東京都 武蔵野市 吉祥寺へ。⑲ | KEN ituki

東京都 武蔵野市 吉祥寺へ。⑲

 

JR高円寺駅から

JR吉祥寺駅を目指して

JR中央線に乗ります。

 

吉祥寺の地名についても

かなり深い由緒が

ある歴史なのでて

 

東京都武蔵野市の

吉祥寺にも

 

この日の旅で

行くことにしました。

 

以前に同じ路線の

JR中央線の駅近くの

 

散策で、八王子や国分寺にも

訪れたので

 

ちょうどこれで

中央線の寺のつく

 

駅名の地域は全部行った

ことになるのかな。

 

どうして

そんなことに

 

拘っているのか

のように

 

このブログの記事を

読んでいる方々は

 

そう思うかも
しれませんが

 

中央線の巷の噂話というか

情緒的感覚というか

なのですが

 

JR中央線は

西に行くたびに

 

寺の名前のある駅を

過ぎると

 

気温が1℃下がるなんて

言われていて

 

それは本当なのか

なんとなく体感してみたくて

 

吉祥寺に向かって

みようかな

なんて思いました。

 

 

 

 

 

 

 

時刻は

まだ夕暮れまで

 

もう少し時間があって

今日一日の時間を有効に

 

使って行くことも
大切ですよね。

 

ちなみに

この頃はまだ電車や

ホームの撮影については

 

今のように禁止的な決まりや

ルールはなくて

写真を上げていますが

 

私は公共交通機関の走行する

電車の写真は

 

路線移動移動的なメモ的な

写真としてしか

 

撮らないのですが

そんなメモ写真でも

 

白い目で見られたり

煩わしいルールで

 

そんなことも縛られたりと

なかなか難しい

時代になりましたよね。

 

電車の写真て私は

まったく興味がなくて

 

いろいろ

いい迷惑という感じです。

 

そんな時代。

 

 

 

 

 

話しは変わり

吉祥寺についてです。

 

吉祥寺という地名の由来は

太田 道灌 公 が江戸城を

築城する時

 

発見した金印

銅印ともいわれているようですが

 

現在の江戸城跡の和田倉門の

井戸を掘ったところ

 

「 吉祥増上 」と掘られた

 

刻印の印を発見し

これが

 

めでたいということで

吉祥庵を立てたことが

 

始まりと

云われているそうです。

 

たしかに江戸城跡から

南に3Km程行った場所には

 

増上寺があり

増上と吉祥という言葉は

 

何らかの結びつきの

意味合いが強いように思います。

 

 

 

 

 

 

のちに吉祥庵は

吉祥寺となり

 

徳川 家康 公 の時代に

和田倉門から

 

東京水道橋に移転するのですが

江戸時代の大火により

 

水道橋の吉祥寺の伽藍と

町は燃えてしまい

 

(おそらくですが、明暦3年 1657年 明暦の大火を指すのでしょう)

 

その後

現在の東京 駒込に吉祥寺が

移転し再築されたそうですが

 

駒込付近の町民や村民は

吉祥寺の水道橋から

駒込への移転にともない

 

 

居住を

現在の武蔵野市の吉祥寺

過去の 牟礼野村 札野村 に

 

移して新たな生活するること

になったそうで

 

 

「吉祥寺を駒込に再建するというので、駒込の人々が、郊外へとおいやられました。」

武蔵野界隈むかし語り があるそうですが

 

武蔵野市 吉祥寺の地名の由来は

そのようにしてついたという説や

 

水道橋の吉祥寺と町が焼失し

水道橋に住んでいた住人が

 

幕府の都市政策や計画により

江戸城下の防災防火 施策により

 

水道橋付近で生活することは

できなくなり

 

牟礼野村 札野村など 現在の吉祥寺に

新たな生活を送るために

移り住むことにり

 

水道橋の吉祥寺をなつかしんで

牟礼野村 札野村などの

 

このあたりの地名を

吉祥寺をなつかしみ

付けたなど

 

複数のお話しもあるのですが

どちらが正解なのかは

断定することも出来ず

 

そしてどちらも

なんとなく不自然で

 

 

 

 

 

そんな

なんとなく

 

不思議な地名の

由来の伝わる吉祥寺

 

私が思うにはですが

地名は幕府の許可や

 

幕府の熟慮検討の上で

決まるもので

 

民衆から地名が名付けられる

ことは、あったとしても

まず希なように思えますし。

 

強制的に移住転居させられた

恨みや怨念なような

 

感情からそう

名付けることは

まず考えられませんし

 

なかなか

ふに落ちない難問な気がします。

 

 

 

 

 

武蔵野市吉祥寺という場所は

井の頭弁財天には、源 頼朝 公が

 

訪れた伝承があり

過去歴史上で偉大な英雄である

 

太田 道灌 公 の発見した印が

吉祥の意味でとても

キーになるように思います。

 

江戸城は太田道灌公が建城した

時点で

 

金印を持つ資格のある誰かが

以前の歴史の中でその場所に居て

 

江戸城建築のために

和田倉門の井戸を掘ったら

 

過去の大切な遺物が出てきた

わけで

 

もしもそれが銅製で

銅の純度が高いものであれば

 

数か月程度の放置で酸化し

銅の錆びた褐色に見えるのが普通で

 

金色となれば、やはり

金の含有量が非常に高い印なはずで

 

漢字を日本という国が使い始めたころを

想像すれば

 

西暦で600年を過ぎたあたりの

頃だとしても

 

何だかとっても面白い

謎ですよね。

 

 

 

 

 

 

 

そんな歴史の謎を

作家のように

 

頭の中で考えながら

ゆっくりと

 

吉祥寺の商店街の喫茶店で

コーヒーでも飲んで

 

休憩するのも

面白くおつなものでしょう。

 

 

 

 

そういえば

吉祥寺とか吉祥院とか

 

過去に日本各地では盛んに

信仰された時代があったようで

 

羽村市にある阿蘇神社の近くにも

過去に吉祥院があったようですが

 

過去の吉祥信仰について

考えてみると面白く

 

また深い謎が生まれて来る

謎がまた

 

歴史のロマンを呼んで行く

展開になりそうですね。

 

 

次回につづきます。