入定窟 菅原 伴蔵 と 坂村 真民 氏。⑥ | KEN ituki

入定窟 菅原 伴蔵 と 坂村 真民 氏。⑥

 

日本の仏教詩人である

坂村 真民 氏の 

 

生い立ちの

が語られたと思われる

お話がありました。

 

 

時は関東大震災を

経験し大正バブルも崩壊した

 

昭和6年(西暦1931年)に

神宮皇学館を卒業した

 

坂村 真民 氏の作品手記が

掲げられていていました。

 

その頃の時代は

徳川幕府の終わった

 

明治初期から

大正時代にかけ

50年以上の時が流れ

 

明治新政府から引き継いだ

ゆめと希望を描いた

 

大正東井時代の民衆の

期待した新しい時代の政治と

経済体制には

 

民衆には

閉塞感と経済困窮者が

生まれていて

 

大正バブルの恩恵を

受けたものは

 

極一部にしか過ぎない

そんな世の時代であり

 

多くの民としては

失望と絶望を

 

感じていた時代が

関東大震災後の庶民の

生活でした。

 

そんな頃のお話

神宮皇学館といえば

三重県伊勢市にある

 

現在の皇學館大學の

前身となると思います。

 

江戸時代も終わり

時は明治時代から大正時代にかけて

40~50年経過したときの

 

初老前に未亡人となり

農村地域の開墾で5人の子供達を

 

母の腕一つで育て上げた

坂村 真民 氏の 母への想い

 

感謝と輪廻のバラを

ささげる手向けの気持ちを

書いたのでしょう。

 

 

真民氏の

母の亡くなられた夫は

 

もとは

小学校の校長の地位にあり

 

真民 氏の母が

未亡人となった

その時から

 

坂村家の生活は一変し

生活には相当の

ご苦労が

たえなかったはずです。

 

 

坂村 真民 氏が成長し

亡くなられた父と同じ

教職の道を歩むため

 

若くして仕事のため

に故郷を離れ

兄弟姉妹、まだ若くして

 

坂村家の人々は

生活の上でたりる

家計への所得もなく

 

仕事先の都会からの

仕送りも当時としては

 

できるかどうか

わからない

 

そして

故郷に戻ることも

 

母を守り手助けすることも

出来ない

 

そんな真民氏が

心にかみしめた折に

 

感じた 真民 氏 の

心の想いを書いた

文だと思います。 

 

 

坂村 真民 氏の

生きてこられた時代は

 

時代背景的には

とても複雑で

 

太平洋戦争の終結の

前の時代である

 

明治初期から昭和20年

頃までは

 

日本神道が軍国中心主義化

していた思想の時代でもあり

 

少年や青年期に進学を

学んだ 坂村 真民 氏にとって

 

太平洋戦争終結後の時代は

その頃軍国主義中心であった

 

神道の方向性の間違いや

否定をしなくてはいけない

 

自分の人生の中と体験で

起こった大きな変化の事象であり

 

仏法の慈悲や博愛の精神

無駄な殺生などを嫌う仏法の

 

精神性の大切さに

心をうたれ

 

仏法詩人として

活躍する人生を選ばれたの

ではないかと想像できます。

 

 

坂村 真民は1960年には

個人雑誌である

 

ペルソナ を創刊された

そうですが

 

 

ペルソナという語源を聴けば

現在の青年期以下世代の

皆さんには

 

家庭用ゲーム機で大ヒットした

ペルソナのいうゲームを

 

思いうかべるのでは

ないでしょうか。

 

ペルソナの語源はもともと

ラテン語である

 

persona に由来し

仮面や人格、人物を表す言葉で

 

人間の外的側面や内側に潜む

自分を意味するもので

 

英語での personal も

語源としてはこの

 

ラテン語の persona と

意味合いとしては

似ているところもあったりします。

 

まあ、私は

そのゲームのことは詳しくは

わからないのですけれど

 

 

時代の先駆けとなる

言葉や題名などのテーゼ的な

 

センスを真民 氏に

感じるかと思います。

 

 

輪廻のバラや

仏教詩の作品である

 

坂村 真民 氏の作品には

そのような仏法を規範とした

 

深い意味のある作品が

多かったのでのは

ないかと思います。

 

 

 

 

お話は変わりますが

 

かつて

 

この青梅の地といえば

 

江戸時代の末ごろに

 

菅原 伴蔵 

 

という修験者が

在られたそうで

 

江戸末期に幼児の流行の

病があり早逝してしまう

幼児がとても多く

 

それを

とても悲しんだ

 

菅原 伴蔵は

 

晩年自らの死期を知り

 

山中に穴を掘り竹を立てて

鈴をもって中に入り土を覆しめて

 

この鈴の音が絶ゆるときよりが

入定の時なり

 

以後 吾は 子等の慈父となり

保育の光達なることを

 

言葉に残し入定場と称した

場所が今も山中にあるそうです。

 

 

 

 

 

 

伴蔵の想いを悲しんだ

修験者はこの像を刻み

 

一心に祈念したところ

それ以降

 

失明するものがものが

いなくなり

 

世の人は大いに喜び

菅原 地蔵 や 子育て地蔵と

呼ばれたそうです。

 

 

 

 

 

 

 

目が入り私を

見つめるように笑いかける

菅原地蔵 です。

 

かわいらしい

赤いおべべを着せてもらって

良かったです。

 

今も皆に大切に

愛されている証ですが

 

江戸時代の当時に

菅原 姓があり

 

伴蔵という名前なので

おそらくのところ

 

武家名門名家出身の三男の

可能性が思い浮かびます。

 

当時名門名家の

長男であれば

 

幕府の武士団的な公務や

村名主としてのの社会的な仕事

寺の仏務の仕事があり

 

その地のその任務にあたる

幕府の仕事から

 

自由に離れることは

できずに

 

江戸時代は

その役目をつかさどる

 

家の責任があった

時代なので

 

現代のように、長男次男の人生の

生き方としての行動の自由や

 

そのような、自由な人生の選択は

出来る時代ではなかったので

 

名門名家の

長男 次男の立場は

 

そのような村の自治や

運営に関して

 

すべての人生を

費やされる生活なので

 

三男のような自由闊達な

人生は歩むことができない

立場でもありました。

 

 

ゆえに

 

 

長男の名は太郎や 、兵衛など

次男であれば長男を

補佐する

 

助 などが

名前の一文字などとなることが

多く

 

 

蔵は蔵で、商業や事業などの

財にあたる仕事を家から

期待された三男に

 

名付けら冠せられる

名前の一字であることが多く

 

伴という文字は

藩という

 

当時江戸時代の

幕藩制度の藩という

響きと同じで

 

菅原 伴蔵 は

両親からとても

 

人生を期待された

人物であったことだと思いますが

 

伴蔵としては

良心や世間の期待とは

 

別のもっと大きな自分の理想や

夢に邁進し

 

多くの人を救い助けるという

両親や世間の期待を超え

 

もっとも大きなものを

背負い入定窟された

 

江戸時代末期の人物だと

思われます。

 

 

 

 

入定窟といえば

全国にそのような場所は

 

たくさんあるとは

思いますが

 

弘法大師空海や

高野山などのお話もありますが

 

時は随分現代の方向に下る

江戸時代末期という

 

比較的に近代に近い時代の

入定窟は

 

おそらくのところ

数はとても少なくなっていた

時代の頃のお話と思え

 

菅原 伴蔵としては

弘法大師空海と同じような道を

 

歩むことが

彼の心の悲願であった

ことなのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

私を強く見つめる

菅原 地蔵 子育て地蔵の

その目に 

 

江戸末期に生きた

菅原 伴蔵 のことを 少しだけ

 

語って

みたくなりました。

 

 

 

 

 

 

この日の青梅の空と雲は

なんだか

とても優しステキで

 

 

 

 

 

 

池のお水も

太陽の光の輝きと

 

反射で

いっぱいです。

 

 

 

 

 

 

青梅市の

緑と自然を堪能して

 

次の場所へ

移動します。

 

 

 

 

 

 次回につづきます。