お台場レインボーブリッジ 想い出。㉓ | KEN ituki

お台場レインボーブリッジ 想い出。㉓

 

 

木々の隙間から

見えるのがレインボーブリッジです。

 

レインボーブリッジって

車を運転せずに

 

橋桁から見上げる機会は

なかなかないので

 

海の近くに

歩みよって海にかかる

 

レインボーブリッジの

景色を見てみましょう。

 

 

 

 

 

 

女性なら男性の運転する

車の助手席から

 

高層道路上のこの橋の

景色を

 

いろいろな想い出とともに

良く眺めている方も

多いかもしれませんね。

 

1994年頃東京や神奈川の

若い子達に流行った

 

夜のドライブスポット

ですからね。

 

 

 

 

 

 

人がこの橋の

歩道を歩いていますが

 

お台場方面から

この橋を

 

徒歩で渡り切るには

結構距離があって

 

こちらの方面から

レインボーブリッジを

渡ると

 

芝浦や白金高輪駅や

品川駅方面に

行けるのですが

 

一日のお散歩の旅の

計画なら綿密な

 

計画を立てて

電車などを乗り継いだ

 

徒歩を含めたお散歩を

計画しない

ときついかなって思います。

 

 

 

 

 

 

たしか

レインボーブリッジの開通は

 

1993年のことで

平成5年頃のことだと思いますが

 

クリスマスの夜景にこだわる

独身男性の車好きが

 

当時こだわり

やけに憧れた場所で

 

ああー

女性にモテルことも

大変なのねー

 

なんて感じてしまいますが

 

 

私のブログこの回の

 

私のお話しの論点は

そこではなくてね。

っという感じです。

 

 

 

 

 

ようはこのあたり

ベイエリアで海沿いなわけで

 

このあたりの地域開発は

過去に、臨海副都心計画

 

という開発事業が

東京都や国によって

策定されて

 

開発をされて来た

場所なのですが

 

その計画が本格化する

10年前は

 

新宿副都心計画という

新宿の再開発事業に

 

政府や東京都は

注力していたわけで

 

1980年代の流行の発信地は

一時は新宿といっても

良い時代があって

 

ちょうどその頃の

アメリカのNYみたいな感じが

 

新宿駅周辺のイメージというか

そんな感じで

 

他は山の手線の渋谷や原宿

六本木などもありましたが

 

当時の都会の最先端のイメージの

中心は新宿だったように

記憶しています。

 

まあ、その頃は私はまだ

小学生や中学生

 

または

高校生くらいの時で

 

バブル景気にわく

日本社会の中で

 

育っていった

わけですけれどね。

 

 

 

 

 

1990年になると

その頃には 西新宿にある

 

東京都庁舎も完成し

それが完成すると新宿副都心の

 

再開発事業も

ほぼ完成に近くすいたような

かたちとなり

 

副都心再開発事業や

社会の流行の流れも

 

お台場や汐留のベイエリアに

目が写りお台場や汐留周辺が

注目を集めるわけです。

 

その初期は、有明や

青海付近の

 

MZA有明のライブハウスや

東京ビッグサイトの東京国際展示場

 

中期になると

 

ビーナスフォートや

パレットタウンとかかな。

 

そんな施設が続々とベ

イエリアにオープンして

 

TV局なども

このお台場などに
移転して来るのでした。

 

ファッションや文化の発祥など

その頃は新宿から

 

お台場のベイエリアへと

大きく流れが変わった頃で

 

このあたりのエリアは

現在のベイエリアの

 

高層タワーマンションブームの

先駆という場所であった

 

といっても

良いかもしれません。

 

そんな時代の場所が

このお台場や

 

汐留などの地域と

いえるかな。

 

 

 

 

 

時の移り変わり

時代の変遷を

 

こんな場所でも

感じてしまいましたね。

 

 

過去のオートバイや

当時の自動車ブーム

 

も去って久しく

今はレインボーブリッジを

 

目指す若者は

どれくらいいるのかな

 

なんて

思ってしまいました。

 

なんとなく

懐かしくてね。

 

 

 

 

 

 

かつて東京中央線沿い

1980年代のことですが

 

その当時は、東京

高井戸や杉並、阿佐ヶ谷や

 

高円寺、吉祥寺の武蔵野市

周辺にも

 

小さな番組制作会社や

映像制作会社、音響関連の制作会社や

 

運営会社なども小さな会社が

いくつもありましたが

 

西暦2000年を超えてくると

デジタル映像の制作や

 

音響なども、このベイエリア近くに

会社やスタジオなどを移転する

 

動きが主流になって

中央線沿線や

 

わりと新宿から近い

山の手線の駅の音楽関連の

 

スタジオなども

その移転をする流れには

逆らえず

 

 

 

 

 

そこで働いていた

音響や映像などの制作スタッフは

 

当時困惑していろいろ

悩んだりしましたね。

 

当時は、今のように

地下鉄路線も

 

こんなに

たくさん整備されて

 

いなくて

古い漫画かさんや

演奏家さん達のクリエーターが

 

吉祥寺から中央線の

都市部あたりに住居や

 

アトリエなどを構える

ことも多かったかな。

 

 

1980年代は中央線の

吉祥寺から新宿、神田あたりに

 

音楽や映像関係者が

普段の仕事上よくいたり

 

お仕事に通っている

エリアだったので

 

番組などの制作会社が

ベイエリアに移転してしまうと

 

東京都下や相模原近辺から

電車で通うには

 

時間がかかりすぎてしまい

人によれば転職したり

 

お仕事を引退したりと

当時いろいろなことが

あったと思います。

 

 

だって

このエリアに

歳をとってから新居を構えるとか

 

マンションを借りるとか

考えても

 

土地や家賃の賃料なども

とても高価なので

 

住みかえたりマンションを

借りたりすることも

 

不可能な方も

多かったから

 

そんな普通は

あまり意識するような

 

ことのない

いろいろな事情もあって

 

 

 

 

 

1980年代の映像や音楽と

2000年過ぎた頃の映像や音楽の

 

作品では、いろいろと

毛色や雰囲気が大きく

違っている面があるのは

 

制作のそれに関わるスタッフが

大きく入れ替わっていたりする面も

あったりするので

 

なかなか古いアーテイストでも

自分の初期のスタイルを

 

踏襲する世界観を

表現し続けることは

 

それはそれで

難しく出来ない面があって

 

音楽でいえば

演奏家や作曲家

アレンジャーでさえも

 

そそれらの地域移転の

時代の波には

 

自分の生活や活動エリアから

生まれて来るものを

 

同じ形でスタッフやクリエーターの

ネットワークを良いかたちで

 

維持したまま

同じクオリティーと同じコンセプトで

 

維持して続けていくことは

至難の業で継続していくことも

難しかったことでしょうね。

 

まあ、人は年を取りますし

手や指や体も若い頃に比べ

 

動かなくなりますし

年齢により声も変わり

 

若い頃の声質は当然

維持できず

衰えて行くので

 

自分の音楽スタイルが

変わって行くことも自然なことですが

 

肉体全てのものは永遠ではなくて

唯一永遠に近い

 

永遠といえるものは

その時に残した作品だと

いえると思います。

 

 

 

 

 

 

この景色を見ていると

そんなことを思い出して。

 

 

 

 

 

何だか

切なくなりますよね。

 

 

 

 

つづきます。