった。

  身近で即応できるほど好ましい。

  男はごまんといる。

  だれでもいいわけではないが、

  女の嗜好は

  存外うるさくない。

  優しい、それだけでもいいくらいだった。


  女の

  話があるには

  ろくなことがない。

  相談されるのがそもそも

  億劫で面倒くささが先に立つ。

  幼馴染とはいえ、

  心地いいものでははなかった。

  京都駅、

  「麻倉、元気だった?」

  少女の声だった。

  このまま年老いて、

  こんな声だいじょうぶなのか?

  要らぬ節介やきたくなるくらいだった。

  だからといって、興味を抱いたわけではない。

  麻倉の感情はそれほど短絡ではない。

  女には、そうなるためのなにかが、

  欠けているように思えた。

  俊男も同じことを感じているのか聞いていなかったが、

  一筋縄じゃいかない印象を強めた。

  腹蔵のない女は、こういった接近を好まない。

  窒息、糜爛(びらん)、

  血液ガスに襲われたような即効性はないが、

  覚醒剤などの麻薬系でもない、

  しかし、染まれば、

  身を滅ぼすであろう危険な匂いがした。

  少女が、みずからを少女と思わないように、

  悪女は、自分を、悪女だとは思わない。

  俊男は、からめ捕られるように、

  街から消えた。

  ふたたび連絡が来た時、

  声の変わりように驚いたものだ。

  なにかが起こる、

  麻倉はそれを危惧していた。

  こういう予感は、いやなことに、よく当たる。


  俊男から最後の電話が来た時、

  麻倉は彼を止めなかった。

  ひとりで行ってこい、

  そう背中を押してあげたつもりだった。

  そうしなければならないし、

  そうしなければいられない筈だからだ。

  だが、

  俊男は、消息を絶った。

  消えた女を追うように、俊男も消えた。

  女の家族に会い、

  女の友人達を軒並み訪問して得た情報をまとめると

  マデラ、という名前が浮かび上がる。

  普遍の恋は、不倫に負けた。

  現実が夢に敗れたのだ。

  それを俊男に言ってやりたかった。

  選ばれなかった恋は、

  紙屑以下だ。

  拠所になりはしない。

  それまで築いた全てをおまえは喪失したのだと。

  だが、激昂もせず、

  話をつけるてくる、

  そうしなければならなくなった、と、

  決意の程を聞かされて、

  麻倉は何も言えなくなった。

  恋愛に騙し騙されたはないと、

  人は言う。

  だが、麻倉は傍観者の立場に立っている。

  彼にとって、敵か味方か、

  そのふたつがあるだけだ。

  一歩でも敵の陣地にいるものは、

  敵とみなす。

  ややこしいのはごめんだから、

  揉事はシンプルにしなくちゃいけない。

  やるかやらないか、

  我慢できるかできないか、

  それだけでいい。

  麻倉は、動いた。

  マデラが、

  この失踪の中心にいることは分っている。

  だが、動機が解明できなかった。

  マデラにも家族がある。

  俊男から女を奪ったとしても、

  女を家族以上に愛せはしないのだ。

  マデラにとっては、適度の距離を保つ、

  それまでの関係が、都合いい。

  逢いたいとメールに書けば、

  女は会いにくる。

  抱きたいと書いただけで、

  女は抱かれにくる。

  それで、良かったはずだ。

  だから3年も続けられたはずなのだ。

  女の気持ちなんて、分りたくはない。

  どろどろした情念なんぞごめんだ。

  マデラの意図はどこにあったのだ?

  どういうつもりで女に接近したのか、

  あるいは、

  どうして女が

  マデラを選らばなければならなくさせることができたのか、

  麻倉は、それを確かめたかった。




  北陸鉄道石川線どうほうじ駅と県道157号線に挟まれた

  安養寺に不当たりを出して閉鎖された小さな町工場があった。

  債権者たちによって、機械は運び去られ、

  残されたものは、

  塵埃(じんあい)と、錆びた螺子(ネジ)、

  年代物の薄いモルタル床の亀裂の錆色と、

  埃だらけのスレート壁だけだった。

  人のいない建造物は、老いる。

  まるで、吸収する人間がいないために、

  自由自在に立ちこめる澱んだ気が、

  異臭とともに内部を侵食していくかのようだ。

  スレートの留め金具の隙間から、

  陽光が差しこみ、モノクロの埃を映しだす。

  気がつくと、後ろ手に縛られていることを知った。

  麻倉は、ここに運び込まれた記憶がなかった。

  身動きしようにも、

  ご丁寧に、両足まで縛っている。

  誰もいない。

  少なくとも、一晩はここにいたのだろう。

  後頭部に激痛が走った。

  裂かれた胸と脚は治療してある。

  女がどうしてあんなことをしたのか、

  それほどまでにマデラを庇いたいのは、

  失踪された理由に基づくのだろうか。

  考える時間はたっぷりありそうだ。

  意識に霞がかかり遠のくさなかに、

  麻倉は女の顔を見た。

  俊男もこの顔を見ただろう。

  裏切る顔は、醜い。

  愛するものの裏切る顔は、

  まして、醜悪だ。

  俊男はその顔に絶望しただろう。

  女の目尻の隈が、その顔を決定づけた。

  悪女とは思わない。

  これがもしかしたら女と言う種族の「素」なのだ。

  俊男は昔から女にもてた。

  少しだけワルで、たまらないほど優しい接し方に、

  容貌が加味されて、女達は夢中になった。

  その俊男をしても、女を御しきれなかったのだ。

  マデラがそれほどいいのか、

  3年の歳月は、それほどの価値をもつのか、

  女にも答えられないだろう。

  車が停車する音がして、エンジン音がやんだ。

  がちゃがちゃと、鍵だろうか、施錠を解く音が響いた。

  音にも、埃たちは、反応する。

  こころなしか、咳を誘発された。

  開け放たれた通用口に、人が立っていた。

  逆行でシルエットから女だと認められる。

  影が近づき喋った。

  「どうして麻倉が来るの?

  来ちゃいけなかったのよ。

  あなたまで犠牲にしたくなかった」

  美代子が抑揚のない声でしゃべった。

  「俊男をどうした?」

  「知らない方がいいわ」

  「生きているんだろうな?」

  「それも知らない方がいいわ」

  「君も共犯なのか?」

  「変な訊き方ね、共犯?

  まるであたしたち犯罪者みたいじゃん」

  「じゃ、俊男は生きているんだな?」

  「あなたにも同じところへ行ってもらうわ」

  「どこだ?」

  「そんなに知りたい?」

  「ああ、知りたいな教えてくれ」

  女は白衣を着ていた。

  ナース服だ。

  右のポケットから注射器をとり出した。

  「麻倉は、なにもない世界って好き?」

  なんのことだ?

  「いまから案内してあげるわね」



  意識とは、

  脳の単一部分が働いて起動するものではなく、

  複数の部分が同時にネットワークでつながってこそ

  発生する事象だといえる。

  意志とはすなわち、

  ネットワーク上を流れる電子である。

  感情もまた、

  記憶から干渉を受けた

  電子の停滞である。

  麻倉の危機一髪、

  それを阻止したのは、

  ひとりの少女だった。

  「あいかわらずわけわかんないことやらかすね、ミヨ子」

  

  




大河がありました。

サソリが向こう岸へ
渡ろうとしています。

ですが
サソリは泳げません。
悩んで右往左往していると、
狐がやってきました。

「キツネさん、
私を向こう岸まで背に乗せて
くれませんか?」

狐はきつい顔で応えました。

「おまえを背中に乗せる?
莫迦言っちゃいかんぞ、
おまえは俺を刺すだろう」

「いいえ、絶対に刺しません、
お約束します。
私はどうしても
向こう岸まで行かなくてはならないのです」

サソリは必死で頼みました。
狐はサソリの約束が
信じられません。
サソリの毒で彼の仲間が
何匹も死んでいたからです。

「いや、信じられない」

そう冷たく言い放ちました。

サソリは悲しげな表情を浮かべて、
何事かを決意したかのようにこう云いました。

「信じられないのなら、
今から私の脚を切断してください」

そして一本の脚を
自分で折り
狐の前に放り投げました。




「おまえそんなにしてまで向こう岸に行きたいのか?」
「はい、どうしても行かなくてはならないのです」

狐はそれから長い間思案していました。
そして、
「おまえの覚悟を知った以上、
おまえの約束を信じよう」

狐はサソリを背に負い
河に入りました。
河の中ほどまで泳いでいると
背中がチクリと何かに刺された痛みがありました。

「おまえ、どうしてだ、
約束したじゃないか、
俺が死んだらおまえも河に沈むんだぞ、
おまえの目的も果たせないじゃないか、
何故おれを刺したんだ?」

急激に薄れゆく意識をこらえながら
狐はサソリを罵倒しました。
そこには絶望というよりも
斜面を流れる水のように
悲哀を感じています。
死を覚悟しながら、
サソリはぼそりと応えます。

「本能ですから」

狐と蠍は、
波濤に飲み込まれました。






  4月、眉月のある夜、

  男はとどいていた2通の手紙の封を切った。

  そこには爛れ果てた情事の軌跡と、

  不思議な少女の手記が描かれていた。

  

  非の打ちどころのない造形が、

  潰崩するきわのうめきは、

  半分が皮肉(シニカル)だ。

  煙草に火をつけありきりまで吸いこむ。

  吐き出された紫煙が、

  たまたま掩蔽が隠れて現れた紫の輪を

  いそがずに包んだ。

  おののくようにさだまらぬ手で、

  いまいちど、読みかえす。

  花羞じらいて月閉じる、

  魚沈みて雁落ちる、

  美貌の喩えを、

  ふと思い出した男は、苦く顔を破った。

  男には、この瞬間が見えていた。

  こういった虫の知らせを、

  男は単なる『勘』だと信じていた。

  妄想を真実だと悟ったとき、

  ひとはどうするのだろう。

  だいじょうぶ、冷静だ。

  終わりの鐘はまだ鳴り響いてはいなかったが、

  けたたましく空気をよどませる前触れは

  ひしひしと

  暗い部屋を迷いあるいている。

  せせりさがしては、ならない、

  漂失する浮標を憑けてはならない。

  モノローグは闇を手まねく。

  桶の内側をけずりあげる鉋をうちぜんと呼ぶが、

  けずりおとされるのが、

  よごれたものだけとはかぎらない。

  用心を重ね意識を集中しなければ、

  のみこまれてしまうこともある。

  男は、そのまま、心が悲鳴をあげるまで、

  考え得るあらゆるものを想起した。

  思椎に限界はない。

  愉快なおとこたち、

  奔放だったおんなたち、

  逢ったこともない親爺とお袋、

  やがて、
  
  鳩尾の辺りから鎮まってゆくような

  風の途が通る。

  男は、みずからに問うた。

  それでいい、

  みじかく返事して、

  ある場所へ向かった。






  蜻蛉獲りだと噂された。

  ひとっところに居を構えたことが

  ないせいかもしれない。

  あみは、

  見えないが、

  しっかりゆんでに握られている。

  男が追い求めるのは、

  季節にこだわらない蜻蛉だった。

  春夏秋冬、

  その生に終わりはない。

  存在には、

  自然的・物的なものと、

  意識的なもの、

  さらに超自然的で非感覚的なものとがあるだろう。

  超自然的で非感覚的な物象とは

  そこにあっても、なくても、

  存在すると信じている限り、

  あるものを指す。

  そんなだれもが聞いただけでややこしくなるものを

  かれはずっと追い続けてきた。

  その仕上げが今度の旅になるだろう。


  桜はもう散っていた。

  
  蜻蛉はまたもや彼の傍から逃げた。

  移り香だけを残して。

  どこへゆけば見つけられるのだ、

  男に初めて焦りがあった。

  焦の字は、火と鳥でできている。

  夢のある火の鳥ではない、

  火で鳥をあぶる意だ。

  自信があぶられる、

  そんな気分を彼は味わっていた。

  彼が追うものを、人々はこう言う、

  未練、と。

  桜は散った。

  だが、彼の、「未練」は、

  いまだ散らない。

  夜の宿の心配よりも、

  行方を探さなければならない。

  必ず見つけ出す、

  男はそう決意して雑踏に消えた。



  

  夢は、

  その全てを人に語り伝えることは出来ない。

  しかし、われわれは、

  その夢のすべてを知っている。

  あるいは、忘れ、

  或いは、説明する表現を知らず、

  あるいは、時系列に筋道立てられない。

  しかし、われわれは、

  それでも、その夢の全てを見た。

  男は、南へ下った。

  金沢城から石川護国神社の参道を抜け、

  聖ヨハネ教会をのぼりおえた高台に

  その病院はある。

  精神科、神経内科、心療内科、内科、歯科があり、

  金曜日午前9時、

  奴は外来を担当している筈だ。

  診療時間が終わる午後一時まで、

  男は時間を潰す。

  厚生年金会館の前を通って

  小立野通りに出る坂に

  見事な桜と木蓮の樹が並んでいる。

  男は、浪人時代、

  この坂をのぼったことがある。

  ここだったのだ、

  ここから、おれの旅ははじまったんだ。

  午後1時の鐘の音が鳴り響いた。

  受付に呼び出しを頼む。

  院内放送が流れ、待合室で男は待っていた。

  トウヤさんは?

  精神科医マデラが現れた。

  中肉中背、風采の上がらぬ容貌だが、

  虹彩と角膜の間に、
 
  濁った星がひとつくすぶっている。

  なにかが警鐘を鳴らす。

  男は立ち上がり、

  彼を捜すマデラとすれ違いざま、

  小声でなにごとかを、告げた。

  マデラの顔色が変わった。

  石引有料駐車場まで、

  男は振り返らずに歩いた。

  マデラは、黙ってあとに続いた。

  泥だらけの白いRVの前で、

  男は振り返った。

  来られると思っていました、

  マデラ医師が観念するかのような、

  低い声で会話の口火を切った。

  どこにいる?

  いっしょにいるのか?

  男は、マデラの目を見据えながら問うた。

  その前にお伺いしたい、

  あなたは、

  彼女のどういう知り合いなのですか—?

  言い終えぬ内に、

  彼の頬桁(ほおげた)が燃え、

  瞬時に陥没した。

  話し合う気は無いんや、

  黙って案内せえ、

  男はさらに低い声で強要する。

  おまえの自宅になんか案内するんやないぞ、

  高尾2丁目やったな、

  そこに嫁さんも娘もいる。

  電話番号は、076ー×××ー××××。

  マデラの顔色が一層蒼くなった。

  どこにも逃げられないんや、おのれは。





   木の蔭になつた、
   青暗い
   わたしの書斎のなかへ、
   午後になると、
   いろんな蜻蛉が止まりに来る。
      
   天井の隅や
   額のふちで、
   かさこそと
   銀の響の羽ざはり……
   わたしは俯向いて
   物を書きながら、
   心のなかで
   かう呟く、
      
   其処には恋に疲れた天使達、
   此処には恋に疲れた女一人。

  

  4月16日月曜

  香林坊109前19時。
  
  もう一通の手紙の主が、

  もうすぐ現れる。

  
  片町へとつづく舗道は京都に似ている。

  そぼ降る雨、

  気温8℃、

  男はトレンチコートの襟を立てる。

  男は差出人を知らない。

  金沢大学付属高等学校に通う

  16歳の女子高校生。

  東大に毎年10名前後、

  国立大医学部に三分の一の生徒を合格させる

  県屈指の進学校なのだが、

  手紙は奇妙きてれつ極まる内容で、

  学歴だけでは

  にわかに信じるわけには行かなかった。

  「あなたは転生を信じますか?」

  信じるもなにもあるまい。

  これだけなら頭のぶっ飛んだ少女と

  読み捨てても構わなかったのだが、

  文末の一行が男を慟哭させた。

  「待った?ヨミだよ」

  ヨミ、

  それは男が高校時代交際していた

  ひとりの少女がつけた

  少女のあだ名だった。

  ヨミ、彼女は、
 
  17年前の7月7日、

  自殺した。

  なぜ手紙の送り主が、
 
  男も忘れていた秘め事を知っているのか、
 
  確認するだけの価値はあった。

  4月の黄昏は早い。

  雑踏に極彩色のネオンの陰影と、

  香林坊大和百貨店前に

  ひとびとのいきれがざわめく。

  19時、

  きっかりに制服の少女が現れた。

  「ツヨ!」

  男は驚愕した。

  それこそ、

  少女が男につけたあだ名だったからだ。