サッカーの本田圭佑のように、小さいころからプロサッカー選手を目指し

卒業文集に「海外のクラブに所属して10番をつける!」と宣言して

その夢を叶える、それは素晴らしいことだと思います

 

その一方で、思い出されるのが大学時代の指導教官の言葉

「僕の娘がねぇ、小学生なんだけれど、ピカチューになりたいって言うんだよ、

素晴らしい夢だろう?夢というのは年齢とともに成長していく、変わったっていいんだよ」

 

俺自身は中学の頃に骨折をしたことをきっかけに、ずっと医者というものを目指してきました

受験生の時に「救命病棟24時」を見て救急医に憧れ

一旦は救命士の大学へ

その大学で出会った、救急医療の外傷治療をカッコいいと思い

医学部を再受験し

アメリカで救急医になって外傷専門医になったらカッコいい!などと考えたものです

 

当時は英語などしゃべれなかったのですけどね(笑)

 

病気で医学部を退学してからは

生きるために英語を勉強しました

それがきっかけで英語を使う仕事がしたい!と思うようになりました

 

大学院に入学し、研究生活に憧れて

英語を駆使して国際学会で発表するような研究者になる!などと考えたものです
残念ながら大学院生の間に、アメリカの国際学会で発表する機会は

論題が採択されなかったので叶いませんでしたが、申し込んだ時はドキドキしたものです

研究職というのは憧れたので、大学院生でありながら国から生活費をもらえる学振という制度に申し込み、

博士課程に進学しようと思いましたが、研究計画書を作った後に申請資格がないことが分かり断念

流石に33歳でお金を稼がないのはまずいと思ったのです

 

 

そこで自分に何が出来るか?
考えました
一般的に言う華々しい道はもうないかもしれない

でも地元に帰って出来ることがあるのでは
そう思って志望したのが今働いている会社です
地元の中小企業ですが、中国・韓国に合弁会社を持ち

アメリカの企業とも取引があります

 

日本の東京一極集中が叫ばれ久しく、地域経済の活性化が日本の課題の一つとなっています

東京、名古屋、大阪など大都市は人口が上昇しているにも関わらず、地方都市は衰退するばかり

このような状況の中で、「地域経済に貢献したい」という新たな目標が見つかりました

そして、今の会社なら「語学を生かし、地元の製品を世界へ」なんてことも出来るかもと思い至ったのです
ちょうど社長も語学が出来る人材を欲しているところでした

 

 

さて、長々今までの自分を振り返りましたが

今までの人生、俺の夢というのはコロコロ変わってきました
一貫性が無いと言えば無いですが
それぞれの状況下で自分なりにベストは尽くしてきたという自負はあります

 

本田選手のように子供のころから一本の道を突き進むというのもいいですが、

夢は変えてもいいのだ、一貫性が無くてもいいのだ
そのような事を思う次第です