神奈川県 披露山公園へ つづき ⑦ ハイキングコース パート2 | KEN ituki

神奈川県 披露山公園へ つづき ⑦ ハイキングコース パート2

 

ハイキングコースの

山道を、下りきった

 

先に、突然目の前に

こんな景色が開けました。

 

お寺があり、人の姿も

見えるようです。

 

無事に海沿いの

逗子の海岸線の道路に

 

たどり着いたようです。

 

 

 

 

 

 

ハイキングコースの

山道から湧いていた

 

湧水は、ここに

こんな感じの瀧になって

 

上の写真のお寺の横に

瀧になり落ちてました。。

 

 

 

 

 

 

 

この瀧は、高養寺

というお寺で、明治時代の

 

政治家、そして日銀総裁

正二位大勲位 子爵 

 

高橋 是清 氏 と

 

第29代 内閣総理大臣を

務めた

 

正二位 勲一等 

犬飼 毅 氏と

 

お二人の協力により

 

葉山町にあった

慶増院から 堂宇建物が

 

移設されたようで

寺社名は、この

 

お二人の苗字の

二文字を頂いて

 

高養寺と

名付けられたそうです。

 

犬飼 毅 氏 といえば

私の記憶では

 

言葉や正しさ、論理性を

大切にする、素晴らしい人格者で

 

藩閥や民主主義の

立憲政治という、当時の

 

時流的な思想や行動面ではなく

その、人として国の代表者と

 

しての生き方や、常に対話を

中心とした物事の遂行の姿勢など

 

私の心よ尊敬する

政治家の一人でもあったりします。

   

披露山の山の上には

尾崎行雄 氏の記念碑

 

そして、山の下には

高養寺、この意味が

なんとなくわかる感じです。

 

このお二人は、憲政の

神様と呼ばれる人物です。

 

なぜ、葉山町の今は無き

慶増院から堂宇建物が

 

移設されたのか、私には

定かではありませんが

 

明治期から昭和にかけては

道路や鉄道などの、公共工事も

 

当時の新交通としての

期待度も高く、

 

寺社や旧家などの敷地に

線路や、駅、道路などが

 

通ることが多く、旧都市計画法の

公共事業なので、現在のような

 

環境アセスメントや、土地や

建物所有者の了承のない

 

有償立ち退きが行われる

旧法律下なので、道路や鉄道の

 

路線開通前の、日本の昔の姿の

寺社や、旧家の家並みの姿は

 

それ以前とそれ以後では

敷地形状も大きく違ったり

 

移転なども多く行われたので

江戸時代のものと同じ姿を

 

とどめているところは少ないのが

現状で、東京都心部などでは

 

空襲などもあったので、古い寺社や

旧家の家屋などは、見かけることも

あまり無いのですけれどね。

 

なぜ、葉山町の慶増院の姿が

今は見あたらないのか

 

知っている方がいたら

教えて欲しいですね。

 

この高養寺のもともとの

場所には、不動尊が昔から

 

祭られていたそうで

鎌倉時代などの

 

古い時代には、御屋代や

庵などが、もしかすると

あったのかもしれませんね。

 

岩盤に流れ落ちる

瀧は、3~4程の高さがあるかな。

 

雨量の少ない時期は

水量も多くないのですが

 

夏はもしかすると

涼めるかも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この建物が高養寺

海沿いの寺社は

 

のどかな風情があって

居心地が良いですね。

 

 

 

 

 

 

 

浪子不動、なんとなく

不思議な、お不動様の

 

名前ですが、このお不動様の

名前の由来は、明治時代の

 

文豪、徳富蘆花の小説

不如帰の作中舞台となった

 

この逗子と作中のヒロイン

浪子の名前をとり

 

昔からあった不動尊に

浪子の名前を付け

 

浪子不動尊と後年に

呼ばれたものだそうです。

 

海といえば、波は荒れ

帰らぬ遭難も多発した

 

時代のこと、海の若い男を

丘で待つ浪子のヒロインの

 

姿は、海の男からすると

理想で可愛いらしいもの

 

海からの無事の帰りを誓い

港を他なれる地元の漁師さん

 

に愛された、お不動様に

そんな名前が付く理由も

納得できますね。

 

 

 

 

 

 

浪子不動 高養寺

そんな名前の 表札塔に

 

普段では、通りすぎて

気が付かない

 

その土地々の深い歴史と

人々の思いがあるのでした。

 

 

 

 

 

 

 

海岸線の車道の

高さから見た高養寺

 

 

 

 

 

 

 ホトトギス

 ふじょき 

 

 と名の読み方は

 徳富蘆花 氏は この小説を

 

 書き上げた後年、ふじょき と

 自分の作品をそう呼ぶことを

 

 決断したそうですが、実際の

 作品イメージでは ホトトギス で

 

 小説を書き、後年の照れ隠しで

 ふじょき、として自分の作品を

 

 読者一般への公開作品ように

 そう呼んだのではないかな

 なんて思えます。

 

 作家や作詞家の、ちょっとした

 照れ隠しや、作品を読者や

 

 視聴者に簡単に理解

 されたくない

 

 素直になれない

 真理の一面は、よくこんな

 ことを、提起したりするものです。

 

 完璧に理解されてたまるか

 私は作家、作り手であり

 

 その作品の本当の世界は

 作者である、私の心の中にある

 

 という、作者の

 意地でもあるのでしょう。

 

 この不如帰の、字体は

 記憶では、徳富蘆花 氏の

 

 兄の直筆を、この海の底に

 沈んでいた石に

 

 刻んだもので、この石自体は

 江戸時代に、鍋島藩が

 

 江戸城修築工事のため

 その資材のため、伊豆より

 

 船でこの石を運んだそうですが

 大崎沖で、嵐にあい

 

 船が難破して、置き去りになった

 と伝えられている石に、不如帰の

 

 文字を刻み、昭和8年に

 この地に設置されたそうです。

 

 重くて大きく立派な石ですね。 

 

 

 

 

 

 

 

逗子海岸を静岡方向に

車で通り、道路の海の

 

ガードから、ちらっと見える

石塔はこの石だっのでした。

 

ちょうど、夕日が差す時間

ここを通りかかると、とても美しく

 

心洗われるような、清々しい

逗子の海と、この石塔が

 

アクセントになり、風景が

綺麗で、今日はとっても

 

良いものを見れたな、なんて

嬉しくなってしまう場所でもあるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

徳富蘆花 氏の小説は

文体や言い回し

 

描写や情緒などの

表現が、作品にも

 

よりますが現代でも美しく

古い小説ですが、作品名で

 

猫 などは 今でも

読みやすく

 

機会があれば

読んでみるのも良いと思います。

 

動画などでも、短い朗読が

あるようですけどね。

 

私は、ライセンスなどの

詳細はわからないので

 

小説を購入するか

図書館などで

 

借りて見ると

良いと思います。

 

徳富蘆花 氏の

晩年は、療養中に

 

伊香保で没し死因は

結核であったような

 

記憶がありますが

私の記憶違いかもしれません。

 

当時は、結核が流行り

命を落とす人がたくさん

 

いたので、とても才能のある

文豪を失ってしまいました。

 

 

 

写真は、この場所に立つ

徳富 蘆花 氏 の板碑です。

 

徳富蘆花氏を

偲び

 

徳富蘆花 氏の

 門下のかたが

建てられたようです。

 

 

徳富蘆花 氏は

記念館もある

 

有名な人物なので

徳富蘆花 記念館などを

 

機会があったら

訪れて見るのも良いと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

徳富蘆花の板碑のある

この広場にも

 

セキレイちゃんがいました。

道案内お疲れ様です。

 

山の上のセキレイちゃんと

この山の下のセキレイちゃん。

 

羽色と配色が

似ているから

 

親子なのかも

しれませんね。

 

 

 

 

 今回は、明治時代の

 有力な政治家と、文豪、そして歴史と

 

 とてもボリュームの大きい

 記事になってしまいましたね。

 

 お読み頂きありがとうございます!

 

 次回につづきます。