ミッドサマー!!!!!もうかんべんしてください地獄村編。 | 映画鑑賞備忘録

映画鑑賞備忘録

観た映画備忘録。

ミッドサマー、ここが怖かったなというところ。人間模様と祝祭と、 
共感地獄編。そもそもあの村、全員が妙な薄ら笑いを浮かべているような、異様な『許容』(?)を感じるのが気持ちが悪い。


(だからといって出会い頭に石を投げられたりモツ抜かれたり顔を見た瞬間に舌打ちされたりしたいわけではない。) 
ここは安全、もう大丈夫よ。安心してね。ここはいいところよ。と言われ続けると逆に不安というか。そしてそれによってこちらが不安を感じているということが、むこうには一切通じない。 


○○をしたい、○○を見たい、という要望が一応は通るというのがさらに気味が悪い。 
『これは絶対に絶対に禁止、外部の人間に聖典は見せられない』ではなく、ほんの少しの条件付きで許す。 
最初から禁止にしておけば、卒論くんもああいう死に方はしなかったかもしれないのに。 
(見せるし説明もするけど写真はNG。そう言われたら手の届く範囲にあるなら忍びこむでしょう人間なら。少なくとも私ならする。ここまで来て写真の資料が手に入らないなんて!目の前にあるのに!と思ったら『ちょっとくらいいいだろ』と約束を破ってしまう気がする。)(それで一人夜に抜け出させるのがそもそも目的だった?) 
(そしてその『このくらいいいだろ』『ちょっとくらいいいだろ』という相手を舐めて軽んじる言動はちょいちょい私が不快に思うことなのだけど、自分にあてはめると自分自身もぼろぼろそういう言動をしている。自己嫌悪スイッチ発動マシンかこの映画は。) 

そして本当にその聖典は聖典なのか問題。 
解読が絶対に出来ない(そもそも最初から意味を持っていない)ものを強引に『特別なもの』というカテゴリにいれ、特別感を演出しているのでは?なので、作為的ではいけない、あれはある意味なにかを感じ取れるものではいけない。それこそ床に絵の具を叩き付けてできた模様だったりひびわれだったり、偶然に出来たものでなければいけないのでは? 
作為的ではないものを作り出せる『人間』を、あの村は『計画的』に作っているとしたら邪悪にもほどがあるのでは? 
しかし不思議な文字や儀式は全くの作り物のでたらめでもないんだろうか。(あの地方の文化の知識があれば、それを土台にいろいろ考えることも出来るけどなにしろ土台がない!とっかかりの知識がないとこんなにも全部が不安!) 
このあたりは、景色や建物が妙にきれいだからそう思ってしまっているだけかもしれない。 
建造から2000年です!!!という感じの建物だったらもっと信じ込むかもしれない。 
新しく見えるからといって信じ難いというなら、めちゃくちゃ古くて重厚でいかにも、というかんじの建築や儀式を見たら私は秒で騙される。普通に騙される。普通に秒で信じる。危ない。 
というように目に見える全てを疑って不審がって気分を悪くしているため、とても疲れる。 
すごい体力を使う。ミッドサマーの二回目に挑む自信がない。 
しかし、デイレクターズカットを観たらもやっとしている疑問に答えがでるのかもと思うと、観たいような観たくないような。 
このあたりも監督の罠のような気がする。監督め。これ以上の不安があるんだろうか。 

村の皆さんへと、その『うんうん、大丈夫大丈夫、分かってる』という薄ら笑いをやめろ!!と叫ぶに叫べない。 
ああいう優しさ穏やかさ(しかしうわすべりしていく)で接してこられると拒絶しにくい。とてもつらい。 
喉の奥にぐづっと何かがちょっとひっかかって、そのひっかかりがどんどん増えていく感じ。 
吐き出すほどでもないけど飲み込むこともできない。 
それやめてもらえませんかね、大丈夫大丈夫言うの。逆に不安なんで。と伝えたところで「なにがそんなに不安なの?大丈夫よ。安心して。私も最初はそうだったわ、私も両親を…」と続きそうなところが本当につらい。 
言葉が通じているようで、実のところ全く通っていない感が気味悪いのに、そこにある空気がぎすぎすもしていないし嫌に穏やかで誰も怒っていないから、なんとなくそのままになって流されそうだし、そういう場所でNOを言うことも出来ない。 
そもそもこの村では自分は『よそからきた人間』なのだし。と思うともう何をしていても心が休まらない。 

ダニーに寄り添う様子を見せていた『ペレ』の異様さ。取り乱したダニーに対して『僕も両親が』『ちょっ、聞いてって、僕も両親がさ!』『だから僕も両親がー!』というかんじでぐいぐい来る。 
確かにものすごくショックな悲しい出来事を経験したとき、同じ経験をした人の言葉ならすんなり入って来るかもしれないし慰めも受け入れることができる場合もあるだろうけど、今それ言うかね?感と、これをとっかかりにして今だとばかりに自分の話をしようとしているように見えて『ペレ』の親切さも最初から不穏。 
便乗はやめなさいよ便乗は、という気持ち。便乗というかドアのすきまに爪先をいれるみたいな真似をしないでほしいというか。 

卒論くん(ジョシュ)の悪気はないんだろうけどなー!そういうことしちゃうかー!という感。 
(村に来る前に、ダニーが部屋に訪ねてきたさい。ダニーとペレが会話し始めた瞬間に無言で席を外すところ。 
海外では普通なのかもしれないけど、ちょっと失礼、のひとことがあってもよくないかい?と小さなひっかき傷をよく作ってくる。悪い人じゃないんだろうけどなああ!というのがまた。そういう、特に気にせずその場の人間を蚊帳の外の置くのどうかと思う!どうかと!思う!!悪気がないにしても!) 
見ていて安心できる人間がひとりもいない!! 

そんななかで祝祭飛び降り儀式が始まり、この村はやばいぞとなったときも『卒論に使える!!』と自分にとってメリットがあると気づいたあとでの表情の変化、村との関わり方の変化が、身に覚えのある生々しいいやらしさで、また自己嫌悪祭りになるというか。 
嫌な思い出スイッチをめちゃくちゃに押される。 
そしてふと思い出すと、今さっき人が二人死んでいるのに、そこで起きる微妙な人間関係の言ってしまえばしょうもないギスギスシーンに心を囚われていて、『いやいや今そこで人が死んだんですよ!?』と危機感を持とうとしても生きている人間とのうまくいかないコミュニケーションのストレスのほうが大きい。 
さっき人が死んでるのに。 
『これはこういう儀式で、こういう文化で、こういう村だから』と説明されても『そうなんだー』では終われない、はずなのに、その後のちょっとしたギスギスやりとりのストレスのほうがダメージが大きく、あ、そうださっき人が死んでる!と意識しないと忘れてることに気づいて謎の自己嫌悪が起きる。 
なんの罠なんだろうこれは。 

大事な聖典がなくなった、誰か盗んだかも?という話になったときに姿の見えない友人の身の安全を心配するより先に、『こっちは関係ない』とまず言うその精神よ。分かる。分かるけど。 
クリスチャンのそういう『確かに分かるけど出来たらやめてほしい』言動になかなかにメンタルを削られる。 
悪いひとではないけど、悪いひとではないだろうけども!! 
村から逃げようとした二人は無事に逃げて欲しかった。 
もやもやぐるぐるの、女王が決まったお祝いのディナーのテーブルの『ごちそう』、普通に考えると『人体』『人肉』が置いてあるのかと思ったけど、あの村がそんなわかりやすいアレをするだろうか。 
ではあのもやもやでぼかされた『ごちそう』は何なんだろう。モツ?手足?生首?そんな分かりやすくグロテスクなものは食卓には置かないような気もする。 
なにしろ、色々なものがきれいにはきれいなので。 
美意識?がきちんとしているんだろうなあ。血みどろ、泥まみれで、汚物まみれで死体の山、というわけでもなく明るい青い空の下、みんな『やあ今日もいい天気ですね』くらいの穏やかさで死体処理をするのがもう、もうなにもかもおかしい。怖い、気味悪い、と同時にもう意味が分からない。おかしい。この世界はおかしい。(最初から気づいてた。ようやく声に出して言えるようになった。) 

クリスチャンが、女王のお祝いディナーテーブルで『なんでこんなことを』を言っていたので『なんというかあまりよくないもの』があって、ダニーにはそれが見えていない。本当にあれは何なんだ。土塊とか?大地に感謝しましょう的な。感謝しましょうという精神はともかく、感謝の仕方があの村はやっぱりおかしい気がするので、神の使いとかいってミミズがのたくっている土のかたまりを食卓に置いていたらどうしよう。ミミズは確かに大事だけどものを食べる場所には置かないでほしい。(ミミズと決まったわけではない。) 

女王を選ぶ儀式で、ダニーがだんだん生き生きしていくのがもうあかんあかんあかん、ここで、この村でこの状況を『良し』とするのはとても危ない、危ないですよダニー!と思っても、こちらの声は当たり前だけど届かないし、『村』にどんどん同化していくダニーを『こちら側』へ引き止められるとしたらクリスチャンだけのはずだったけれど、一方その頃クリスチャンといえば。(薬を飲まされていたとはいえ、あの状況でマヤちゃんに『性交中の恋人手つなぎ』をしようとする精神がもう、もう。おまっ、ちょっ、おまっ、お前ええ!!?もう逃げられない後戻りできない種を出すまで帰れない状況だったにしろ、お前ええ…。という気持ち。) 


女王を決める儀式でダニーをエスコート?してくれた優しい女性は誰だったのか。 
何かと気にかけて踊りの儀式の最中もダニーが心細くならないよう細やかなフォローと声がけが見事。かといってずっとダニーとべったりしているわけではなく程よく離れ程よく近づき、ここぞというときにはそばにいてくれる。…プロかな!?と思った。(なんのプロかは分からない) 
踊りに入る前に飲んだものが明らかによくない葉っぱのお茶で、その効果もあるにしてもダニーが愛想笑いでもなく無理しているのでもなく空元気でもなく、本当に楽しそうなのがおそらく初めてだったので、ここから先はもう惨劇一直線、グロ祭りが畳み掛けるのだろうなと思いつつも、 
この一瞬だけでもダニーが嬉しそうで良かっ、…良くはない。 


踊りの儀式で、技術を競うわけではなく、『最後まで立っていたものが勝ち』方式なので、おそらく八百長がやりやすい。そのなかでダニーは言葉ではなく『意思疎通』が出来たような不思議で強烈な、しかも気持ちの良い経験をする、となるともう、『村』に同化一直線なのでは。 
女王に選ばれたダニー、女王=生け贄、になるんだろうなあ、最後は映画のポスターになっていたダニーの泣き顔で終わるのかもしれないなあ。と思っていたのに。 
女王になったダニーを見る友人はもう誰もいないし、クリスチャンはそのとき性交館だし。 
異変を感じたダニーが、クリスチャンがいままさにマヤちゃんと性交している場所へ歩き出したとき、全員でもっと必死に止めるのかと思いきや、一応の声かけとして『あっちは関係ない、ほら行きましょう』というようなことは言うものの、無理にダニーを引き止めはしない。 
何故もっと必死に止めない!!見せないような気遣いはないのか!! 
表情や口調は穏やかで優しいけれど、なにひとつ思いやりがねえなこの村は!!! 
(どう転んでもさして変わらないので好きにさせてあげましょう、という思考が根本にあるようにも思う。あの優しい笑顔に感じる胸糞悪さはそのへんにあるような気もする。) 

クリスチャンのアレを見てしまったダニーの叫ぶみたいな過呼吸のような声がものすごくぞっとするしやめてくれ頼むからやめてくれと思う。これ以上聞きたくないというだけで『泣かない泣かないよしよし』とやってしまうと思う。 
泣かないでほしいとか、元気になってほしいという気持ちではなくただ単にあの叫び声をもう聞きたくない、面倒はごめんだし。という理由で。(そしてこれは散々クリスチャンがダニーに対してやってきた対応だったようにも思う。) 
それではいけないんだろうなあ、と思うけど、だからといってホルガ村方式は嫌だ。 
相手がコーヒーを飲んだら自分も飲む、相手と同じ行動をすることで距離を縮める、というよくわからない恋愛マニュアルにありそうなことをされている気がする。異様だし、ここでも『何かよくわからないけど不快』が起きる。 
周囲の女性たちが、口々に「しーっ」「大丈夫大丈夫」「よしよし大丈夫」というかんじで囲んでいるのは、もう勘弁してくれと思った。手厚い!優しい!とはどうしても思えない。逃げたい。そっとしておいてほしい。適度な距離を保ってそっとしておくという優しさはないのかこの村は。 
とても逃げたい。怖い。床を這って叫ぶダニーを、誰かが『よしよしもう大丈夫よ』と抱きしめるかと思いきや。 
せーの、で息を合わせて一緒に叫ぶの!?叫ぶの!?そこで!?なんで!? 
え?なんで?待って待って待って怖い怖い怖い。 
『大丈夫よ、みんなもあなたと一緒に泣き叫ぶから安心して泣き叫んでね!せーの!』ていう? 
もう意味が分からないし、声をあわせて一緒に泣き叫んで顔をぐしゃぐしゃにして喚いたところで、心はひとつにならないしなにひとつ救われないし、自分の怒りや悲しみを受け入れられたとも思えない。 
ただ、『同化』した(表面上)というか、みんないっしょでみんなおなじ(表面上)になっただけというか。 
楽しいことは二倍、悲しいことは半分こ。ていうアレでは多分無い。同じ行動をしたことで感情を共有できるとは思えないのに。あれを『共感』と呼んでいいのか。村ではあれが痛みを共有することなのか。 
ものすごくぞっとした。 
ただ、泣いていいのか泣いてはいけないのか分からなくて声を出せないでいるときは、ああやって周囲が泣き叫んでくれると自分も泣き叫びやすいかもしれないし、結果、一体感がうまれて『私はひとりじゃないんだわ』的なアレで救われたような気持ちになってしまうのかもしれない。そう思うから余計に気持ちが悪い。 
うるせえほっとけ私の怒りは私だけのものだ、この気持ちを知ってほしかったらそのときに言いますので!今はそのときではないので!が通用しない村。それを何の疑いもなくやっている村の皆さん。もう得体の知れないいきものに見える。怖い。 

全裸で全力疾走クリスチャン、村のヤバイ場所スタンプラリーというかヤバイ場所ビンゴ的に村の惨劇現場を巡りさらに最後は熊になるという大ビンゴを決めたので、こうなる前にもっとどうにかならんかったか、と思ったけど、どうにもならなかったんだろうなあ…。積み上げた己の業による完全な自業自得、とは言いきれないしこの村に着いた時点でたぶんどんな形になろうと死ぬしかなかっただろうけど。 

女王に選ばれたダニーを生け贄にするのかと思いきや。 
まさか『女王』に最後の生け贄を選ばせるとは。 
逆にタチが悪いのでは?と思った。ああいう状況であっても、自分の意思で『誰か』(クリスチャン。最後は熊。)を選んだわけで。そうなるともうダニーはもとの世界には帰れない。 
生け贄で村人が減っても、『素質』があると見た『ダニー』を村に縛り付けることに成功したら村としてはプラスなんだろうか。生きたまま焼かれる村人の叫び声と一緒に泣きわめく村人のなかで這うように歩いて、最後の最後にダニーは笑顔を浮かべるので、『他人の苦痛を共有する(ように見えるよう振る舞う)』村人とは違うように見えるけれど、もう取り返しがつかないことになったとしても自分の恋人に死を宣告したうえで『笑顔』を浮かべられる時点でもうダニーは戻れない気がする。あれを救済と呼んでいいんだろうか。 
というかそもそもダニーは帰れるんだろうか。そしてダニーは家に帰りました。とは言われていないからもう一段階なにかがありそうな気がする。 

ディレクターズカットを観たら抱えている諸々のもやもやが晴れる可能性があるならかけてみたいけれど、大負けする予感がすごくする、するけど気になるので、監督めえええ!!!と毎日思っている。 
なんだかもうすごい映画だった。メンタル各所が擦り傷まみれ!!監督め!!!きれいな目をしている!! 

ミッドサマー。すごい映画だった。丁寧に丁寧に毎分毎秒が、不穏。 
勇気が出たらディレクターズカット版も観にいきたい。 

おしまい。


2020年11月現在、まだ勇気は出ません。