アンニョンハセヨおねがい

2023年も終わりに近づいてきました。

今年も沢山の韓国映画を観ましたキラキラ



在日韓国人の私にとって韓国映画は、歴史を知るための材料であったり、感性を磨くものであったり…もし祖父たちが日本に渡って来なかったら、今頃私は韓国に住んでいて、違う人生を送っていたのかもしれない…


そんな、複雑な気持ちで観ることが多いのですおねがい



そんな中2023年の映画の中で、最も心に残った作品が「ラストプリンセス」でしたおねがい

日本では2017年公開、古い?アセアセ



この映画を観たあと、3ヶ月ほど頭からずーーーっとトッケオンジュ(映画のモデルになった方)の存在が忘れられずタラー



まるで取り憑かれたように笑い泣き

実在したトッケオンジュのことを自分なりに調べましたあしあと

いまさらですが泣き笑い



是非最後まで読んでいただけると嬉しいですお願い




 歴史に翻弄された悲劇のプリンセス

 

激動の人生を駆け抜けた、大韓帝国最後の皇女をご存じですか?

映画「ラストプリンセス」でモデルとなった、徳恵翁主(トッケオンジュ)はこの映画で一躍有名になりました。

 

映画では壮大に描かれていて、ラストプリンセスってどんな人?と、私も映画を観て気になった一人です。

 

さて、徳恵翁主は本当に映画で描かれていたような悲劇のプリンセスだったのでしょうか?

 

 

  映画のモデルとなった徳恵翁主

 

1918年撮影、右端が徳恵翁主(左から李垠、純宗、高宗、純貞孝皇后(純宗の妃)、徳寿宮にて)

中央が高宗、右端が徳恵翁主。徳恵が生まれたとき、高宗は60歳、すでに皇帝から退位し、隠居生活の身分にあった。/wikipediaより引用

 

 

徳恵翁主(トッケオンジュ)は1912年5月25日、父・高宗(コジョン)と、母・梁春基(ヤン・チュンギ)貴人の間に生まれました。

国王の娘は、「公主」(コンジュ)と呼ばれるが、側室との間に生まれた娘は「翁主」(オンジュ)と呼ばれたそうです。

 

 

 

  専用の幼稚園を造るほどの溺愛

 

 

高宗は年老いて生まれた初めての女児の誕生を喜び、徳寿宮の中に専用の幼稚園を造ってしまうことから、溺愛していたのがわかりますね。

 

この頃、日本の支配下に置かれていた李氏王朝。高宗は生きている間に、身分が低い母を持つ徳恵を王族の一員とし、朝鮮人と婚約をすることで、朝鮮で生きられるよう願っていたと思われます。

 

 

そんな最愛の娘・徳恵を手元に置き王族の一員として見守りたい――高宗の願いは虚しく、徳恵は父の死後、たった12歳で日本へ留学させられてしまうのです。

 

 

日本留学を前にした11~12歳頃 /wikipediaより引用

 

当時、朝鮮の王族は留学や結婚という名目で、来日させられたまま祖国に戻れないことがあったようです。

祖国を離れて我が子が暮らすことに親たちは胸を痛め、「留学」という名目は、まるで人質に取られてしまったような思いを募らせていたのでしょう。

 

徳恵翁主は、1921年から京成(現在のソウル)にある日之出小学校2年に編入し、日本語での教育を受けました。この学校は日本人子息か、朝鮮人でも上流階級のみが通学できるエリート教育機関で、徳恵は日本人の少女同様、着物に袴姿で通学したそうです。

 

 

日出小学校の校長と担任教師 /wikipediaより引用

 

 

日之出小学校時代に作詞の能力を認められ、「童謡の姫君様」と讃えられ、1922年頃に作った詞「雨」と「蜂」は1923年10月頃に京城に滞在した日本の音楽家が作曲をつけ1923年末頃に京城で「徳恵姫御作童謡発表会」が行われました。そしてその後、12歳で東京へ留学、、

 

 

東京に向かう徳恵は、藤色の振り袖を身につけていた。/wikipediaより引用

 

祖国を離れること、和服を着ていかなければならないこと。朝鮮王族の一員である彼女は、どんな思いで日本へ向かったのでしょうか...

 

 

  ホームシックと母の死

 

1925年3月に12歳で日本に渡り、同年4月から東京の女子学習院に編入学。この頃から日本では徳恵姫(とくえひめ)と呼ばれました。女子学習院の同窓生には、尾崎雪香(尾崎幸雄の三女)がいました。雪香の回想によれば、徳恵は口数が少なく運動が苦手であったようです。

 

そして重度のホームシックにかかり、家でも学校でも、暗い顔になっていきました。

やがて心も閉ざすように・・・

 

更に追い打ちをかけるように、1929年母・梁氏が永眠。

17歳の徳恵は悲しみにうちのめされました。

 

翁主である徳恵が弔うには、母の身分が低すぎるとして十分な服喪すら許されなかったとされます。

1930年、母の葬儀のため一旦帰国しますが17歳の少女にとってあまりにつらく、精神的に落ち込み、今でいう統合失調症を患うようになります。先天性の精神疾患も持っていたと言われています。

 

1929年、母の葬儀 /wikipediaより引用

 

 

  日本人との結婚

 

徳恵は学業を修了し、そのあと待ち受けていたのは、宗武志との結婚でした。

宗武志は、旧津島藩主・宗家の当主で伯爵にあたります。

李家からすれば格下でしたが、独身の適任者はおらず、朝鮮貴族を望むならば子爵以下と縁組するしかなかったようです。

一方の宗伯爵家は莫大な借財があり、婚姻により経済基盤を得ようとしていました。

 

1931年 夫・宗武志と徳恵翁主 /wikipediaより引用

政略結婚とはいえ、男前な武志に徳恵もまんざらでもない様子

 

とは言え、双方に何かしらの事情はありながらも、武志は妻となった徳恵を深く愛したようで、2人の仲は睦まじく結婚の翌年には長女正恵(まさえ)が生まれました。

 

しかし、少女時代から発症していた統合失調症は新婚時代にも症状が見られた上、出産後に症状は悪化、終戦後の1946年頃松沢病院に入院。

 

その後、韓国人新聞記者金乙漢が徳恵の悲惨な現状を韓国に紹介されます。

 

徳恵は戦後の華族解体により一般の日本人となりますが、1955年6月に武志と離婚し、徳恵は母方の姓を名乗って「梁徳恵」(リャンドッケ)となったのです。そして、ソウルに戻り韓国籍を得ます。

 

離婚後、詩人でもあった武志は、徳恵との別離の深い悲しみを詩に綴っていますが、祖国と母が恋しくてたまらなかった徳恵には、武志の想いは届かなかったのでしょう。

 

 

  韓国への帰国、逝去

 

韓国朴正煕が実権を握ってから李王家の人物の韓国帰還運動に手を差し伸べたため、1962年1月26日に韓国へ帰国し、ソウル大学医学部付属病院に入院します。

 

異母兄李垠(イ・ウン)の妃だった李方子(イ・パンジャ)とともに、昌徳宮内の楽善斎(ナッソンジェ)に支えあって暮らしていましたが、

1989年の4月21日に76歳で亡くなった徳恵の最期を看取り、その9日後の4月30日に、方子は87歳で亡くなります。

 

 

昌徳宮の楽善齋(ナッソンジェ)徳恵が晩年の26年間療養生活を送った場所


徳恵だけが悲劇のプリンセスだったわけではなく、方子もまた、歴史に翻弄された一人でした。

そんな二人はきっと、お互いを励ましあいながら最後まで寄り添いあっていたのではないでしょうか。

 

助け合った二人は、今も南揚州の高宗の皇帝陵の敷地内に、英親王と共に埋葬されています。

墓は徳恵を主人公とした映画のヒットにより、2017年に整備され一般公開されました。

 

 

「大韓徳恵翁主之墓」と刻まれた墓石「表石」が立っている 

映画「ラストプリンセス」がヒットした後に、名前が刻まれたと言われている

 

「ラストプリンセス」という映画はかなり壮大に描かれていて、観た日本人が「反日映画だ!事実と違う!」

という声をあげているのをよく見かけますが、実際に徳恵は10代でまだまだ親元で甘えたい年頃に、日本へ留学させられています。

 

映画のように何十年も祖国へ帰れなかったわけではありませんが、歴史の都合により、親と引き離されたのは事実であり、相当寂しく辛い思いをしたはずです。

 

元々持っていた持病も重なり、祖国に帰りたいのに帰れない気持ちがさらに病状を悪化させたようにも思えてなりません。

 

 

 

  勝手な感想

 

この時代には徳恵だけではなく、大勢の人が朝鮮独立のために戦っていたので、当然徳恵よりも悲惨な状況だった人はたくさんいたはずです。

 

その点徳恵は王族だったため、たとえ徳恵翁主が一生を神経衰弱に苦しみ、本人の意志で人生を生きていくことができなかったとしても、当時の日本統治下の朝鮮人の生活と比較した場合、日本での暮らしの待遇は良かったはず・・・ただ、娘が生まれた後も病んでしまうほど、悲しみでいっぱいだったのではないか・・・と、個人的には思ってしまいました。

 

しかし、非常に気になるのが、徳恵のたった一人の娘である正恵(まさえ)が後に行方不明となるのですが(自殺したと言われているが遺体が発見されないまま死亡届が出された)徳恵は娘が生まれてもずっと精神的な病から抜け出すことができず、正恵はどんな思いで母・徳恵を見ていたんでしょうか。

 

娘が生まれたのなら、母として日本で強く生きてほしかったなと思います。

 

ただ映画自体は、史実は置いといて、本当に素晴らしい映画でした。

徳恵が日本で暮らしながら娘に聞かせる昌徳宮の美しさや、念願の帰国が叶ったあとの空港での再会の下りは号泣ものでした。(ラ・ミラン氏大好き)

 

長い年月が過ぎ、みんな随分年をとり、念願の祖国の地に再びかえってこれたとき、宮殿で仕えていた人たちが、アガシ~!(お嬢様)と出迎えたときの感動といったら…

 

やはりそこには、ソン・イェジンの演技の素晴らしさは外せません。

20代~70代までの幅広い役を見事に演じ切っていました。

 

私が徳恵翁主(トッケオンジュ)に魅了され、どんな人物だったのか気になりはじめたのは、やはりソン・イェジンの演じた徳恵が魅力的だったからだと思います。

 

そして、個人的にもう一つ気になって仕方がないのが、徳恵が幼い頃暮らしていた場所(昌徳宮)で両親にたくさんの愛情を注がれ過ごした、唯一幸せな思い出が詰まった美しい場所に足を踏み入れたとき、徳恵にとっては当然幼いころの記憶で止まっていたはずで・・・その思い出の場所が、一般公開されているのを見てどんな思いだったのかな~・・・と、胸が締め付けられました。

 

それとも、徳恵が帰ったきた頃はもう病状が悪化していて、祖国に戻ってきたことをしっかり認識されていたのか?気になるところです。

 

更に、映画のシーンにもあるように、帰ってきた頃本当に昌徳宮は一般公開される場所になっていたのか?

昌徳宮が何年から見学できるようになったのか調べられずめちゃくちゃ気になってます。(誰か教えてください。笑)

※追記 この記事を作成後、詳しい方が教えてくれましたが、徳恵が亡くなったあとに一般公開されたようです。そりゃそうだ。笑

 

時代の廻間に生まれた徳恵の運命に、胸が締め付けられた2023年でした流れ星

 

 

 

 

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