神奈川県 横浜市慶雲寺 慶雲寺さんの浦島観音堂&フランス領事館跡へ。 ⑤ | KEN ituki

神奈川県 横浜市慶雲寺 慶雲寺さんの浦島観音堂&フランス領事館跡へ。 ⑤

 

東神奈川駅から線路沿いを

西方向に歩き

 

道路から高い位置にある

線路越しから見えた屋根を

目印にして

 

 

 

 

 

 

たどり着いた場所は

現在の 浦島観音堂 のある

浄土宗 慶雲寺さんです。

 

 

 

 

このあたりには

電車の線路を挟んで

南北にお寺があって

 

 

 

 

 

その1つのお寺様が

この浄土宗 慶雲寺 さんに

なります。

 

 

 

 

こちらの慶雲寺さんは

江戸末期から明治時代初頭の頃まで

 

江戸時代末期の横浜開港に際し

フランス領事館として供用されていた

時期がああり

 

日本にある当時のフランス領事館は

この慶雲寺さんの境内と

 

その頃の当時建っていた社殿が

そのままフランス領事館として

使用されていたはずです。

 

 

 

日本全国の各所の村々は

江戸末期から明治初期まで

 

日本各地にあるお寺の境内や

伽藍の社殿などが

 

村役場や市役所などの

現在の仕組みである

 

行政機関の庁舎が

明治新政府の発布する

 

明治憲法の行政機関としての

各市町村、府や道などの県の

 

庁舎が新しく整備できるまで

仮的に使用されていることが

 

日本全国でよく見かけられる

通常のことですが

 

この慶雲寺さんは

当時の横浜という

 

これからの

世界的なの貿易の拠点の

 

港を担う重要な立地に

位置する場所なので

 

当時フランス領事館として

使用されてた模様です。

 

 

 

 

 

 

 

かくいう私の曽祖父も

明治時代の初期は

 

明治初期のお寺の庁舎で

行政機関としての任務を

こなしていて

 

お寺の中で行政人として

働いていたこともあって

 

歴史的にどうしてそういう

運びになったのか

 

よくわかっている

立場になります。

 

その理由は

ある意味では簡単なのですが

 

江戸徳川幕府である徳川政権のもとでは

明治政府以降の現在の行政機構と

同じような役割を

 

江戸時代の御料名主と

年寄が担当する役割があり

 

人別帳として村名主が村の人口の把握管理や

困窮者への施し、冷害や災害時の

 

貯蔵米の貯蔵と支給に関する幕府側との

折衝調整などを行い民意側の代表が御料名主

というような立場であり

 

それと同時期にあった、当時の村年寄という制度の

年寄が現在の役人にあたり

 

名主の不正行為や田や畑の面積に対して

年貢が正しく規定量収められているかなど

厳しく監視し

 

幕府の意向と指示道理その村の

運営ができているか

代官に知らせる立場の任務をおう人間であり

 

江戸時代の村の警察権力や

刑罰の執行などの決定権などにも

 

村年寄の立場としては大きく

関わっていて

 

そんな江戸時代の行政や政治の仕組みが

年貢の廃止、大判や小判の廃止、新通貨の発行

通貨租税制度の導入など

 

大日本帝国憲法、明治憲法の発布により

旧徳川幕府の政治や行政の

仕組みは廃止されますが

 

それを新たに担える場所や人材は

すぐに見つけることはできずに

 

旧来の村名主の家系がその間引き継ぐ

ことが多く、当時廃仏希釈が行われ

 

江戸時代までその場所の住職や

僧侶の家系が廃仏毀釈により

 

その家系の方がその座を離れて

日本の各地にあるお寺は

 

当時瞬間的に無住状態に近い

かたちとなり

 

寺の主が本山の指名する新たな

住職に入れ替わることが普通となり

 

 

その間

旧来の寺社を明治政府の行政機関の

新庁舎完成まで

 

お寺や寺社敷地を

そのまま行政機関の

 

仮庁舎として運用していた

歴史的な経緯があるので

 

明治時代の初期頃は

 

江戸時代の旧来の寺社さんが

そのまま明治政府の仮庁舎として

 

利用されることが

多かったわけです。

 

以後、江戸時代の旧来の寺社さんの

お寺の主の方や僧侶の方は

 

明治期以降に宗派の本山が

任命した住職や主、僧侶を

 

日本各地のお寺に配属する

かたちとなり

 

江戸時代と明治期を境に

寺を預かる世の血筋の系統の

 

断絶が日本の歴史的には

起っていて

 

古いお寺の口伝や伝承などでは

その土地の伝承や由来は

 

なかなか

代々そのお寺には

 

伝わることがなくなったのが

日本の歴史的には

残念なところと思います。

 

 

 

 

 

 

 

江戸幕府と明治新政府の

歴史はよしとして

 

浦島太郎の伝説と

浦島観音堂の

 

お話しを

することにましょう。

 

 

 

 

東神奈川駅を西方向に歩き

たどり着いたのが

この浦島観音堂です。

 

 

 

 

 

 

日本の昔話の浦島太郎の伝説は

皆さんよくご存じと思われますが

 

横浜市にある

この浦島観音堂は

 

なんと

その浦島太郎の昔話に

由来する観音堂で

 

もしお近くに

お住まいの方なら

 

ぜひ一度訪れて

見ると良い場所かと思います。

 

昔話の舞台と関係する場所が

実際にあるわけですからね。

 

 

 

 

 

 

浦島太郎伝説と

この横浜になる浦島観音堂の

 

由来や歴史を気にしたり

調べている方が多くいるようで

 

私よりもこちらのHPを書かれている

方々のほうが詳しいので

 

浦島太郎伝説とこの浦島観音堂に

ご興味のあるかたは

 

下のリンクのHPをご覧になると

よいかと思います。

 

 

この浦島観音堂のあるお寺 慶雲寺さんオフィシャル HPです。↓

 

浦島伝説 | 宗教法人慶運寺|浄土宗 吉祥山 茅草院 慶運寺 (keiunji.jp)

 

 

お散歩日記さん。↓

浦島観音堂(横浜市神奈川区神奈川本町)|散歩日記 (sanpo-nikki.com)

 

 

猫のあしあとさん。↓

 

慶運寺。横浜市神奈川区神奈川本町にある浄土宗寺院 (tesshow.jp)

 

 

 

 

 

 

浦島観音堂の前にある石塔です。

 

齢廟塚所なので

先祖や先人の霊を祭る石塔で

 

淳和天皇 勅願所の

古跡であることが刻まれています。

 

浦島氏は実在する氏の

苗字だったように思えます。

 

私見ですがそういえば

私も室町時代の幕府将軍

 

足利 義晴 公の命により

その地域の守護に携わった家系の

 

周辺には、その当時の名門武家の

家系の子孫がたくさんおり

 

浦島氏という姓の古い家の

子孫にあったことがあり

 

浦島氏という名門士族が

日本の歴史上の過去に

いたように思えます。

 

 

 

 

 

 

 

齢廟塚所なので

先祖や先人の霊を祭る石塔で

 

淳和天皇 勅願所の

古跡であることが刻まれています。

 

淳和天皇(じゅんなてんのう)

在位期間は 弘仁14年 (西暦823年)から

天長10年(西暦833年)の期間であり

 

その勅願所が横浜のこの場所にある

といことは 

 

淳和天皇とこの地域の結びつきも

非常に近い場所で

 

当時国の安寧を実現するにも

とても大切な寺社さん

だったことでしょうね。

 

 

浦島観音堂には

この写真のお姿の観音像の

ご本尊が安置されていて

 

観音堂の扉の格子の隙間から

今も直接ご本尊の観音様を

 

直接拝見することが

出来るようになっているので

 

浦島伝説にご興味のある方は

直接足を運んで

 

是非訪れてみては

いかがでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

今日の旅のかてらに

慶雲寺の社殿で

 

お参りしお賽銭を

させて頂きました。

 

由緒正しい

立派な寺社さんですね。

 

 

 

 

慶雲寺さんの

境内の一角には

 

めだかの

学校があって

 

 

小さくて可愛らしい

めだかさん

 

がいるのです。

 

 

 

 

 

 

かわいい

めだかさん。

 

 

 

 

 

 

 

めだかの

学校です。

 

 

 

 

 

 

 

小さな

おたまじゃくしも

いました。

 

 

 

 

 

 

亀はいないのですが

現在の住職さんの

 

その優しさと考えが立派で

とても感服させて

頂きました。

 

 

 

 

 それでは 横浜 慶雲寺さんを離れて

 次の場所に移動します。

  

 

 つづきます。